4,仮の侯爵夫人
「ね…眠い…」
イヴリンは、長らく『待ち』の時間が続き、つい応接室でうとうとしてしまった。リオとの婚約破棄から、寝る間もなく、追い出されるようにこの地に来ていたのだ。ここまで迅速に追放されたことを考えると、やはり父親の公爵は、この辺境へイヴリンを追いやるように水面下で話を進めていたように思う。だいぶ前から父親がイヴリンの事を諦めていたのは気づいていたが、縁談はベンデラーク家と家同士の事案で、単独で決める事はできない。リオ…もしくはシーアが、事前にイヴリンの行動を予見していた可能性が高いとイヴリンは分析していた。
「大変お待たせしました、お嬢様…いえ、奥様。」
ヴィンセントに声をかけられ、はっとイヴリンは目を覚ます。
「…失礼しました、ヴィンセントさん。ええと…?」
慌てて居住まいを正す。
「こちらがお待たせしてしまいましたし、お気になさらず。奥様。」
「おくさま…?」
寝ぼけた頭でイヴリンはヴィンセントの言葉を復唱する。
(おくさま…って、ロスグラン侯爵は婚約を受け入れていなかったのでは? 私はまた婚約破棄になったんじゃ…。だから使用人として売り込もうと思ってたんだけど…)
「旦那様に確認いたしましたところ、この縁談をお受けになる、と。イヴリン様が婚姻届けに署名されておりませんので、まだ婚約状態とはなりますが。
…なので、イヴリン様はロスグラン侯爵夫人ということになりますかと」
イヴリンの疑問に答えるようにヴィンセントはすらすらと説明する。
「ええええ!? と…いうことは、このお屋敷に私を置いていただけるのですか…? 常駐で…?」
予想外の展開に、イヴリンは驚愕する。
「差し出がましく恐縮ですが、イヴリン様はご事情はどうあれ、三大公爵家の方です。今まで旦那様が滞在を許可しなかった婚約者の方々はご実家に戻られましたが、イヴリン様はお戻りになることができず、領地内で就職をご希望されている。その場合、万が一、三大公爵家の方を屋敷から追い出して働かせている、との評判が王都に伝わってしまうと、侯爵様も外聞が悪く存じます」
「な…なるほど…それで縁談をお受けいただいたのですね。ご迷惑をおかけします…」
(別にそうなってもお父様は何もしないと思うんだけど…そう思っていてくれるなら、訂正しなくて良いよね。甘えちゃおう…)
イヴリンは罪悪感を感じつつ、ヴィンセントの言葉を受け止める。
「…それに、旦那様としても、国王から次から次へと婚約者を送られてお困りでした。イヴリン様が奥様として留まってくだされば、旦那様も国王のお気遣いを気にせずに過ごせます。なので、旦那様にも都合が良いのです」
ヴィンセントのその言葉に、イヴリンは抱いていた罪悪感が薄れるのを感じる。
(お互い利害が一致した…ということ…かな? 私も役立てるなら嬉しい)
イヴリンは佇まいを正すと、ヴィンセントにしっかり目線を合わせる。
「…そう言っていただきありがとうございます。その言葉に甘えさせていただき、できる限り夫人としてお役に立てればと思います」
イヴリンの真面目な表情と言葉を受け止めたヴィンセントは、ふと優しい表情を見せる。
「夫人としての役割など気にせず過ごしてください。
もしイヴリン様に別に良いお相手が見つかって、こちらを出てご結婚されるなどありましたら、それが一番望ましいですし、このお屋敷を拠点に、お好きなようにお過ごしください。縁談も、ひとまず婚約に留めておいたほうが良いですね」
「婚約に留める…侯爵がそうお考えなのですか?」
「…失礼しました。はい、【旦那様が】そうお考えです」
慌てた内心を一瞬も見せず、ヴィンセントは答える。
その言葉に勇気をもらい、イヴリンは晴れやかな表情になる。
「何から何までありがとうございます。ですが、こちらに置いていただく家賃や生活費分くらいはこのお屋敷のために働かせてください」
(ヴィンセントさんの言葉から推察するに、結婚相手を見つけて…とか言っているのなら、侯爵様は最終的にはやはり私を追い出したいのよね。であれば、なるべく屋敷に貢献して、長く置いてもらいたい。自活できる資金の目途が立つまでは…)
「そうですか…。そうおっしゃるなら…。とはいえ、この屋敷は旦那様と私しかおりませんし、通いの方が2,3日に1回、まとめて食事の準備や保存食のストック、掃除はしてくださっております。領地のことは旦那様がお一人で管理しておりまして、私の補佐のみで事足りておりますし…そうですね。では、やはり先ほどのお庭の手入れをお願いできればと思います。旦那様にも許可をもらっておきますので」
ヴィンセントから許可の言葉を聞き、イヴリンは破顔する。「原作イヴリン」生活ではめったに見せられなかった、素の、無邪気な笑顔だった。
「ありがとうございます!…きっと立派な畑にいたします!」
意気込むイヴリンは、虚を突かれたヴィンセントの表情には気づかない。
(…なぜ、畑?)
ヴィンセントはますますイヴリンのことが分からなくなっていた。
一方イヴリンは、心の中でガッツポーズをしていた。
(よし! 一番理想的な役割だわ。屋敷のために庭を綺麗にしつつ、いつ追い出されても良いように、こっそり良質な作物の苗を育てておこう。あとは…街に出て、私でもできる事業を探して、伝手を作れたら最高だわ…!)
イヴリンは、演じなくても良い、素でいられる今後の自由な生活に胸を躍らせていた。もともと自力で生きてきたイヴリンは、自立した生活でこそ自分の得意を生かせると、転生した自分の人生はここから始まるのだと感じていた。
◆
その後、イヴリンはヴィンセントに屋敷を案内してもらった。
1階にある食堂や浴場を案内した後、2階に上がる。
「こちらの客室をイヴリン様のお部屋としてご使用ください。ペティベリー家のお部屋よりは狭く、家具も古いと思いますが…」
イヴリンは2階の階段を上がってすぐの部屋に通される。確かにペティベリー家のイヴリンの部屋よりは手狭で家具も古い部屋だが、手入れはされていた。定期的にお手伝いさんが掃除をしているようだ。
「いえ、こちらのほうが居心地が良さそうです。ありがとうございます」
本心から言っているような邪気のない表情のイヴリンに、(公爵家のご令嬢なのに…?)と、更に疑問を深めるヴィンセント。
続いて、2階の奥にある書庫に案内する。
「ここは書庫になります。旦那様の所有の書物なので、旦那様は全て読了済のものです。そのため、ほとんど旦那様は出入りしておりませんので、奥様も自由に活用いただいて問題ございません。ただ、経営や戦術書ばかりで、若い女性が好むロマンス小説などの読み物はないと思いますが…」
客室の2倍は超える広い空間に30以上の書架が並ぶ書庫だ。
「いえ。お言葉に甘え、ぜひこちらも利用させてください…! 公爵家ではまだ経営の勉強はしておりませんでしたが、アカデミーで講義を受けたことがあります。できれば引き続き勉強を続けたいと思っておりました。戦術書は読んだことがないので、興味もあります」
(この国の地域によっての業態とか、前世とこの世界とでどのくらい差異があるのかも興味あるしね)
と、興奮気味に喜ぶイヴリン。
いちいち予想外の反応をされ、自分のペースを崩されそうなヴィンセントは、早めに案内を引き上げるよう、急ぎ足になる。
2階の書庫とは反対の一番奥、長い廊下の果てにある扉を指さす。
「…こちらが最後になります。
この奥が旦那様の執務室兼自室です。こちらだけは、絶対に入らないようにお願いいたします」
「…っ!分かりました」
(ここが旦那様の…気配が全然ないわ…)
緊張の面持ちになるイヴリンだったが、ふと、気づく。
「ヴィンセントさんのお部屋はどちらですか…?」
イヴリンの疑問に、ヴィンセントはすかさず答える。
「…旦那様の隣の部屋です。こちらもできれば立ち入らないでいただければと…。私に用がある時は、各部屋にあるベルを鳴らしてくださいませ」
ヴィンセントは、ほんの少し目を泳がせ、言葉を選びながら説明するが、イヴリンは素直に首肯する。
「わかりました」
(侯爵様とヴィンセント様って仲良いのね…。ヴィンセントさんは侯爵様の右腕って感じかな)
その後、イヴリンには、食堂で、通いの方が用意しているという、パンやスープなど、温めるだけで食べられるストックされていた料理が提供された。ヴィンセントと侯爵は小食ということで1人分より少し多い程の量しかなく、イヴリンの分の食事は用意がなかったので、他の日の分のストックから提供された。
そして食事後、イヴリンは1階の浴室で身を清める。
普段、侯爵は執務室に備え付けの浴室でシャワーを浴びるということで、1階の浴槽の準備はしないということだったが、今回はイヴリンのためにヴィンセントが用意した。イヴリンは、今後はシャワーか浴槽に入りたい時は自分で用意すると恐縮しつつ、今日はヴィンセントの好意に甘えた。
そうして風呂から上がると、イヴリンはやっと客室で一息つくことができた。
(長い一日だった…けど、なんとか生きながらえそう。噂よりもロスグラン侯爵が良い人で良かった…)
予想外に恵まれた待遇に感謝しながら、追放されてから休まる事がなかった体を、清潔なシーツに沈めるのだった。