第29話 トーラレイの暁 ④
翌朝――
休暇を終えたロイシンが、グレンミルに戻るため、朝一番の船で島を出ると聞いて、エイダンは見送りのために、一緒に港へ向かった。
白みつつある東の空を眺めて、陽が昇るのが早くなったな、とエイダンは思う。港を行き交う漁師達は、早くも初夏の漁の見込みについて話し合っている。
「グレンミルのミルって、コーヒーミルとかの、あのミル?」
「うん、グレンミル村の中央にある、谷川の大水車の事じゃろねぇ。大分昔からあったらしいから」
渓谷の村グレンミル。谷間を潤す川に、荘厳な大水車。その周囲に広がる美しい薬草園と……草花の只中に立つロイシン。エイダンは、そんな景色をフワフワと想像した。
「一度、俺も行ってみたいな」
「来て来て! ええ所よ」
「ロイシンの御師様にも、挨拶しとかんと」
「えっ? あああ挨拶って、何の?」
何故か慌てふためくロイシンに、エイダンは首を傾げて答える。
「何のって、医療業ギルドの推薦状、お願いせんとだけん」
医療業ギルドに加入するには、治癒術士として三年以上の就業を証明し、二名のギルド員の推薦を貰う必要がある。
推薦のうち一件は、タウンゼンドに頼むつもりだが、もう一件は、ロイシンの師匠であるグレンミルの薬草師に頼もうと、エイダンは考えていた。
魔道薬の処方について、何度か手紙で助言を貰っているので、お互い筆跡と人柄は知っているが、直接会った事はない。重要な頼み事をするなら、一度は対面しておくべきだろう。
「あ、そっか……そうね」
と、ロイシンは呼吸を落ち着かせた。
「いつかは直接行くとして……ロイシン、とりあえず、またそっちに手紙出してもええ?」
「勿論、ええよ。わたしも書くよ。ていうか、エイダンがアンバーセットにおった時、しばらく連絡取れんで心配したんだけんね」
「あー……ごめん。あん時、家も仕事もお金もなくて、余裕もなぁで」
「もう。そういう時こそ、頼ってくれたらええんに。一人きりで頑張らんといて」
「……分かった」
ロイシンのこういう所は変わらない、と考えながら、エイダンは二度三度と頷く。
いや、実は彼女は、何も変わっていないのかもしれない。変わったのは、エイダンの方だろうか?
港の方角へ向き直ったロイシンが、そこでふと目を凝らした。船着き場に、数人の人影が見える。
「あれ? ハオマさん」
「ほんまじゃ。ヒューさんと、デイジーもおるね」
デイジーは、行商の旅のUターン地点であるイニシュカ島での商売を終えたので、これから父親と共に、一旦フェザレインに戻る予定らしい。
ハオマの予定は、何も聞いていない。またどこへともなく旅立つのだろうか。
「ハオマさーん」
「もう行くん? また来てぇな」
駆け寄ったロイシンとエイダンが、代わる代わる別れを惜しむと、ハオマは目を閉ざしたまま、眉根を寄せた。
「来ますよ。……こういう挨拶が苦手だから、朝一番の船にしたのに、まさか逆に集合してしまうとは……」
「わたしも朝一番の船なんです。今から出発しても、グレンミルに着くのは日暮れの頃なんで」
「ええ。拙僧の、他人の行動様式の読みが甘かったという事です」
むすっとして、ロイシンに応じるハオマである。
もしかしたら、彼なりに別れ難い思いを表現してくれているのかもしれない。
「おはよ! ロイシンも同じ船なん? ほんなら、うちの馬車乗って行きぃな、グレンミルまで」
「デイジー、ええの?」
「ええよ、トーラレイで一緒にお昼買お!」
デイジーがこちらを見つけてやって来て、ロイシンと盛り上がる。
彼女は昔からよくイニシュカを訪れているので、島民とはすっかり顔馴染みだ。
「ヒューさんは、トーラレイまで一緒に行かんでええんですか?」
と、エイダンはヒューに訊ねる。
ヒューは、イマジナリー・リードの入ったガラス球を携えていた。漁師や船乗り達の働く港で、朝っぱらから幽霊同然の姿を見せる訳にもいかず、リードはガラス球の中で、顔だけを覗かせている。これはこれで、多少恐ろしいのだが。
「残念ながら。今日はこれから、大叔父を……イマジナリー・リードを、イニシュカ小学校に連れて行かなくちゃならないんだ。俺自身の挨拶も兼ねてる」
「あっ、ほんなら、『男爵文庫』の管理人になってくれるっちゅう話、決まったがです?」
「君が、学校に話を通してくれたお陰でな」
ヒューはこれからしばらく、エイダンによる体質改善治療を受けるために、イニシュカ島に滞在する。
そして滞在中、ただ暇を持て余している訳にもいかないと、彼は『男爵文庫』の蔵書や備品を再度整理し、建物の老朽化した部分を修繕する事を、申し出たのである。
当然、ヒューには日曜大工の経験などないから、点検して修繕の手配をするだけだが――ともあれ、無人になりがちだった図書館を、放課後も見回ってくれる人員がいるのは、子供達にとっても心強いだろう。
「我輩も、今後は学校の『教材』として余生を送ろう。ま、平民の子供達に知識を広める暮らしも、悪くない」
「そらぁ、良かった。生徒達も喜ぶじゃろうなあ……いや、怖がるかな……」
「何だ、失敬な」
顎に手を当てて思案するエイダンに、イマジナリー・リードが文句をつけた。
「デイジー、俺もその、便りを出すから」
ヒューがデイジーに向き直る。
「次の機会にはぜひ……フェザレインまで、迎えに行かせてくれ」
彼はいくらか緊張した表情を浮かべていたが、それでも貴族らしい所作で、デイジーを前に、膝を折った。彼女の手首をそっと持ち上げる。
トーラレイでは成功しなかった口づけが、エイダンや漁師達の前でなされた。「おぉ……」と、まるで関係ない通りすがりの船乗り達が、歓声を上げたりしている。
「ウェッヘン」
妙な咳払いが上がった。
デイジーの父、アーロンだ。丁度船に荷物を運び終え、こちらに戻ってきたところで、劇的な光景に出くわしてしまった訳である。
「と、父さん」
少々場を忘れてうっとりしていたデイジーが、慌てて我に返る。
「いや、別に、デイジー……父さんは反対せえへんぞ。ただ、トーラレイ卿とは、色々話し合わなあかんかもなと」
「それは、勿論」
どぎまぎしながらヒューは答えた。
いくらか離れた場所で、やり取りに聞き耳を立てていたハオマが、こそりとエイダンに囁く。
「彼は今、煙を噴いておりますか?」
「いんや。治癒術がまだ効いとるみたい」
同じく、小声で受け答えしたエイダンに、ハオマは珍しく、微かに嬉しそうな声色で、
「それは重畳でございます」
と述べた。
エイダンの察するに、ハオマは、ヒュー・リードといういささか不器用で、世渡りの苦手な貴族の子息に、どこか親近感を抱き――いわば、応援したいと思っているのだろう。
勿論エイダンは、そんなハオマの内面をからかったりなどしない。
ハオマには、また気兼ねなくイニシュカ島に立ち寄って欲しいからだ。照れ屋で不器用な友人との付き合いは、時に、難しいものがある。
◇
ハオマとエディソン親子が船に乗り込み、続いて、ロイシンが桟橋の上で、肩掛け鞄の紐の位置を正す。
「ロイシン!」
エイダンは、急に思い立って呼びかけたものの、振り向いたロイシンの顔を見つめたところで、何と言葉を続けたものか、分からなくなった。
あとから手紙に書こうか、などとあれこれ考えた末に、結局、彼は意を決して、再び口を開く。
「ずっと言い忘れとったけど……。ロイシンの、その髪型な。すごい、可愛えと思う」
ロイシンは、ぱちぱちと蓬色の目を瞬かせた。
どう考えても唐突だし、脈絡がないし、今更だな、とエイダンは、少なからず発言を後悔する。数日前、シェーナに叱られたとおりだ。再会したその場で言えば良かった。
「ほんとに?」
「……うん。あの、前は確かこう、後ろで結んどったよな。それもええと思うんじゃけど、今の方がええっと……何ちゅうか……お、大人っぽい?」
しどろもどろにそこまで言った時、エイダンは、何か柔らかな物が自分の身体にぶつかった事に気づく。
ロイシンが抱きついてきたのだ、と理解するまでに、数秒を要した。
錆びついた挽き器のハンドルのようなぎこちない動きで、エイダンは彼女の背に腕を回す。
――沈黙が続いた。お互いの鼓動しか聞こえない。
やがて、ロイシンの方がぱっと身体を離した。彼女は耳の先まで真っ赤にして、船へと駆け去る。
甲板への階段を上りきってから、ロイシンはようやく、
「じゃあね、手紙書くね!」
と、笑顔で大きく手を振った。
東へ向かう船は、ロイシンを乗せると、すぐに出港した。
洋上に、朝日が昇ろうとしている。今日は快晴になりそうだ。遥か先のトーラレイの岸辺が、澄んだ水平線の向こうに薄っすらと見える。
今見える景色の全てが、とてつもなく素晴らしいと、エイダンは世界中に向かって、叫び出したい気分だった。
【完】
今回にて、ひとまず第二部最終回とさせて頂きます。
お付き合い頂きどうもありがとうございました。
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