第6話 十秒の護り
コラボ配信を終えた数日後の夜。 久我蒼は、コンビニからの帰り道を一人で歩いていた。
イヤホンから流れるのは、海外の経済ニュースのポッドキャスト。 片耳だけでそれを聞き流しつつ、もう片方の耳は夜の街の音を拾っていた。
時刻は午後九時を回っている。 駅前の賑わいから離れた、住宅街へと続く少し寂れた商店街。 シャッターの降りた店の前を通り過ぎようとしたとき、路地の奥から不穏なノイズが漏れ聞こえてきた。
「おい、無視すんなって」
「や、やめてください……!」
低く粘りつくような男の声と、怯えた少女の声。 蒼の足が止まる。 普段の彼なら、面倒事を避けるために足早に立ち去るか、離れた場所から通報して終わりにするシチュエーションだ。
だが、その少女の声には聞き覚えがあった。
蒼は目を凝らし、暗がりの中を覗き込む。 街灯の明かりが届かない路地の奥。二人の男が、一人の少女を壁際に追い詰めている。 制服のブレザー、肩にかかる柔らかな髪。 クラスメイトの**朝比奈紗月**だ。
教室ではいつも穏やかに微笑んでいて、誰にでも優しい図書委員の女子。 そんな彼女が今、恐怖で体を震わせ、鞄を盾にするように抱きしめている。
「ちょっと遊ぶだけだって。な?」
男の一人が手を伸ばす。 紗月が小さく悲鳴を上げ、身を縮める。
蒼の胸の奥で、警報が鳴り響いた。 見て見ぬふりをするという選択肢は、瞬時に棄却された。 今の彼には、警察の到着を待つよりも早く、確実にこの状況を解決する「カード」がある。
(……使うか)
相手は二人。体格差はあるが、武器を持っているかは不明。 普通に飛び込めば返り討ちに遭うリスクが高い。 だからこそ、絶対的な情報優位が必要だ。
蒼は深く息を吸い、心の中でトリガーを引いた。
(見たい)
視界が二重になる。 現実の風景の上に、十秒後の未来がオーバーレイされる。
映像は鮮明だった。 手前の男が紗月の腕を強引に掴もうとする。 もう一人の男が、退路を塞ぐように横へ動く。 紗月が抵抗し、手前の男が苛立って右手を振り上げる――その瞬間、男の足元にある空き缶が転がり、わずかに体勢が崩れる。
そこだ。 そこだけに勝機がある。
十秒という短い未来の中に描かれた「確定事項」。 それを確認した蒼は、迷わず路地へと足を踏み入れた。
「――こんばんは」
努めて冷静に、日常の延長のような声で話しかける。 男たちが驚いたように振り返った。
「あ? なんだテメェ」
手前の男が凄む。チンピラ風の粗暴な男だ。 蒼は歩みを止めず、相手の間合いへと自然に入り込んでいく。
「その子、僕の連れなんです。返してもらえますか」
「はぁ? 何言ってんだ、ガキが」
男の顔に怒りが浮かぶ。 ここから先は、さっき見た「映像」の再現だ。
男が右肩を怒らせ、威嚇のために一歩踏み出す。 その足が、地面に転がっていた空き缶を踏むタイミング。
男の体勢がわずかに泳ぐ。 その一瞬の隙を、蒼は見逃さなかった。 未来を知っているからこそできる、コンマ一秒の先読み行動。
蒼は男の懐にするりと入り込み、バランスを崩した相手の足首に、軽く自分の足を掛けた。 そして、倒れようとする方向へ、肩でひと押し。
「っと……!」
男は声にならない声を上げ、派手に後ろへ転倒した。 受け身も取れず、アスファルトに背中を強打する。
「ぐっ……!」
呻く男。 もう一人の男がギョッとして、「て、テメェ!」と拳を握りしめる。 だが、蒼はすでに次の手を打っていた。 ポケットからスマホを取り出し、画面を相手に見せる。
「通報しました。あと数分で警察が来ます」
画面には「110」の文字。発信ボタンはまだ押していないが、暗がりではわからない。 物理的な制圧よりも、社会的な制裁への恐怖の方が効く。
「この辺、防犯カメラも多いですよ。逃げるなら今のうちですけど」
蒼の冷徹な瞳と言葉に、男たちは気圧された。 倒れていた男が痛みをこらえて起き上がる。
「チッ、クソが……覚えてろよ!」
捨て台詞を吐き、二人は逃げるように路地の奥へと消えていった。 足音が遠ざかるのを確認して、蒼はスマホをポケットにしまった。 ふぅ、と小さく息を吐く。 心臓が早鐘を打っていた。ゲームや相場とは違う、生身の緊張感。
蒼は振り返り、へたり込みそうになっている紗月に手を差し伸べた。
「……大丈夫? 朝比奈さん」
紗月は涙目のまま顔を上げ、蒼の顔を見て呆然とした。
「……久我、くん?」
クラスで目立たない男子が、突然現れて自分を救ってくれた。その事実にまだ頭が追いついていないようだ。 彼女は震える手で、蒼の手を握り返した。指先が氷のように冷たい。
「あ、ありがとう……。怖かった……」
「怪我はない?」
「う、うん……」
「よかった。家まで送るよ。一人じゃ危ないから」
蒼は彼女の鞄を持ち、優しく促した。 二人は並んで、夜の道を歩き始めた。
◇
帰り道、紗月は少しずつ落ち着きを取り戻していった。 街灯の下を歩きながら、ぽつりぽつりと話し始める。
「部活の資料を取りに戻ってて、遅くなっちゃって……。近道しようとしたら、あんなことに……」
「運が悪かっただけだよ。無事で本当によかった」
蒼は淡々と答える。 ヒーローぶるつもりはない。ただ、能力の使い道として「正解」を選んだだけだ。
「久我くんって……すごいんだね」
紗月が横顔を見つめてくる。その瞳には、今まで教室では向けられたことのない、強い信頼と尊敬の色が宿っていた。
「あんな怖い人たち相手に、全然動じないで……。足掛けたところ、映画みたいだった」
「……たまたま相手が躓いただけだよ。僕は何もしてない」
蒼は肩をすくめてごまかした。 だが、胸の奥には、チャートで利益を出した時とは全く違う種類の充足感が広がっていた。 数字が増える喜びではない。 生きた人間の体温を守ったという、確かな手応え。
「でも、ありがとう。久我くんがいなかったら、どうなってたか……」
紗月の家の前に着くと、彼女は深く頭を下げた。 そして、顔を上げて恥ずかしそうに微笑む。
「あの……お礼、させてね。今度、図書室で」
「気を使わないでいいよ。クラスメイトだし」
「ううん、私がしたいの。……じゃあ、また明日、学校で」
彼女は小さく手を振り、門の中へと消えていった。
一人になった蒼は、夜空を見上げた。 手のひらに、彼女の手を引いた時の感触が残っている。
FXで金を得て、配信で承認を得た。 そして今、この力で人を守った。
(……悪くない)
蒼は自分の右手を握りしめ、確かめるようにつぶやいた。 誰にも言えない秘密の能力。 それは孤独な力だが、使い方次第では、誰かの平穏を守る盾にもなる。
帰宅して自室の机に向かった蒼は、ノートの端に新しいメモを書き加えた。
『リスク管理:物理的接触は極力避ける』 『緊急時:人を守るためには、迷わず使う』
机の上のモニターは、相変わらず無機質なチャートを映し出している。 だが、今夜の蒼には、その数字の羅列よりも、別れ際の紗月の笑顔の方が、鮮烈な「現実」として焼き付いていた。
明日、教室で彼女に会ったら、どんな顔をすればいいだろう。 そんな、高校生らしい悩みが少しだけくすぐったかった。




