月が消えた日、狼は何をするのか。
月が消えたのは、火曜日の午後5時だった。
地球軌道上で炸裂した第七世代核弾頭が、天体としての月を吹き飛ばした。潮は止まり、夜は崩れ、暦は意味を失った。人類は、自身の過ちを手遅れながら痛感する。自らのエゴのために戦争をし、その結果一つのミスで夜を失ったのだ。
その夜、森の奥で男は目覚める。その体には毛皮などなく、懐かしき野生の感覚は存在しない。
男は魔女に騙され人間にされた狼だった。「呪いをかけられて七日目の月を見れば、狼に戻れる」それが呪いの解呪条件だった。
途方に暮れた男は、森を歩き続けた。もう月はないのに、光を求めるように彷徨い続けた。
そんな時、ある少年に出会った。
「僕? こんなところにいたら危ないよ?」
「いいの。もう地球は終わるんでしょ?」
少年は、まるで天気の話でもするように言った。その瞳は曇っていなかった。むしろ、澄んでいた。
男は言葉を持たない。狼だった頃は吠えるだけでよかった。今は、喉に言葉が詰まっている。出し方がわからない。出すことができない。初めての感覚を、男は覚えた。
「お兄さん、名前はあるの?」
男は首を振った。
少年は少し考えてから、笑った。
「じゃあ、僕がつけてあげる。……ルカってどう?」
ルカ。どこか懐かしさを男は感じた。聞き覚えのない名前なのに。
「君、月を探してたんでしょ?」
少年は空を見上げた。そこに月はなかった。ただ、黒い空と、星の残骸のような塵が漂っていた。
「僕も探してた。夜が怖くて、月が好きだった。でも、もうないから……君と一緒に探してもいい?」
男は不思議な感覚だった。この少年に不気味さを感じながら、謎の安心感を覚える。「どうせもう何もできない。」そう思った男は、この少年と世界の終末を見届けることにした。
男は少年を連れ狼時代によく行った崖に登り、最期の時を待つ。あと数分で、大量の月の欠片が地球に落ちてくる。みな平等に死ぬ。
「ルカはさ、なんのために生きてるのか考えたことがある?」
「……さぁな、深いことは考えた事ねぇよ。」
迫ってくる星の破片を見上げながら、男はそう答えた。冷静に語りかける少年に。どこか自分と同じものを感じる。
魔女に呪いをかけられたとき、苦しみから解放されるために命を諦めようとした男は感情というものを忘れた。諦めた時に、人はみなすべてを失ったように感情を失う。この少年もそうだ。すべてを諦めている。楽しさを少し感じれる話し方をしていた少年の目に、すでに光はなかった。
「あ、もう終わりみたいだ。楽しかったよ、ルカ」
「……ルカ……」
世界の終わりを目の前にして、男はようやく思い出した。ルカは、彼の母の名前だった。群れを追放された母は、一人で男を育ててくれた。その母も、目の中に光が無かった。
母と少年を重ねていた男は、最期に少年に笑顔で人生を終えて欲しかった。
「なぁ、世界が終わっても残るものはあると思うか?」
少年は空を見上げた。星の欠片が、尾を引きながら落ちてくる。空が、音もなく裂けていく。
「急に深いね。でも……そうだね。何も残らないと思うよ。全部消える。」
少年は静かに笑った。その笑みは、かつて母が見せたものに似ていた。光のない瞳の奥に、確かにあった微かな温もり。男はそれを感じていた。
「でもさ、俺たちが過ごした時間は、消えないんじゃないか?」
少年は言葉を失った。男の声が、夜の代わりに少年の心を照らした。
「少なくとも、俺はお前のことを地獄に行っても覚えてるよ。」
少年は、初めて涙を流した。それは悲しみではなく、嬉しさの涙だった。
「ありがとう。そんなこと言ってくれたの、ルカが初めてだ。」
そして、少年は語り始めた。いじめられていたこと。母に虐待を受けていたこと。死のうと思っていたこと。森で静かに消えようと思ったこと。
「……まさか、そこで会った人に救われるなんてね。」
男は、少年の笑顔を見つめた。その笑顔は、もうないはずの月を思わせた。そして、男の肌には、確かに毛皮の感触が戻っていた。毛皮などもうないのに。あるはずもないのに。
月は消えた。でも、男はそれよりも明るく、大切なものを見つけた。
二人は笑顔のまま、星の欠片が地上に降り立つのを見届けた。