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前後半の短い連載です。本日、二回の投稿予定です。
まだごく浅い春の日差しが、舞い上げる埃がないほどに澄み切った空気を揺らして、男の声が割れた。
「決まっている、金だ。俺は金で、お望みのままに働くフリーランスだ。さあ、手を取って」
日本随一の大富豪、大豆田家の令嬢である秀紫は、整った顔の眉間に深い皺を作ってみせた。
十五歳の秀紫からは、顔の造形を歪めても押さえきれない気品が匂い立っていた。顎のラインで切りそろえた黒髪は、微かなウェーブを描く。瞳は名前の由来ともなったアメジスト色を秘めて、アーモンド形をしていて、すっきりと鼻筋が通っている。小さく少し厚い唇が、大人に向かって行く少女の、今の美しさを際立たせている。
「ごめんあそばせ。丁寧に御確認なさって、バカ、いえ、のんびりしていらっしゃる。決まったことだと、理解してちょうだい」
権守崇蒼は恭しく蹲踞して、秀紫の前に手を差し伸べていた。節くれだった無骨な指先が、漲る力を秘めて秀紫の前で待機する。
崇蒼はいつから力士になったのだろうか? まるでこれから相撲の仕切を始めようとするかの姿勢だ。二十七歳になって、相撲部屋に入門を考えているのだろうか?
「よろしいかしら。分かりきったことを繰り返すとは、愚の骨頂です。私は手が動かし難いのは、御存じのはずですわ。二人の関係を、もう一度、明確にしておいてくださる?」
秀紫は、掌でコントローラーを前に倒した。低く擦れたような機械音が秀紫の身体の下で鳴ると、視線が動いた。崇蒼の後頭部を目を這わせた。髷は結っていない。太った様子もない。
いつもの通りに、崇蒼はダークグレーのスリーピースを着ている。仕立ての良い光沢を持ったシルクのスーツに見えるが、ジャージ素材での伸縮性がある。締めているネクタイは、力が掛かれは直ぐに首から外れるクリップ式だ。
百八十センチを超える長身で、手脚が長く、身のこなしも卒がない。淡い光を弾く髪は色素が薄く、陽光で銀砂を孕んだように輝く。綺麗な形の瞳に高い鼻梁。少し薄い唇に品を感じる。
外見から判断すれば、力士を目指してはいないらしい。
「俺は、秀紫様の小遣いで雇われている」
成人男性一人を雇用し、養っていけるだけの小遣いを、秀紫は祖父の鞆之輔から与えられていた。
鞆之輔は大豆田ホールディングス会長で、多くの不動産を国の内外に所有している。大豆田家は旧財閥の流れを汲む由緒ある名門で、先祖代々多くの資産を有して来た。中でも商才のあった鞆之輔は株や為替相場に投資をし、多くの企業に融資を個人でも行った。社長を離れた今でも毎年発表される長者番付では、不動のトップだ。
父母を幼い頃に事故で亡くし、同じ事故で大怪我を負った秀紫を鞆之輔は溺愛していた。
「私たちの間にあるのは、金銭の授受のみですの。私は崇蒼を金で縛っておきます」
「仰せのまま、秀紫様と俺は厳然たる雇用関係。何の疚しさもなく、金を目当てに此処にいる」
機械音が、床に当たって微かに鳴り続ける。崇哉から離れて、秀紫は電動車椅子を巧みに操る。
「崇蒼からは、愛を感じません。ごめんあそばせ。私の周りは、愛で溢れておりますの。鞆之輔お祖父様からの愛で、溺れてしまいそうですわ。家にいる使用人も皆が慈しみがあって、中学校の先生方もお友達もお優しい」
何度思い返しても、秀紫は恵まれていた。意地悪された覚えもなく、虐められた経験もない。当然に、同様の悪さを相手にした企みもなかった。善意と慈愛と友愛が、秀紫の世界に満ちていた。
「うんざりですの」
両親を亡くした事故で、秀紫は脊椎を深く損傷した。首から下の神経が麻痺をして、身体は両手が僅かに動くだけだ。
秀紫の車椅子は、電動リクライニング・ティルト式だ。
背中を支えるバックサポートが倒れる構造が付いているのが、リクライニング式だ。
ティルト式は、バックサポートと尻を載せる座面が一定の角度を保ったまま、後方に倒せるタイプを指す。
座ったままの姿勢を長い時間時陸で保つことが難しい秀紫は、電動車椅子で移動する。食事や入浴の日常生活にも、他人の介助が必要となる。
介護福祉士の崇蒼も、秀紫の介助をする。普通の介助ではない。
「崇蒼だけは、私に愛がないって知っております。今まで誰に頼んでも、オペレーションに愛が混じっておりました」
声が掠れた。
愛は要らない。秀紫が必要とするのは、恭順に仕える姿勢だ。どんな言い付けにも忍従し、意見を差し挟まない。滅私奉公のオペレーションが欲しい。相棒となり得るオペレーターを、望んでいる。
「承知してる。手を取って、始める」
秀紫の目の前に、白いラインが見えた。ラインに囲まれた中に、電動車椅子を進める。
「崇蒼、指示を出しますわよ」
「御意」
応じる崇蒼の声は揺るぎない。手に赤いボールが握られている。
秀紫は、満足気に口角を上げて目を眇めた。
◇◇
たっぷり食べた昼食が、崇蒼の四肢を軽やかに動かす。午後になって風が吹く山沿いの邸の高い天井を見上げた。
「二人は、金銭のみの関係だって聞いる。雇用が安定しないフリーランスで、本当に可哀想だわ。権守さんがどんなに尽くしたって、秀紫様は絶対に感謝しない。名前で呼んでるのも、年下なのに弁えがない。でも私は二十二歳だし崇蒼さんって呼ぶ」
零れるような笑みを崇蒼に向ける滝井京華は、嫋やかな様子で手を口元に沿えた。
広がる甘ったるい声を耳から押し出すために、崇蒼は鼻の先に残る香ばしさを思い出した。昼食は、秀紫の好きな舌平目のムニエルだった。デンマークから取り寄せたバターを効かせて、絶品の焼き加減だった。
「雇用主以外からは氏の『権守』と、呼ばれるのを希望している。呼び方を、他人がとやかく言うべきではない。陰で雇用主を悪く言われるのは気分が悪い。我が雇用主は潔癖で、悪言を俺も厭っている」
秀紫は、もっとおっとりと言葉を紡ぐ。典雅な間を、言葉に差し挟む。京華には決して真似ができない、真の気品がある。
脳裏に秀紫を思い浮かべながら、崇蒼は怒鳴り散らしたい思いを呑み込んだ。まだ、京華から得るモノがあるかもしれない。直ぐには活用できなくとも、やがて秀紫に還元できるモノもある。まだ見当もつかない何か見つけるために、崇蒼は耳を傾ける姿勢を作った。
「で、でも、私は秀紫様が心配で、使用人からの話を伝えただけよ」
京華の側から電動車椅子が、甲高い音を立てる。崇蒼の身の内に広がったバターを消し去るような、気に障る音だ。毎日のメンテナンスが不十分なのだろう。前方左車輪の車軸に細かい埃が付着している。小さな歪みも、脊髄損傷の身体には大きな振動となって伝わる場合がある。
異音は、聞き咎めただけで崇蒼の頭の中から霧散する。京華の埃は、崇蒼の仕事の範疇ではない。京華は原因不明の難病だと聞いている。脊髄損傷をしたのは、秀紫だ。
京華を訪ねたのは、秀紫から命じられて書類を届けに滝井家に出向いただけだ。滝井家は、所謂、新興財閥と言われる家だ。興事業を手広く行っている。
京華は崇蒼をいたく気に入っており、何かにつけて秀紫に声を掛けた。
今回も京華から問い合わせがあった資料を、秀紫は使用人や崇蒼の手を使って集めた。秀紫は定期通院の予定があり、崇蒼が一人で訪ねていた。
京華が、コントローラーを掌で動かす。崇哉の側に近づく。電動リクライニング・ティルト式の車椅子はアメジスト色を基調とした秀紫と違い、赤だ。
贅を尽くし、日本の技術力を注ぎ込み、職人の技が凝らされた秀紫の電動車椅子を、当然のように京華が欲した。一も二もなく、京華のために秀紫は動く。
自分と同じように動く京華を、秀紫は喜んだ。愛らしい笑みを見られて、崇蒼は留飲を下げた。理不尽さえも、喜びに変えられる秀紫は高貴だった。決して手に入らない高潔な存在が、秀紫だ。
「親切心なのかもしれないが、必要ない。質問だが、なんで呼び名をわざわざ聞いただ? 仕事で得た機密や個人情報は、外で話題にはしない。家族にも話さないのがルールだ。秀紫様の件は仕事で、俺が軽々しく漏らすような人間ではない。京華様に、俺はどう見えていたんだ?」
いつになく、峻厳な口調になっているのは自覚していた。京華が動揺しているのも、わかる。しかし秀紫の件を適当に済ませることはできない。
「使用人にも言いつけてくれ。秀紫様の名誉を傷つけるような発言は控えろと。度が過ぎているようならこちらにも考えがある」
崇蒼の冷厳な言葉に、京華は目を見開いた。
「ち、違うわ!私はなにも悪くない。ただ使用人に権守さんの雇用の話をしたの。それで、憤慨した一人の使用人が、権守さんをウォーターフロントで見かけた。カッコいいから直ぐに分かったて話で、高収入だからラグジュアリーなタワーマンションに住んでいるって。ごめんなさい。私が迂闊だった」
個人情報がダダ漏れだ。自宅の場所を特定されたのは痛恨の極みだか、まだ手は打てる。
「では今後は気をつけて。秀紫様の御友人としての京華さんを、俺は認めている」
崇蒼は他家の使用人として、京華との間には常に明確な線を引いて来た。京華の方から、その線を越えようとした覚えはなかった。だからこそ、今まで付き合いが続いてきた。だが関係を見直す必要を頭に崇蒼は入れた。
「本日は、秀紫様に依頼があったボッチャの資料を持って来た」
「この頃、秀紫様はボッチャが楽しい様子よね」
京華に深く頷いた。
ボッチャは、目標となる白いジャックボールに、赤と青のそれぞれ六球ずつのボールを投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりしていかに近づけるかを競うスポーツだ。投げ方は、腕を振るって下からでも上からでも良い。蹴ることも認められている。
ボッチャのボールは、外側は合成皮革や天然皮革、またフェルトの素材のものもある。中身に規定はなく、重さと円周の大きさが決まっている。
公式な大会では公認メーカーのボールの使用が決まっている。勿論、秀紫は練習から公認のロゴが入ったボールを使っていた。
肢体不自由などの重度の障害でボールを投げられない場合は、ランプと呼ぶ勾配具を使う。滑り台のような形をしたランプは、大きさも形状も規定がある。
木製やアクリル製のランプがあるが、秀紫は透明度の高いアクリル製のランプを好んでいる。下から、ボールの位置や向きを確認するのに適しているらしい。選手は自らの意志を、ランプオペレーターに伝えて、競技を行う。
秀紫は、自分の手足で車椅子を操作できない。四肢や体幹に重度の麻痺がある脳源性疾患のクラスに所属していた。『BC3』と呼ばれるそのクラスは、ランプを使い、ランプオペレーターが選手をサポートする。
崇蒼は、秀紫のランプオペレーターだ。
電動車椅子のリクライニングをやや倒して、京華が崇蒼を見上げた。潤んだ瞳を揺らしている。
「提案があるわ。秀紫様との関係がお金だけなら、私の所に来てほしい。権守さんのサポートを私は評価しているわ。私なら愛を持って、権守さん迎える。勿論、秀紫様に劣らない報酬を出す用意がある」
僅かに眉根を寄せて、崇蒼は困ったような顔をした。
「出せない。俺の時給は高いから、無理だ。サポートを評価して頂いたのは、嬉しい。そこだけには、礼を言う」
慇懃な姿勢を、大袈裟に崇蒼は示した。
気を良くしたように、京華が艶めいた顔を上げる。
「問題ないわ。だって、介護福祉士の仕事は報酬が決まっているし、秀紫様のお小遣いで権守さんをお願いしているって聞いている。私だって月に数十万は自由にできる。お小遣いは多いのよ」
指を折って確かめる。手を頭に沿えて、首を竦めた。
刹那、崇蒼は考えを廻らし、頭の中から答えを追い出した。頭に浮かんだ秀紫の満面の笑みが、残像となる。
「時給が六桁だから、ちょっと、いや、大分足りない。秀紫様の他に俺は雇えないんで、諦めて。では『第三回国際ボッチャ・ソイフィールド杯』で待っている」
顎を落とした京華を、フェイシャルの動きも良好だと見定めて崇蒼は辞去を告げた。
滝井家を出ると、歩道から崇蒼を伺う男がいた。がっしりとしたガタイて、短く刈り上げた髪で、捨てられた仔犬ような瞳が崇蒼に注がれた。
「またかよ? 壮一郎と金の無心以外で、外で会うはずもないから、要件は分かり易い。臭うぞ。新しい薬かよ?」
草野壮一郎は腕に鼻を寄せて、自らの身体を嗅ぎ出した。円らな仔犬の瞳を盛大に瞠った。
「くっ臭い。頼むよ。風呂に入る時間も惜しかった」
壮一郎を連れて、この後の予定を立てる。
「今日は定期受診で、しばらくは時間がある。一度、自宅に戻る」
「さすがに、話が早くて助かる。どうせまた、京華様から口説かれたんだろう? 高報酬にして、誰にも手出しをさせないために、そこまでやるとは呆れるぜ」
崇蒼は、企業や各種団体からの雇用は全て断っている。雇用関係を結ぶのは個人だけで、完全フリーランスの介護福祉士だ。未成年の秀紫とは、代理の弁護士と雇用契約を法外な値段で結んでいる。小遣いで雇える介護福祉士と嘯く。
「キャンブル狂いが、黙れよ。まったく、医師には見えない。風呂に入ってから、早く大豆田家の邸で待機する必要があるだろう」
壮一郎は、大豆田家お抱えの医師だ。
「崇蒼の酔狂に付き合ったギャンブルだ。湯水のごとく金遣いが荒い女がいる」
「言いえて妙だ。ギャンブルだってのは否定しないよ。確率から考えれば、宝くじの方がまだましだ。でも可能性があるなら、俺は探し出したい」
交わし合った視線を遠くの山に逃した後で、互いに急かすように、二人は足を動かした。
お読みいただきまして、ありがとうございました。