5,幼少期の記憶とランスロット王子
高価な薔薇が惜しげもなく一年中咲き誇る、手入れの行き届いた美しく広大なペティベリー公爵家の庭園。
幼いイヴリンと婚約者のリオは、メイドを従え、茶会を開いている。
白く繊細な細工の施された茶器に入れられた薫り高い紅茶と、真っ白なクリームと色とりどりなフルーツで飾られた最高級のケーキ。イヴリンは弟を見るような優しい笑みで、同い年のはずのリオに、より大きく切り分けられたケーキを譲る。リオから礼を言われ、はっとして冷たい表情に戻ったイヴリンは、表情を隠すように紅茶を飲み干す。
硬質になったイヴリンの態度に、気まずい空気が流れる。
そこに、イヴリンの1つ下の妹・シーアが訪ねてきて、リオと話したいとイヴリンにねだる。
イヴリンは、勉強があるから、と席を立つ。
ケーキとリオとをシーアに譲り、その場を去ってゆくイヴリンを、名残惜しいように見つめるリオ。シーアはそんなリオに、イヴリンの冷たい態度と、自身が広めた、屋敷内でのイヴリンの悪評をリオに吹き込む。あたかも自分が被害者であるような悲しい表情で…。
◆
(…ずいぶん昔の夢を見たわ)
柔らかな日差しがカーテン越しに差し込む、日当たりの良い客室でイヴリンは目覚める。
弟のようにリオを可愛がってしまいそうな自分を戒めながら、『イヴリン』を演じていた日々。シーアが、裏でいろいろ吹聴していた事は知っていたが、シナリオ通りにする、という自分の目的の手助けとなるため、放置していた。シーアの言動の小説との誤差は、小説の解釈の誤差か、そうでなければ、きっと自分が転生したがゆえに取るべき行動を間違え、それが影響してしまったのだろうと結論づけていた。
(これからは私として生きられる。やっぱり、自分を出せないのは窮屈だったもの)
冷たく接してきたが、社会人であった『私』から見ると、どうしてもリオとシーアは可愛い弟妹にしか思えなかった。だから今、幸せに過ごせているのかどうか分からないのがもどかしい。まさかアカデミーと王都とを追放された姉に近況を記した手紙を送るなんてことはないであろうし、友人も作らず『イヴリン』として生きてきたため、王都の情報を頼る存在は本当にいない。
(…そういえば、夢で見たあの時の茶会の後、いつもの家庭教師の先生がご病気とかで、特別に王宮の家庭教師の先生に授業してもらったんだよね。城まで行かされて…国王の末の息子…ランスロット第三王子殿下と一緒に授業を受けたんだった。『私』が読んでいた範囲の小説になかった流れだったから、ランスロット殿下が原作に出てくるキャラクターかどうかまでは分からなくて…割と素で接しちゃったんだよね…。殿下、覚えてないと良いなあ…)
イヴリンは幼い頃、数度だけ会っていた、色素の薄い金髪と、健康的な褐色の肌、イヴリンと同じ緑の瞳――イヴリンの深緑の瞳よりは明るい緑の瞳――を持った王子の存在を思い出す。あえて実力を出していない無表情で無気力な王子に、少し同情したイヴリンは、イヴリンの前では本気を出すように発破をかけたのだった。王族に対して不敬とは知りつつ、放っておけなかった。
(確か、王子は私より2つ下、シーアの1つ下だから、来年アカデミーにも入学する予定だったと思うけど…もしかしてヒロイン…シーアとの関わりもあるのかな? 相手役候補の一人だったりしないよね…? …まあ、もう王都を離れた私には関係のない話だし…大丈夫よね)
実は、当時はまだ父親はイヴリンに期待をしていて、王家との関わりを持たせるために、歳の近いランスロット王子の元にイヴリンを行かせていた。しかし、イヴリンと授業を受けるようになってから、大人しく分を弁えていたランスロット王子の様子が変わり、利発で優秀な本来の能力を表に出すようになっていった。異国の母を持つランスロット王子は立場が微妙であったため、下手に王室の分断を生んではいけないと考え、イヴリンの父親はランスロット王子と距離を取ることにし、イヴリンとの共同授業も、一か月もたず解消された。その後何度かランスロット王子側からイヴリンへの呼び出しや面会希望が来ていたが、父親が上手く言い訳を並べて揉み消していた。
そんなことがあったとは知る由もないイヴリンは、可愛い思い出のひとつだと回想しながら身支度を済ますと、昨日着ていたドレス――というには簡素なワンピースを手に、1階の浴室横の洗い場に向かう。
◆
「何を…なさっているんですか?」
怪訝な表情をしたヴィンセントが、洗い場の扉からイヴリンに問いかける。ちゃぷちゃぷという水音を耳にし、不審に思いながら様子を見に来た。
イヴリンはきょとんとした顔でヴィンセントを見返す。浴室の傍に併設されている洗い場で一人、浴槽の残り湯をたらいに移して、初日に着てきた青いシンプルなドレスと下着を手洗いしていたのだ。
「あ…。おはようございます、ヴィンセントさん。
勝手に申し訳ございません。あいにく洋服を最低限しか持ってきておりませんでして、洗濯をさせていただいてます。干すのは、自室で干しますので…!」
イヴリンは慌てて立ち上がって弁明する。
ヴィンセントはイヴリンの手元を見て納得する。
「荷物が少ないと思ったら…。そうだったのですね。洗い物は、2日に1度、手伝いの者が回収して、後日洗濯済みのものを持ってきてくれるのですが…。洋服の数が少ないのであれば、間に合いませんね」
(しかし、洗濯ができる公爵令嬢とは、また変わった…)
ヴィンセントが困ったような表情で説明する。
数秒、途方に暮れたような表情で見つめ合う二人に、後ろから近づく人物が一人。
「おはようございます、ヴィンセントさん…お嬢さんもおはよう。新しい通いの方ですか?」
身長は150cm程度で小柄ながら、ふくよかな体型に、エプロンを纏った、40代くらいの親しみやすそうな女性が現れる。後ろで茶色の髪を一つに結んで、働きやすい軽装でいることから、ヴィンセントの言っていた通いの人だろうとイヴリンは推測する。
女性はまじまじとイヴリンの顔を覗き込む。
「それにしてはかなりの美人だね…。これだけ綺麗だったら、街でも有名だと思うんだけどね?」
「お…おはようございます。イヴリンと申します」
たじろぎながら挨拶を返すイヴリン。
イヴリンに助け船を出すように、ヴィンセントが説明する。
「マリー、おはようございます。この方は新しい通いの方ではなく、旦那様の元に嫁いでこられたイヴリン・ペティベリー公爵令嬢ですよ。旦那様が滞在を許可されたのです。仮ですが、侯爵夫人ということになります。」
「あら! 失礼しました。洗濯をしているので、てっきり…。それはそれは…珍しいこともあるのですね。奥様におかれましては申し訳ございません。こちらの屋敷の手伝いに来ているマリーといいます」
マリーと呼ばれた女性は、驚きつつ丁寧にお辞儀する。
そして嬉しそうにニコっとした笑みを浮かべ、イヴリンの両手をぎゅっと握る。
「公爵様がついに奥様をお傍に置くなんて…なんて喜ばしいことでしょうか…! 領民は皆、侯爵様のおかげで暮らしが良くなって、感謝しています。でもずっと一人でいる侯爵様を心配もしているんです。イヴリン様が奥様になってくださったら嬉しいですわ」
と喜んだ。
「は はい、皆様の期待に応えられるように頑張ります! …まだ仮の妻ですが…。
というか、マリーさんの手も濡れちゃいますよ…?」
イヴリンは、洗濯で濡れた自分の手を掴むマリーの手が気になって仕方がなかった。