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最終投稿です。

 駆け寄る足音を聞いた時には、楽し気に話し出す顔が秀紫の前に迫っていた。鮮やかで華やかなアザレアピンクの塊だ。

「秀紫様、お久しぶりです。覚えてますか? 京華様の使用人の沢渡(さわたり)皐月(さつき)です。お会いできて光栄です。京華様のお薬を、頂きに通院しています。偶然ですね。この頃は、ボッチャに熱を上げているって噂が広がってます」

 皐月の口から、唾液が降り注ぐ。電動車椅子のリクライニングは、ほとんど平行に近い状態にしていた。仰臥する秀紫を覗き込むように、皐月が顔を寄せた。

「ごけげんよう、皐月さん。私はボッチャを、少々(たしな)んでおります」

 捲し立てるように話し続ける皐月を同行していた大豆田家の使用人が阻もうとするが、皐月はぐいっと前に出てくる。

「本日は権守さんが、京華様とお時間を過ごしているんですよね。きっと甘やかしで、楽しいでしょうね。金銭関係のみの秀紫様なら知ってるはずですが、権守さんって、素晴らしいタワーマンションに住んでいるんですね」

 初めて聞く話だったが、大豆田ホールディングスの大規模開発のマンションがあったと思い当たる。

「今日も、素晴らしい活舌ですこと。でも、お話を聞く時間が取れませんの」

 やんわりと、皐月をいなす。

 崇蒼は、自らの話をしない。秀紫も進んでは聞かない。金銭で縛った時間以外の崇蒼は、秀紫の掌中から離れると承知している。

 分かっているが、他人から崇蒼の話を聞くと不思議な感覚に襲われた。何かが、身体に圧し掛かってくる。ほとんど痛みを感じない麻痺した身体が、重苦しくなったようだ。

「そうです。あそこなら電動車椅子でも十分、生活が可能です。京華様とも話し合ったんです。羨ましいですね。権守さんが、怪しげでガタイのいい男と金の話をしていたってメールも来てます。失礼します」

 言い散らかして、皐月が去っていった。ウォーターフロントの物件が、いくつか去来した。身体の大きく逞しい男も、何人か考えた。(しこり)のように胸が重たいと思った。だが、動かない腕では押さえる術もない。

「草野先生のような姿かしらって、まあ、すっきりとはしません。でも、私には難しいこと」

 独り言ちる。皐月が去った直ぐ後に、流れるように受診が終わり、秀紫は帰りに向かった。

「恐れ入りますが、そこ曲がって下さる? ドライブしてから帰りたくて、お願いしてもよろしいかしら? 海沿いを流してちょうだい」

 電動車椅子からの眺めは、普通に車の座席に座るより高くなる。

 何度か曲がると、タワーマンションが水面を背に立ち上がった。空と海の厳粛なる境界が見えた。海と空は、決して交じる事はない。

「今日の海は、紫に見えますわ。空は常に(あお)ですこと」

 蒼と紫は色相環でも隣り合う。色を環状に光の波長に沿って、環状に並べたものが色相環だ。側にいても、近いとは限らない。相性が合うとはならない。

 海と空に似た関係が、秀紫と崇蒼の間にも厳然と存在している。

 信号で車が止まる。横断歩道を見慣れたスリーピースが風を切った。その腕に、後ろから長い髪が駆け寄る。

「美しきお(ぐし)でございますこと」

 驚いて瞠った瞳が、同じような表情の崇蒼を捉えた。

 秀紫は視力がいい。ボッチャで鍛え上げた視力は、周囲の風景や電動車椅子なコントローラーを視点として、対象物の正確な距離と角度を測る。だから、崇蒼が笑み崩れたのが分かった。頬を寄せ合い、崇蒼がタワーマンションに連れ立って入っていく。春の風が二人の行いを、必然に仕立て上げていく。女性は崇哉より年長に見えた。秀麗な立ち姿で、ミディ丈のスカートを翻して闊歩する。動く足に、秀紫の瞳が吸い寄せられた。

「御立派に動く御御足(おみあし)。私ったらはしたない。ごめんあそばせ」

 足から無理やり視線を引き剥がすと、頬が熱くなった。紅潮しても、秀紫の身体は動かない。顔を隠す事も、目を覆うこともできない。

 流れる長い髪も掻き揚げる手も闊歩する足も、秀紫にはない。崇蒼の側にいても、遠く感じる。隣に立ち並ぶことはできない事実が、胸に突き刺さって、痛い。

 電動車椅子のリクライニングを低く、低く倒した。

「しばらく横になります。着いたら起こしてくださる?」

 車はひくりとも振動を伝えないスムーズは動きで、再び走り始めた。


  ◇◇  


 崇蒼の前で、アメジストの瞳は明るく朗らかで、強張っていく。

「崇蒼、困りましたわ。もっと左でしてよ。髪の毛一本分、ランプを移動させてちょうだい。聞こえているでしょう。私の位置は、一切、関係がございません! ランプの先端だけ、移動が必要だと伝えているの」

 威勢のいい言葉を吐き出す口は、動きが鈍い。言葉とは裏腹な弱々しい息を、秀紫は吐いた。

 コントローラーに載せた掌は、血の気なく青褪めている。

 手を重ねた。指先は氷水のように冷たい。秀紫の動きが悪いのは、今日の天気にも寄るのだろう。

 腕時計型の端末を二度タップする。近づく静やかな足音を耳が拾った。両膝に手を突いて、崇蒼は肩を大きく上下する。

 部屋を壮一郎が覗いて、大仰に肩を竦める。

「崇蒼が疲れちゃったのか? オペレーターの不出来を鑑みて、今日はもう休んだほうがいいでしょね。ランプの位置取りを定める手が、震えちゃってる。春の嵐が来て、体調を崩しがちです。整えましょうよ」

 眦を吊り上げて、顎に掛かる髪を秀紫が何度も横に振った。

「その発言は、いただけません。私に、指図をしていらっしゃるの? ソイフィールド杯は一週間後ですもの、ボッチャの練習を最優先にしたいの」

「ふうむ。秀紫様は顔色が白い。ちょっと温まったまろうか」

 壮一郎が、白衣に袖をたくし上げた。医者の命令は秀紫様の意志を時に、凌駕する。

「もうボッチャは練習しません。むしろ、崇蒼は練習をする気もないようです」

 崇蒼は軽く頭を下げて、部屋を出た。今は、医師である壮一郎の言葉だけが、秀紫に届くだろう。僅かに開けたドアに、背を預けた。

「秀紫様は手厳しいね。理由を教えて欲しい」

「壮一郎先生は御存じかしら。ランプオペレーターは自らの意志を示してはならない。表情を消して、唯、選手の指示を体現していきますの。アドバイスや、まして感情を表現したら、その場でアンフェアな状況が発生しますでしょう」

 壮一郎の足音は、忙しく部屋の中を行き来する。何らかの医療的処置をし始めたようだ。

 顔色の悪さが気掛かりだった崇蒼は、小さく安堵した。

「私の指示を楽しそうに聞くランプオペレーターが多いの。私は、その顔で判断してしまう。このランプの角度が合っている。もっと位置をずらす。自らの判断が正しいとか、失敗したかもとか、コート内の状況を見ないで、ランプオペレーターの顔や仕草や態度で一喜一憂する。私は弱いの」

 声に滲む無念さが、秀紫の高潔さを引き立てる。

「公正ではないと秀紫様は深く悩んだんですね。愛故の行為が辛い」

 気丈な声が、掠れながら続く。

「崇蒼はお金で動きますでしょう。金を積む雇用主に絶対服従します。私に決して愛を表さない崇蒼は、完璧はランプオペレーターですの」

 電動車知るのモーターが低く唸る。スムーズな動きが聞こえる。

「秀紫様の望みを叶えている時点で、物凄い滅私は感じる。身体が温まる新たな塗布薬があります。秀紫様だけの特別調合です」

 壮一郎は、医師の知見を用いて秀紫に合わせた新たな治療方法を研究している。ギャンブル並みに様々な医療的手法を試して、塗布薬に行きついたのだろう。

 衣擦れが湧き上がる。使用人の立てる足音で、秀紫がベットに入ったと分かった。

「私が存じない崇蒼もいるんだなって、思い知りました。健全で健康な成人男性だから、色々あると理解しています。金銭の発生しない時間をいかに過ごしても、私には関わりありません」

 崇蒼はドアを離れた。

 十分に秀紫の部屋から離れた廊下で、壮一郎に捕まった。

「崇蒼もさあ、自分でボッチャの練習を止めさせられないからって、医師を呼びつけるって人使いが酷いよ。鬼畜め」

 開口一番に、壮一郎からは不平が漏れる。

「壮一郎に金は出すが、俺は雇用主には意見をしない。ボッチャに関しては、常に秀紫様の言いなりになる。恭順なサポートだけを提供する」

「おいおい、違うだろう。全てはお前の制御の範囲だ。このところ、気持ちが沈んでいた。何かあったのかな?」

 使用人の一人が進み出た。

 大豆田家の女性使用人は、制服となっている若草色ワンピースを身に着ける。ミモレ丈で、裾には細やかな刺繍で大豆田家の家紋である大豆の花が施されている。邸では白いエプロンを重ねている。

「受診の折に、京華様の使用人の皐月さんが、執拗に何度も話しかけてきました。しつこく唾液まで飛ばして、必死な形相でした」

 腕に巻き付いた小さな画面を撫でる。車椅子の移動範囲と時間が出た。

「いつもより、十二分三十五秒の寄り道。病院と邸の間で、ふうん。ウォーターフロントでもドライブしたようだ。何か見たかな?」

 問い掛けても、若草色のワンピースは口を割らない。使用人は、秀紫が望まないことを広言しない。皐月の行いについては、口留めがなかったらしい。つまりは、寄り道と何らかの目撃は事実で、崇蒼には伝えたくない思いがある。

露見(ばれ)たかな?崇蒼が何で高給を希望するのかとか、タワーマンションに住むのかとか、ギャンブルの如くの投資含めて、全部は――」

「黙れ。高潔な秀紫様を支えるには、俺の愛は要らない」

 厳しい視線を絡み合わせて、最初に逸らしたのは壮一郎だった。

「診察してくる。崇蒼の愛を俺は知っている」

 若草色のワンピースが深く腰を折った。

「大豆の花って、綺麗だ」

 裾が、崇蒼の目の端を掠めてから立ち去って行った。


  ◇◇  

 

 春にしては、暖かな日に全世界から選手が日本に集結して、『第三回国際ボッチャ・ソイフィールド杯』が始まった。

 選手を招待するプライベートジェットや、専用機が大豆田家より全世界に派遣された。何人かの選手は海路を選び、豪華クルーズ船で到着した。

 『BC3』のクラスに秀紫は出場する。

「少し、身体が芳しくありません。動かし難いんですの」

 電動車椅子から、聞きなれない異音がした。

「身体じゃない。さっきトイレに行ったよな」

 身を屈めて、崇蒼は電動車椅子の車輪近くを確認する。機械油の匂いがした。

 羞恥を含んだ秀紫が、唇を思いっきり尖らせてから話し出す。

「ごめんあそばせ。皐月さんの手を拝借いたしましたの」

 慎重に確認すると、電動車椅子のバッテリーが破損していた。崇蒼を見て、秀紫が眉根を寄せた。

 大袈裟な声が背後から寄って来た。

「あらあ、大変だわ。決勝戦に間に合わな。電動車椅子を貸してあげようか? 何をしても無理ね。棄権するしかないわね。でも、権守さんの雄姿が見られないのは残念。私が一緒に出場してあげるわ」

 京華の声に構わず、崇蒼は荷物を確認する。予備のバッテリーも全て水に濡れていた。屈んだ先で、見慣れない色を摘まみ上げた。

「アザレアピンクのリボンの切れ端が挟まっていた。トイレ介助の時に、何か良からぬ企みをしたはずだ」

 崇蒼は明らかに放つ雰囲気を変えた。息苦しいほどの緊張が走り、皆が手に汗を握ったと分かった。

 堪え切れない様子で、京華が捲し立てた。

「やったのは、そうよ。皐月。私は権守さんと一緒に過ごしたかっただけ。バッテリーだって、大して壊れていない」

 のびやかな声がした。

「甚だ不躾ではございますが、このバッテリーは非常に高価な物です。私が使うものなのですから、当然です。付け加えさせて頂きますと、金を媒体にして、崇蒼は私の側におりますの。ボッチャの時に愛も情もございません。金銭以外の邪なものを、私たち二人の間に挟まないでちょうだい」

 京華が息を呑んだ。

「秀紫様、京華様と違って心の清らかなだ。他人を傷つけて平気でいられる京華様とは比べ物にならない。競技に向き合う秀紫様を見て、京華様に自らの愚かさを痛感してくれ。()ね」

「崇蒼は、ベストを尽くしたわ。バッテリーが降ってくればいいのにね」

 誰も、秀紫の声に応じられなかった。

 風を引き連れて、長いか黒髪が近寄って来た。

「秀紫様専用にカスタマイズされた、オーダーメイドのバッテリーです。直ぐに装着します」

 バッテリーを見ることなく、秀紫は一点を見詰めていた。

「美しい御髪ですこと。前にも、お見掛けいたしました」

 やはりタワーマンションで目撃していたんだろう。崇蒼の説明を先んじて、黒髪が動いた。

「綺麗だなんて嬉しいわ。息子の壮一郎がお世話になっています。アラフィフなんですよ。親子で、ずっと崇蒼の資金援助を受けてます。私は電動車椅子の改良研究。壮一郎は、治療の研究。ギャンブル並みに成果は出ません。でもこの超軽量、無振動で最長十五時間連続安定走行可能なバッテリーが完成しました」

 バッテリーを掲げて、黒髪が大きく揺れた。

 口を何度もパカパカと動かしてから、秀紫は崇蒼に笑みを見せた。

「十五時間連続で、走行も座位もありませんことよ」

「確かに。実際に使用している秀紫様の意見は貴重よ。要改善点ね!」

 慌ただしく、バッテリーの装着が完了した。


  ◇◇

 

「さあ、一回戦が始まる」

 崇蒼の声を後ろで捉えて、秀紫は進み出た。

 一進一退で互いに譲らず、ドローで最終ゲームに入った。

 自力での投球が難しい秀紫は、投球に使用するリサーサーを口に咥えた。リサーサーは、ボールをランプから転がすために頭部や手に装着したり口に咥えたりして使用する器具だ。

 残すは、秀紫の最後の一投のみだ。ジャックボールの右側、ほんの十七ミリ間を空けて、相手の赤い球がある。ほとんどくっついて見える。投擲をするなら、相手のボールを弾きだす可能性もある。しかしランプからのリリースだと、ボールに重さのある力は伝わり難い。ボールをしっかりとジャックボールに寄せる必要がある。

 見極める。コートを取り巻く観客席から、秀紫を励ますコールが聞こえる。愛のある声援が秀紫を包む。

「コートの中で愛は要らない。欲しいのは崇蒼の献身だけ」

 全ての感情も評価も押し殺した崇蒼が、万全の動きを秀紫の前に展開する。欲しいだけの力と、必要なだけの時間が、崇蒼によって作り出される。

「ランプを三センチ二ミリ右に振りますわよ」

 青い球を崇蒼が持った。合合成皮革は鮮やかな蒼で、紫の糸で縫い合わされている。秀紫専用の特別仕様のボールだ。

「ポイント四十五に、ボールをセットしてくださる。そっとランプに供える感じにボールを置いてちょうだい。ボールを、押し潰さないようにお気をつけなさって」

 詳細過ぎる要求に、秀紫は笑みを溢した。崇蒼ならわかってくれる。愛を凌駕する献身で、今、崇蒼は完璧なランプオペレーターとなっていた。

「その後で、私にリサーサーを咥えさせて」

 刹那、崇蒼の顔を見た。何も浮かんでいない。顔には何も浮かんでいない。愛のない雇用関係だけが、厳然と二人を繋ぐ。

 リサーサーでボールを押し出す。転がり出る。体育館の床の木のしなりが、ボールのコースを僅かに右に逸らす。

 今日は気温が十八度で、湿度は三十五パーセント。崇蒼と共に練習を重ねた環境設定と類似している。風はほとんどボールに影響しない。合成皮革と床面との摩擦に関わるのは、湿度だ。今日は転がりながら、ブレーキになるものはない。ジャックボールを目指してブルーのボールが行く。ジャックボールに、一度乗り上げてから、ボールが止まった。

 審判がボールに駆け寄る。

 コンパスの形をしたキャリパーで、ジャックボールからの位置を審判が測定をしている。審判が胸の前で、パドルの青を示した。

 静寂の後、観客席から歓声が鳴り渡る。

「勝った」

 崇蒼が顔を覆っていた。

「今の俺に愛はない。ランプオペレーターにおける愛の表出を、秀紫様が望んでいない。無論、秀紫様に命じられれば、いつでも何処で発露する。今、準備は万端だ」

 静かな崇蒼の声は、心を包み込むような、しっとりとした温かさを感じた。

「崇蒼に褒めて欲しいの。愛の表出も望みます」

 懸命に首だけで俯く身体で、瞳だけが上を向いて崇蒼を見ていた。

「未成年だから、お子様対応だな」

 秀紫の髪を、崇蒼がそっと抱き寄せた。


お読みいただきまして、ありがとうございました。

短い作品ですが、書き上げられて良かったです。

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