ダフネとアポロンが店に来た
ああっ、これは、やばいっ。
あたしは厨房から客席に出る細い隙間で、銀のお盆をぎゅっと胸に抱きしめた。
作業服の男性二人組だから大丈夫かと思ってたのにっ。
「したって塩素の温度下げたらよ。また上げるのに丸二日かかるのに」
今出したばかりの卵レタスチャーハンには手をつけず、男の人は仕事の話に夢中だ。
早く、早く。食べて、食べて。
「まあなあ」
だがあたしの思いは届かない。
そして背後では父さんの機嫌が悪くなっていくのが気配でわかる。
「その間作業はできないし、削減するところ間違ってるんだよなあ」
「そうよ! 先週の注文だって、最初は亜鉛でいくって話だったのに、いつの間に硬質クロムになってんのよ!」
男の人たちはチャーハンにはまだ一口も手をつけていない。
さっきまでほどよいシャキ感を残していたレタスはあっという間にしなりはじめている。
そしてあたしは焦り始める。
やばい、菜切り包丁が出るっ、もしくは骨切り包丁がっ。
せめてもの防波堤になろうと客席への出入り口をふさいでいたあたしの横を突っ切って、父さんが対面カウンターから上半身を乗り出した。
「あんたたち。料理食わねえなら帰ってくんねえか」
父さんの手に握られているのは中華包丁だった。しかも一番でかいやつ。
カウンターに座っていた男性ふたりはさすがにむっとした顔をした。
「なんだよ。こっちは仕事の話してんだ」
「料理を! うまいうちに食わねえやつは! 帰ってくれ!」
父さんが大きく包丁を振りかぶったので、これはいかんとあたしはお客さんたちのところに走った。
うちの父が本当にすみませんでした。お代はけっこうですのでどうか今日のところは。本当にもう、大変申し訳ありませんっ。
この店の手伝いをしているとこれくらいの詫び文句は息をするように出てくる。
ダーン。背後で腹に響く轟音が聞こえる。
陶器が割れて落ちる音も。
ああ、また父さんが料理ごと器を真っ二つにしたんだとあたしは振り向かなくてもわかる。
そして男の人ふたりはあたしの肩ごしにそれを見てしまったらしく、顔色を青くして店を出て行った。
「なんだありゃっ」
「頭おかしいんじゃねえか」
男の人が言い合う声が聞こえてくる。
はい、あたしもけっこうそう思ってます。
少なくとも、接客業の店主の態度では絶対ないって。
◇◇◇
うちの父さんの作る料理は、娘の欲目を抜きにしても、おいしいと思う。
こんな小さな中華料理屋とは思えないくらいだ。
でも父さんは、それに輪をかけて、偏屈だ。
まず、料理が出てきたらさっさと食べ始めないと機嫌が悪くなる。
味について、「俺が四川に行った時にこれと似たようなの食べたことあって」だのなんだのしゃべり始めるのも、ダメだ。
スマホを見ながら食べてるお客さんも追い出される。
あたしにできることといえば、平謝りに謝って、なんとか穏便にお帰りいただくことくらいだ。
じゃあ、そんな短気な父さんの店がなぜつぶれないかというと、それはひとえに数少ない常連さんと、出前を頼んでくれるご近所さんたちのおかげだ。
さすがの父さんも、客の茶の間に座り込んで、料理が到着したら速やかに食べるか、無駄口をきかないか、はたまたテレビを見ながら食べてやしないかチェックするのは不可能だ。
なので、出前は安全な食べ方なのだ。
この店の味は気に入ってる、だけどもう少し気を楽にして食べたいという、食べる側からするとごく当たり前の欲求を満たすため、一部の常連さんがそれを考え出してくれなかったら、あたしがいかに美少女看板娘でも、この店はつぶれていただろう。
◇◇◇
「いらっしゃいませー」
そのお客さんたちが入ってきた時、あたしはちょっとびっくりした。
なぜなら、街の中華料理屋には場違いなくらい美男美女だったからだ。
背の高い男の人は、ハーフなのかと思うような顔立ちで、女の人のほうは正統派の整った美人さん。
えっ、うちでほんとにいいんですかっ。お店選び間違えてませんか?
なんて聞くこともなく、数少ないテーブル席に座ったふたりにあたしはお冷やをお出しした。
「鳥ももと季節野菜の甘酢炒めと」
「はい」
「えっ、ここラーメンすげぇやすいね、三百円?」
「そうなんです、ありがとうございます」
男の人はメニューを眺めて驚いていたけれど、対面に座る黒髪の女性はそれをほほえましそうに眺めながら、細いきれいな指でメニューを指さした。
「これ下さい」
「エビと青菜のマヨソース炒めですね」
「ん、以上で」
最後は男の人がそう言ってしめたので、あたしは大人しく厨房に下がった。
父さんに注文を伝えるまでもなく、小さな店ではすべてが筒抜けで、父さんはすでにエビに卵白と片栗粉をまぶして素揚げしているところだった。
エビが済んだら、鶏もも肉も衣をつけて同じようにする。
あたしは料理が出てくるのを待っているていで、美男美女の様子に神経をとがらせていた。
多分恋人同士なんだろう。なんともいえず親密な空気でわかる。
でもあたしが気にしているのはそこじゃない。
そう、この人たちに父さんがキレたりしないといいんだけどな、ってとこ。
作業服の男性ならよくて美男美女ならどうってことではないけれど、うちの父さんは怒るとあれだし。こんなきれいな人たちにそんな思いはしてほしくない。
(ああ、大丈夫かな……)
あたしの内心などお構いなしに、父さんはいつものように手際よく料理を二品同時に作り上げると、無言であたしの方へ皿を滑らせてくる。
そこはあたしも阿吽の呼吸で四角いお盆にセットし終えると、テーブル席のふたりへ、
「どうぞ、お待たせしましたー。ご飯のおかわり無料ですのでお申しつけ下さい」
と言ってその場を離れた。
するとどうだろう。それまでおしゃべりしていたふたりは、料理が来るなりその話をぴたっとやめて、一口食べるなり、言った。
「うまいな」
「うん」
それだけであたしはどれだけほっとしたかわからない。
ありがとう、美男美女!
うちは一品頼んでもらったら、自動で白いご飯とお漬物の小皿、それに中華スープがつくシステムになっている。
ふたりはそれらをほぼほぼ無言で食べ終えると、ちょっと額に汗を浮かべてお互いに笑いあった。予想外に美味しいものを食べた時によく出る、あの笑顔だった。
「あーどうしよう、一気だった」
「うまかったな。俺もうちょっと入るかも」
「じゃああたしも……って言いたいけどあともう一皿は多そうだなあ」
「頼め頼め。おまえが食いきれなかったら俺が食うし」
「うーん」
よかった、ほんとによかった。
そう思ってあたしはお冷やを継ぎ足すついでにそっと傍に寄って言った。
「ちょっと少なめでも作れますよ」
「おっ、ほんと?」
男の人がぱっと顔を輝かせた。
ハンサムが笑顔になると反則だと思うけれど、その人はあくまであたしではなく、目の前に座った女性に向けて笑っていた。
「よかったじゃん。どれが気になんの」
「これ……」
あたしはちょっと離れたところにいたが、美人の彼女が指さした写真はわかった。
唐辛子と鶏肉の黒酢炒めだ。
丸みのある野菜みたいな唐辛子と、鶏肉の素揚げを野菜と一緒に炒めあわせたもので、なにを隠そうメニューの写真はあたしが撮った。
きれいに撮れて自信作だけど、なかなか頼んでくれる人がいないのが悩ましい。
「かなり辛いのかなと思って……あと、充さん、さっき頼んだのも鶏だったから、かぶっちゃうと思って」
「気にしねぇけどな」
その時、厨房でなにかしらの動きを感じてあたしが目を向けると、父さんが黙って赤唐辛子の炒めてない生のやつをひとつ出してきたところだった。
これは。娘のあたしだからわかる非言語コミュニケーション。
父さん、そんなだからバイトの人が続かないんだと思うよ。
言いたいのをぐっとこらえて、あたしはそれを小皿に乗せておふたりの席に持って行った。
「これは?」
「その料理で使われてるのと同じものです。生でも食べられますので、試してみて下さい」
その唐辛子は見た目に反して、そんなに、そこまで、辛くない。
辛さの中にもほんのりした甘みと旨みが感じられるやつだ。
男の人が興味津々で手にとって、半分に割ると、片方を女の人に手渡して、先に自分がかじった。
「ん……? 馬鹿辛い……ってわけでも、ないか?」
「わかんないよ。後からカーッとくるやつかも」
そんなことを言いながら女の人もおそるおそる生唐辛子をかじる。
あたしも何度も食べたからわかるけど、この唐辛子の辛さの奥にある旨みはけっこうくせになるんだ。
多分、この人これ頼んでくれるんじゃないかなあ。
そんなことを考えていると、厨房の中でまたなにかが動いた。父さんのコックコートの白い袖だ。
父さんはあっちをむいたまま、使うわけでもない卵を手に持っている。
はいはいわかってる。そういう細かい調整がきくのが、街の中華料理屋だって、父さんはいつも言ってるもんね。
あたしは、おふたりが十分唐辛子を味わって納得するまで待ってから切り出した。
「もし辛さが大丈夫そうなら、鶏肉は卵に変更もできます。お値段はそのままなんですが」
「全然いいよ」
男の人が打ち返すように答える。
「君江、頼んじゃいな。多ければ俺食うし」
「うんっ。あと、エビの湯葉巻き揚げも一緒に、いいですか」
「ありがとうございます」
あたしが追加注文を受け終わると、父さんは既に調理に入っていた。
その背中のリズミカルな様子でわかる。父さんがこの美男美女カップルを気に入ったんだということが。
ふたりは料理が来るまでの間、メニューを眺めてあれやこれやおしゃべりしていた。
そしてさっきと同じように、料理が到着するとぴたっとそれをやめて、さくさくと小気味よい音を立てて湯葉巻き揚げを食べ、唐辛子炒めを食べてくれた。
男の人はご飯のおかわりまでしてくれた。
「あーうまかった。御馳走さん」
「美味しかったです。また来ますね」
「はいっ」
お会計をし、おふたりを送り出したあとで、あたしは満ち足りた気持ちだった。
よかった、おいしく食べてくれて。
よかった、何事もなく済んで。
接客中にお客様をじろじろ見るわけにもいかないからそんなことはしなかったけど、思い出してみると、二人ともかなりの美形だった。
特に男の人のほうが、陽性の明るさを持っていて、どこか日本人離れもしていて、髪の毛もメッシュの入ったダークブロンドで。
例えるとしたら、そう、太陽神アポロンみたいな。
そしてそんな彼が連れの女性にベタ惚れだっていうのはもう、見ているだけでわかって。
(アポロンの片想いといったら、ダフネでしょう)
あたしは片づけをしながらにんまり笑った。
ダフネさんとアポロンさん。
あたしの中でさっきのおふたりのあだ名はそれに決まった。
我ながらいいセンスだと思う。さっきの女の人の、ちょっととっつきづらそうな整った顔立ちも、男を嫌って逃げようとしたダフネにぴったりだ。
いや、別に、片想いってわけじゃねーし。
俺ら、付き合ってるし。両想いだし。
本人が聞いたらそんなことを言いそうなことを、あたしはくすくす笑いながら、おふたりがいなくなってからもずっと、考えていた。