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ホラー短編

【怖い話】神の水─序

作者: 小岩 正

 最初に玄関のチャイムが鳴ったとき、俺はてっきり宅配便か何かだと思っていた。


「こんにちは! 突然の訪問、失礼します!」


 ドアを開けると、そこにはスーツを着た中年の男が立っていた。日焼け一つない肌に、妙に濁った瞳。整いすぎた笑顔。暑さの中でも汗一つかいていない姿に、俺は軽く身構えた。


「こちら、“神の水”って言うんです。特別な泉から汲み上げた、極めて希少な水なんですよ。初回は無料ですから、ぜひお試しください!」


 そう言って、名刺と共に差し出されたのは、ラベルに金色の十字のようなマークが描かれた、普通のペットボトルだった。


「もし気に入っていただけたら、追加でのご購入も可能です。ご希望の際は、名刺の連絡先までお気軽にご連絡ください」


 男はそう言って、深々とお辞儀をするとすぐに去っていった。


「なんだよ、この水……怪しすぎるだろ……」


 俺は鼻で笑って、その水をキッチンの隅に置いた。



 数日後のことだった。


 寝不足が続いていた。エアコンの風が変に湿っぽくて、体がだるく、喉が異常に乾いていた。


 冷蔵庫には水がなかった。コンビニに行くのも億劫だった。

 

 ふと、キッチンの隅に置いたままの“神の水”を思い出す。


 怪しいとは思いつつも、喉の渇きには勝てなかった。変な味がすれば、そのときは吐き出せばいい。


 俺はペットボトルの封を開け、恐る恐る口に含んだ。


「……うまっ」


 思わず声が出た。


 透き通るような味。冷たくもないのに、喉にすっと染み込んでいく感覚。癖がないのに、記憶に残る。不思議な水だった。


 気づけば、一気に飲み干していた。


 ──その晩からだった。


 真夜中に目が覚めると、部屋の空気が急に冷えるのを感じた。


 窓は閉まっている。エアコンも切ってあるのに、冷たい空気が首筋を撫でた。


 目を凝らすと、天井に何かが這っていた──気がした。瞬きした瞬間にはもう、何もいなかった。


 「……気のせい……だよな……」


 無理に目を閉じようとしたとき、ベッドの下から、湿った笑い声が聞こえた。


 クスクス……クスクス……


 ──女とも子どもともつかない声。


 心臓が跳ね、喉が詰まる。声が出せない。体も動かない。



 ──気づくと朝だった。


 起き上がり、ベッドの下を覗く。何もいない。


 俺の耳には、あの笑い声がまだ、しつこくまとわりついていた。



 次の週、例の営業マンが再び訪れた。


「神の水、いかがでしたか? 気に入っていただけたなら、定期購入をお勧めします。月々……そうですね、最初は一万円で結構です」


 一万円? 水に?


 ありえないと思ったが、口が勝手に「お願いします」と動いていた。


 なぜか、あの水をまた飲みたかった。あの感覚が、もう一度欲しかった。


 彼は満足そうに笑い、数本のペットボトルを手渡していった。


 その日から、俺は毎日“神の水”を飲むようになった。


 最初は元気が出た気がした。肌の調子も良くなり、食欲も増した。


 だが、夜の霊現象は日を追うごとに激しくなっていった。


 寝ていると、ドアの向こうで誰かがずっと話している声がを聞こえる。


「……け……て……」


 開けると誰もいない。


 ある日は、風呂場の鏡に、黒い手形がびっしりと浮かび上がっていた。


 職場でも目の下のクマを心配され、ついには早退が続くようになり、最終的には退職した。


「このままじゃ……水が買えない……」


 気づけば、俺はそう呟いていた。



 やがて、値段がじわじわと上がっていった。


「次回からは、一万五千円になります」


「また価格が変動しまして……今月は三万円に……」


 俺は断れなかった。いや……どんなに大金を払ってでも、“神の水”を飲みたかった。


 俺は金を借りて水を買い続けた。


 やがてアパートの一室は、空になったペットボトルで埋まり、俺はガリガリにやせ細りながら、ただ“神の水”を飲むためだけに生きていた。


 ある日、どうしてもお金が工面できなくなり、泣きながら営業マンに電話をした。


「……お願いです、“神の水”を! あれがないと……あれがないと……!」


 電話口の向こうで、男は優しく言った。


「ふふ……では、特別に“源泉”へご案内しましょうか?」


 俺は、二つ返事で了承した。



 連れていかれたのは、郊外の山奥だった。


 森を抜け、小道を進み、まるで人里離れた聖域のような場所。


 そこには、巨大な教会のような建物が建っていた。


 中へ入ると、白いローブを着た人々がずらりと並んでいた。


 皆、やせ細り、目は虚ろだ。だが、その顔には恍惚とした笑みが浮かんでいる。


 中央には、大理石でできた巨大な水槽があり、その中に透き通った水がたっぷりと湛えられていた。


「これは……」


 営業マンが言った。


「これが、神の水の“源泉”です。選ばれた者だけが、ここに来て、直接“恩寵”を受けられるのです」


 俺は震える手で、その水に指を入れ、舐めた。


 その瞬間、全身に電流が走った。


 光が見えた。


 天使のような存在が、俺に微笑んでいる。


 涙が出た。


 心の奥から、熱い何かがあふれ出す。


「……ああ……ああああ……」


 営業マンからローブが渡される。


 それを受け取り、俺はその場にひざまずいた。


 周囲の人々と一緒に、声をそろえて祈りを捧げる。


「──主よ、水を、“神の水”を我に与えたまえ」


「──清め、洗い、導きたまえ……!」


 一心不乱に祈り続ける者たち。


 足元には、無数の黒い手形、擦り切れたローブ、人の形のようなシミ。


 だが、誰も気にしない。


 俺も祈り続けた。


 喉を潤すためではない。


 生きるためでもない。


 ただ──


「主よ……水を……“神の水”を──」


 それが、俺にとってのすべてになった。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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