【プロローグ】──選ばれた、はずだった
人に興味が持てなかった。
誰かと付き合いたいと思ったこともなかったし、
恋なんてものは、どこか遠い世界の話だと思ってた。
私の心は、ずっと“好きなもの”だけに向いていた。
アニメ、推し、グッズ、イベント――
自分だけの小さな世界にいれば、それで満たされていた。
現実の人間関係に期待していなかったし、
「どうせ裏切られる」って、最初から信じることすらしていなかった。
それなのに、彼は不意に現れて、
まるで当然のように、私の世界に足を踏み入れてきた。
「セフレになりたいわけじゃない。
ただ、そばにいてほしいんだ。
だから、付き合ってほしい。」
彼のその言葉は、静かで、でも真っ直ぐだった。
誰かにちゃんと「恋人として求められる」なんて、思ったことなかった。
だからこそ、その瞬間に私は心ごと溶けた。
ようやく自分が“選ばれた”と感じられた気がした。
•
最初は本当に、彼を“好き”かどうかも分からなかった。
でも一緒に過ごす時間が増えるにつれて、
その不確かな輪郭は、少しずつ形を持ち始めた。
手を繋いだとき。
ぎこちないキスをしたとき。
初めて抱きしめられた夜。
そのどれもが私にとっては初めてで、
怖さよりも、彼がそばにいてくれることの温かさが勝った。
やがて私は、彼のことを心から好きになっていた。
「ずっと、そばにいてほしい」と願うようになった。
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だから――私は変わることを選んだ。
髪を巻くようになり、服装も少しずつ変えていった。
これまでの自分から、彼の好みに近づこうとした。
少しずつ食事や体づくりも意識して、
気づけば、胸のサイズはDからFカップになっていた。
それは、彼が「大きいほうが好き」と言っていたから。
わざと太ったわけじゃない。
でも、彼にとって魅力的でいたくて、
少しでも理想に近づきたくて、
“自分なりに努力”を重ねていった。
趣味だったアニメも、自分から手放した。
彼は否定するどころか、むしろ一緒に楽しめるくらい理解があった。
だけど私は、自然と距離を置いてしまった。
趣味よりも、彼のほうが大事になってしまったから。
•
それでも、心は満たされなかった。
「ゲームしてきてもいい?」
彼はそう言って、ディスコードで友達と通話しながらゲームをしていた。
遊びに出かけていたわけじゃない。
それでも――
2人で同じ空間にいるのに、まるで1人みたいに寂しかった。
たまにならいい。
でも、一週間も放置されると、
「私は何のために、ここにいるんだろう」って思ってしまった。
本当は、「行かないで」と言いたかった。
でも、笑って「行ってきて」としか言えなかった。
私ばかり、こんなに我慢して、努力して、変わっているのに。
どうして、彼は少しも変わってくれないの?
•
彼が出張中のある日。
彼の携帯がテーブルに置かれていた。
私たちはパスワードを知っていて、お互い自由に触っていい関係だった。
ほんの軽い気持ちで開いた。
でも、そこで見てしまった――
元カノとのチャット履歴。
会おうとしていたメッセージのやり取り。
日付と時間を合わせようとしていた履歴。
内容は軽く見えるようで、でもどこか「もう一度」を匂わせていた。
そして、アルバムにふと目をやると、
そこには元カノの顔写真が、いくつも残っていた。
保存されたまま、誰にも見られないように隠されていたわけじゃない。
でも、それが逆にリアルだった。
“残っている”という事実が、何より苦しかった。
さらに履歴をさかのぼると、
私たちの家に、元カノが何度も来ていたことがわかった。
私が夜のバイトで家を空けているとき、
ギリギリまでその家に彼女が滞在していたことも。
会っていた。
チャットで連絡を取り合いながら、
私のいない時間に、私たちの空間に入れていた。
体の関係があったわけじゃない。
けれど、
それでも私にとっては「裏切り」だった。
•
その夜は一睡もできなかった。
一日中泣いて、考えて、
そして、妹と母にすべてを話した。
次の日、私は実家に帰った。
友達とも通話で話した。
そのとき、私はようやく気づいた。
「浮気」の定義が、私と彼ではまったく違っていた。
私にとっての浮気は――
「仕事以外で、男女2人きりで食事をすること」。
彼にとっての浮気は――
「体の関係を持ったとき、触れ合いがあったとき」。
ズレていたのは、想いじゃなくて、常識そのものだった。
•
私は、彼に「選ばれた」と思っていた。
でも本当は、“都合よく愛されたかっただけ”なのかもしれない。
それでも、
私は彼を、心の底から好きだった。
その気持ちだけは、ずっと、ずっと、嘘じゃなかった。