【怖い話】神の水─序
最初に玄関のチャイムが鳴ったとき、俺はてっきり宅配便か何かだと思っていた。
「こんにちは! 突然の訪問、失礼します!」
ドアを開けると、そこにはスーツを着た中年の男が立っていた。日焼け一つない肌に、妙に濁った瞳。整いすぎた笑顔。暑さの中でも汗一つかいていない姿に、俺は軽く身構えた。
「こちら、“神の水”って言うんです。特別な泉から汲み上げた、極めて希少な水なんですよ。初回は無料ですから、ぜひお試しください!」
そう言って、名刺と共に差し出されたのは、ラベルに金色の十字のようなマークが描かれた、普通のペットボトルだった。
「もし気に入っていただけたら、追加でのご購入も可能です。ご希望の際は、名刺の連絡先までお気軽にご連絡ください」
男はそう言って、深々とお辞儀をするとすぐに去っていった。
「なんだよ、この水……怪しすぎるだろ……」
俺は鼻で笑って、その水をキッチンの隅に置いた。
◇
数日後のことだった。
寝不足が続いていた。エアコンの風が変に湿っぽくて、体がだるく、喉が異常に乾いていた。
冷蔵庫には水がなかった。コンビニに行くのも億劫だった。
ふと、キッチンの隅に置いたままの“神の水”を思い出す。
怪しいとは思いつつも、喉の渇きには勝てなかった。変な味がすれば、そのときは吐き出せばいい。
俺はペットボトルの封を開け、恐る恐る口に含んだ。
「……うまっ」
思わず声が出た。
透き通るような味。冷たくもないのに、喉にすっと染み込んでいく感覚。癖がないのに、記憶に残る。不思議な水だった。
気づけば、一気に飲み干していた。
──その晩からだった。
真夜中に目が覚めると、部屋の空気が急に冷えるのを感じた。
窓は閉まっている。エアコンも切ってあるのに、冷たい空気が首筋を撫でた。
目を凝らすと、天井に何かが這っていた──気がした。瞬きした瞬間にはもう、何もいなかった。
「……気のせい……だよな……」
無理に目を閉じようとしたとき、ベッドの下から、湿った笑い声が聞こえた。
クスクス……クスクス……
──女とも子どもともつかない声。
心臓が跳ね、喉が詰まる。声が出せない。体も動かない。
──気づくと朝だった。
起き上がり、ベッドの下を覗く。何もいない。
俺の耳には、あの笑い声がまだ、しつこくまとわりついていた。
◇
次の週、例の営業マンが再び訪れた。
「神の水、いかがでしたか? 気に入っていただけたなら、定期購入をお勧めします。月々……そうですね、最初は一万円で結構です」
一万円? 水に?
ありえないと思ったが、口が勝手に「お願いします」と動いていた。
なぜか、あの水をまた飲みたかった。あの感覚が、もう一度欲しかった。
彼は満足そうに笑い、数本のペットボトルを手渡していった。
その日から、俺は毎日“神の水”を飲むようになった。
最初は元気が出た気がした。肌の調子も良くなり、食欲も増した。
だが、夜の霊現象は日を追うごとに激しくなっていった。
寝ていると、ドアの向こうで誰かがずっと話している声がを聞こえる。
「……け……て……」
開けると誰もいない。
ある日は、風呂場の鏡に、黒い手形がびっしりと浮かび上がっていた。
職場でも目の下のクマを心配され、ついには早退が続くようになり、最終的には退職した。
「このままじゃ……水が買えない……」
気づけば、俺はそう呟いていた。
◇
やがて、値段がじわじわと上がっていった。
「次回からは、一万五千円になります」
「また価格が変動しまして……今月は三万円に……」
俺は断れなかった。いや……どんなに大金を払ってでも、“神の水”を飲みたかった。
俺は金を借りて水を買い続けた。
やがてアパートの一室は、空になったペットボトルで埋まり、俺はガリガリにやせ細りながら、ただ“神の水”を飲むためだけに生きていた。
ある日、どうしてもお金が工面できなくなり、泣きながら営業マンに電話をした。
「……お願いです、“神の水”を! あれがないと……あれがないと……!」
電話口の向こうで、男は優しく言った。
「ふふ……では、特別に“源泉”へご案内しましょうか?」
俺は、二つ返事で了承した。
◇
連れていかれたのは、郊外の山奥だった。
森を抜け、小道を進み、まるで人里離れた聖域のような場所。
そこには、巨大な教会のような建物が建っていた。
中へ入ると、白いローブを着た人々がずらりと並んでいた。
皆、やせ細り、目は虚ろだ。だが、その顔には恍惚とした笑みが浮かんでいる。
中央には、大理石でできた巨大な水槽があり、その中に透き通った水がたっぷりと湛えられていた。
「これは……」
営業マンが言った。
「これが、神の水の“源泉”です。選ばれた者だけが、ここに来て、直接“恩寵”を受けられるのです」
俺は震える手で、その水に指を入れ、舐めた。
その瞬間、全身に電流が走った。
光が見えた。
天使のような存在が、俺に微笑んでいる。
涙が出た。
心の奥から、熱い何かがあふれ出す。
「……ああ……ああああ……」
営業マンからローブが渡される。
それを受け取り、俺はその場にひざまずいた。
周囲の人々と一緒に、声をそろえて祈りを捧げる。
「──主よ、水を、“神の水”を我に与えたまえ」
「──清め、洗い、導きたまえ……!」
一心不乱に祈り続ける者たち。
足元には、無数の黒い手形、擦り切れたローブ、人の形のようなシミ。
だが、誰も気にしない。
俺も祈り続けた。
喉を潤すためではない。
生きるためでもない。
ただ──
「主よ……水を……“神の水”を──」
それが、俺にとってのすべてになった。
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