『北川古書店』【9】叔父さん帰り・告白・悩み
人の人生には、受け継ぐべきものと、手放すべきものがある。
叔父の帰還とともに訪れた大きな変化は、雅人にとって単なる古書店の未来ではなく、自分自身の在り方を問う時間となっていく。
それは、大人への扉を開く一歩だった。
『北川古書店』【9】叔父さん帰り・告白・悩み
四月二十日、木曜日の午後五時ごろ、メールが届いた。
「雅人君、長い間ありがとう。明日、退院することになった。午後には店に行けます」
勇叔父さんからの連絡だった。
翌日の午後三時。
「ただいまー」
玄関から元気な声が響いた。勇叔父さんと洋子さんがふたり並んで帰ってきた。
「洋子さん、どうしたの?」
「蓼科まで車で迎えに行ってきたのよ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「雅人、長い間ありがとう。感謝している」
「洋子さんが二回来てくれたのが、本当に嬉しかった」
「霧ヶ峰高原を車で走っていたら、実に爽快だったよ。青空の下で解放された気持ちで、いろんなことが話せたし、確認もできた」
「それは良かったですね」
「でも……良くないこともあったんだ」
勇叔父さんはしばらく言い淀んだあと、意を決したように語り出した。
「雅人君、聞いてほしいことがある。洋子さんにはもう話したんだ。五十日間の静養と精密検査をしてもらったんだけど、影が少しずつ増えているらしい。状態は……良くはならないそうだ」
「余命が限られている、ということですね」
「うん。洋子さんの実家が松本にあって、今は空き家になっている。そこでゆったりと暮らさないかと誘われた」
「……北川古書店はどうするんですか?」
勇叔父さんは、しばらく店内を見渡した。
「ここまで良い店になるとは思っていなかったから、正直、踏ん切りがつかないんだ」
洋子さんに目くばせする。彼女は小さく頷いた。
「雅人君、ふたりは以前から交際していたの。これを機に、元気なうちに松本へ移住して、勇さんを支えてあげたいと思ってるの」
「山口さんの蔵書の整理に意欲が湧いてね。改築が終わるまでは頑張るつもりよ」
「大学を卒業するまで頑張る。もっと立派な古書店にするつもりだ。雅人に手伝ってもらいながら……」
「だから雅人君に託したい。この古書店を、ぜひ続けてほしいんだ」
「君の進路を左右するのは心苦しいが……お願いできないか」
「松本の家を改築してから移住したい。独身だったから、少々の貯えはある。設計事務所に依頼して、完成まで十ヶ月ほど。そのあと松本で暮らすつもりだ。……これは私の我儘かもしれないけど、聞いてほしい」
「霧ヶ峰高原は素敵なところだった。落ち込んでいた気持ちが、少しずつ解放されていった。そこでようやく素直な気持ちになれたんだ」
「洋子さんには悪いと思って、ずっと言えなかった。でも、ようやくこのタイミングで話せた。洋子さんが、許してくれた」
「もっと早く決断すべきだったと思ってるよ」
「叔父さん、私が大学を卒業するまでは、毎日二、三時間は店に来れると思います。……でも、就職活動もあるし、今後の方針も決めなきゃならないし……」
洋子さんが真剣な顔つきで言った。
「私は、勇さんと有意義に生きてみたい。この古書店は雅人君が守ってきたのだから、彼に譲るべきだと、そう勇さんに伝えたの」
雅人は、大きな決断を迫られていた。
「……俺のことを考えてくれた洋子さんに感謝してる。雅人君、よろしく頼むよ」
ふたりは揃って雅人に頭を下げた。
「第二の故郷になる松本は、温泉も近くてたくさんある。蓼科もすぐだし、日本の中心だから、どこへでも行ける。旅行もしたい。雅人、蓼科は良い所だよ。ぜひ一度、招待したいね」
——思いもよらぬ展開に、雅人は悩み始めていた。
父と母に相談すると、父はあっさり言った。
「雅人は次男だから、勇さんの家をもらって住めばいいじゃないか。なあ、母さん」
「いいんじゃないの?」
あっけないほど簡単な結論だった。
——そうじゃない。
古書店をどうするかの問題じゃないのだ。
雅人が、これからどう進むか。それが問題なのだ。
平日は学校に通い、勇さんが店を切り盛りする。
週末はふたりで松本に行くのが日課になっていた。
山口さんから買い取った古書は、整理して一階に展示してある。
レコード盤はショーウィンドウの店側に特設コーナーを作り、中央にはトスカニーニ指揮のベートーヴ ェン交響曲全集が置かれていた。
その写真がSNSで話題となり、「北川古書店に貴重なレコードあり」と投稿され、コレクターたちが足を運ぶようになっていた。
勇叔父さんの決断と洋子さんの想いが、静かに雅人に託されました。
そして雅人自身もまた、自らの生き方を問うようになっていきます。
古書店はただの舞台ではなく、人生を映す鏡となって——。
次回、彼がどのような答えを見出すのか、物語はさらに深まっていきます。