第2話 ふろふき男爵の冒険 ②
見れば、向こうからデイジーが走ってくる。
「もう、言うとるそばから!この森は危ないんやって……ん、あれ?」
ヒューの目の前まで駆け寄ってきたデイジーは、傍らの木陰で琴を弾き続ける僧侶に気づき、不思議そうな表情を浮かべた。
「お坊さん、前にどっかで……あ、思い出したっ!イニシュカ村の結婚式の日におった、エイダンのお友達やん!ハオマさん言うたよな!」
急にすっきりした表情となり、ぱちりと指を鳴らして、デイジーは言う。
「うち、デイジー・エディソン。覚えとるかな?あん時正月明けやったから、もう二ヶ月は経つんかぁー」
デイジーは人懐っこく話しかけるのだが、ハオマと呼ばれた僧侶はというと、いまだ演奏を止めず、デイジーの方に向けて、軽く会釈を返すのみである。
「ちょっと待て!」
つい、ヒューは口を挟む。
「確かに俺の呼びかけは、不躾だった。不愉快と思うのも仕方ない。しかし、既知であるらしいエディソン嬢へのその態度は、失礼じゃないか?」
「ヒュー坊、やめぇって」
デイジーが執り成そうとしたが、ヒューの気は治まらない。
彼女は何も、舞台でコンサート中の奏者に声をかけるような、非礼を働いた訳ではないのだ。たとえ鍛錬中の貴族の軍人であっても、話しかけられれば、一旦素振りを止めて武器を収める程度の弁えは身につけている。
ヒューが更に言い募ろうとした時、ハオマの奏でていた曲の、調和の取れたメロディラインが、僅かに乱れ、和音を濁らせた。
「――ああ」
唸るような嘆息を、ハオマが漏らす。
「失敗です。この曲……『牧畜犬追複曲独奏』は、ミスの許されないもの。……彼らが、現れてしまう」
「は?現れる?彼ら?」
予期せぬ発言に、一旦口を噤んだヒューは、目を瞬かせ、ただ問い返した。
その直後の事だ。
草と枯葉にまみれた地面が、ぐらりと動いた。周囲の木々の枝に止まっていた小鳥が、一斉に飛び立つ。鳥達の警戒の声と枝葉の擦れる音で、静かな森は、俄に騒々しくなった。
「何だ、地震?」
ヒューは慌て、よろめきながらも、デイジーと目の不自由なハオマを庇おうと、二人の腕を取る。
しかし、地震にしては様子がおかしい。
前方の地面が、突如盛り上がる。地表のすぐ下で、巨大なモグラでも駆け回っているかのように、土の盛り上がりはこちらへと近づいてきた。
それも、一箇所ではない。見渡せば、辺りそこらじゅうから、盛り土が迫ってくる。
「一体これは――」
ヒューは身構え、腰の剣に手を添える。
ぼこりと、土の中から何者かが現れた。ヒューの視界の端である。彼はすかさず、そちらへと爪先を向けた。
「メェエエエッ」
現れたその獣は、耳に響く鳴き声を上げる。
全体の形状は、羊に近い。しかし羊にしては大型で、体高がヒューの顎下くらいまであった。
朽葉色の、毛皮とも腐葉土ともつかない塊で体表が覆われ、顔面は木の皮のようだ。目のあるべき場所には、ぽっかりと不気味な洞が開いている。異常に発達した二本の角からは、何本かの蔓と葉が生えていて、蔓の先はまだ地中に埋まっている。
「もっ、魔物……!」
デイジーが引きつったような声を上げた。
「バロメッツです。『羊の成る草』の地下茎――」
ハオマが冷静に説明する。
「お気をつけて。地中から這い出たばかりのバロメッツは、極めて凶暴です。目についた繊維全てに齧りついてしまう」
「お気をつけてって言われても……わああッ!?」
「メエエエエエッ!」
新たに、デイジーの足元から這い出たバロメッツが、脇目も振らず彼女に襲いかかった。
膝下まである厚手の巻きスカートに食いつかれ、地面に引き倒されたデイジーは、咄嗟に頭に巻いていたバンダナを掴み、放り投げる。
「メェッ!」
バンダナの方に気を取られたバロメッツが、今度はそちらへと齧りつき、瞬く間に引き裂いてしまう。デイジーは地面を転がるようにして逃げ、ヒューは彼女と入れ替わる形で、バロメッツの前に立ち塞がった。
「婦人の衣服に、何て真似をする!この変態羊!」
「単なる食欲から来る本能的行動ですが」
「わーってるよそんな事は!こういう啖呵は勢いでいいだろ!」
訂正を入れるハオマに言い返してから、ヒューは愛用の剣を抜き放った。
柄の先に加護石を埋め込んだ長剣。刃自体にも、魔力の伝導を高めるよう、簡易な加工が施されている。
正規軍に入隊する時、魔道具専門の鍛冶師に鍛えて貰った、加護剣の逸品だ。
正規軍時代のヒューは、『魔道剣士』の部隊に配属されていた。剣技の華々しさから、祭典のパレードの際には花形となる部隊である。尤も、結局は入隊から三ヶ月程で退役となってしまったので、パレードには参加した事もないが。
「メェェエエッ!」
「来いッ!」
羽織っていたケープを、わざとひらつかせると、バロメッツが二頭ばかり、興奮した様子でヒューへと角を向ける。泡立った涎を吹き、木の棘に似た歯を剥き出す姿は、なかなかの迫力だが、怯んでいる場合ではない。
突進してきた一頭の頭突きを躱しざま、ヒューはバロメッツの、角から生えた蔓を逆袈裟に斬り上げた。続けて、飛び掛かってきたもう一頭の、跳ね上がる前脚を掻い潜り、横腹に斬りつける。
腹部を斬られた方はどさりとその場で倒れたが、蔓を切断された方は、方向感覚を失ったようにふらつきながらも、まだ土を蹴上げている。
「蔓が地面と繋がっているから、あそこが弱点かと思ったが……切断しても、ダメージにはならないのか?」
剣の切っ先を、油断なくバロメッツに向けたまま、舌打ちをするヒューに対して、ハオマが首を振ってみせた。
「いえ、対処としては正しいです。彼らはあくまで地下茎で、動物ではございません。蔓から切り離されれば、一定時間後に大人しくなるでしょう」
「詳しいな。どのくらいで大人しくなる?」
「二、三時間も全力で暴れれば」
「それじゃ困る!……あっ、逃げるぞ!」
蔓を斬られた一頭が、何を思ったか、街道方面へと走り出した。それに釣られるように、地面から沸いて出た数頭のバロメッツが、次々と疾走を開始する。
「あっちには父さんが!」
土と枯葉まみれになりながらも、身を起こしたデイジーが、悲痛な声を上げた。
「街道に出る!止めなければ!」
羊を追おうと駆け出したヒューは、しかし、直後にぴたりと足を止めた。
動悸が高まっている。
自分の呼吸音と鼓動に混じって、酷い耳鳴りがする。その分、周囲の音を上手く捉えられない。下腹に、絞られるような痛みが走る。
よくない兆候だ。既に何度か経験してきた、これは――『呪い』が発現する前触れだ。
「ヒュー坊?」
停止してしまったヒューを追い越してから、デイジーが振り向く。
「だ、大丈夫だ……しかしエディソン嬢!君は離れていてくれ、危ない!」
「何言うて――」
「いいから!呪いに巻き込まれる!」
重ねて何事か問おうとするデイジーを、振り切るようにして、ヒューは再び駆け出した。
森を抜け、視界が開ける。
先を疾駆するバロメッツの群れは、案の定、街道の脇に停めてあったエディソン親子の馬車を目にするなり、それに殺到した。
「うわっ!何や何や!?魔物か!」
御者台で一服していたアーロンが、大慌てで地面に飛び降り、短剣を抜いたが、相手は五頭、六頭と増える。短剣一本でどうにか出来る事態ではない。
馬車に取りついたバロメッツ達は、屋根を覆う幌を食い千切り、内部にまで侵入してきた。
馬車内には、商売のための反物や古着が仕舞われている。それらが根こそぎ食い荒らされては、エディソン親子まで行き倒れてしまう。
焦燥から息の上がるのを感じつつも、ヒューは羊達の群れの中心へと斬り込んだ。
――そもそも自分が、こんな森の前で馬車を止めなければ。
剣を振るいながら、頭の隅でヒューは悔やむ。
――全て自分のせいだ。いつもこの調子だ。何をやっても、全部台無しにしてしまうんだ。
耳鳴りが酷くなってきた。目は開けているのに、周りで何が起きているのか、分からなくなる。そうだ、アーロンを助けなければ。馬車を守らなければ……
「ヒュー坊!?危ない!」
アーロンがこちらに気づいて叫ぶ。バロメッツの一頭が、ヒューのケープに齧りつこうと、飛び掛かってきた。
ヒューは咄嗟に、加護剣を高く構え――
その切っ先から、突如として大量の煙が噴き出した。
正確には、煙ではなく蒸気と呼ぶべきかもしれない。
一瞬遅れて、手にした剣の刃からだけでなく、ヒューの服の袖口から、襟首から、更には頭の天辺からも、次々と蒸気が上がった。ぶしゅー、などと気の抜ける音まで立てて。
「メエェッ!?」
バロメッツが、驚きに浮き足立った。
馬車に群がっていた数頭のバロメッツも、何事かと戸惑い、暴れ回るのをやめる。
その間にも煙は沸き上がり続け、ものの数秒で、馬車の周辺、森の入り口から街道上に至るまで、もうもうとした蒸気に覆われてしまった。
「な、何なんこれっ!?」
馬車の近くまで駆けつけたデイジーが、呆気に取られて足を止める。
「空気に異変が感じられます。何か異常な現象が?」
デイジーに追いついたハオマが、耳を傾けて呟いた。
「え?あっそうか、お坊さん、見えとらんのやな。煙だか霧だか……とにかく、そこらじゅうが白いモヤモヤまみれで、うちも何も見えんようなってしもうた。今この距離で、あんたの目鼻も怪しいわ」
手を伸ばせば触れる程の距離にいるデイジーに、そう説明され、ハオマは「なんと」と、平淡な口調で驚きを表明する。
「俺にかけられた、呪いが発現してしまったんだ!」
すぐ近くにいるはずの全員に向けて、ヒューは呼びかけた。
「この蒸気、吸っても毒性はない……はずだ。だから慌てないでくれ。でも、武器を振り回すのも、急に動くのも危険だ!」
やってしまった、と消沈しつつも、ヒューは続ける。
ヒューと彼の一族にかけられた呪い。それがこれだ。家族一代につき一人以上は、『突然身体から煙が噴き出す』という特異な体質に生まれついてしまう。
特に、極度の緊張状態に置かれたり、激しい運動をしている時に発現しがちという厄介な呪いで、つまりは、重要な事態の只中や戦いの真っ最中、ぶしゅーっと煙を噴いて、周辺一帯を視界不良にしがちなのである。
しかも、呪いは発現したりしなかったりで、全くコントロールが利かない。
本来、ヒューは火属性の魔道剣の使い手なのだが、正規軍時代、魔道剣士部隊の訓練中にも、大体三回に一回は演習場を煙まみれにした。
これでは演習にならないと苦情が出たため、入隊早々、実家に送り返されてしまったのだ。
『ふろふき男爵』
などという、不名誉な渾名だけを携えて。
「しかし、どうやらバロメッツの動きも止まったようですね」
ハオマが蛇頭琴を抱え、ゆるりとした歩調で馬車の方へと向かう。
「お坊さん!動いて大丈夫なん?」
「拙僧にとっては、普段とそう変わりない状況です。空気が重く、微かな水の匂いを感じますが」
そう答えると、ハオマは正確に、ヒューの真横、バロメッツの群れの前で止まった。困惑したバロメッツが、まだ口をもぐもぐさせながら、メエメエと鳴いている。
「今度こそは……」
低いが、決意に満ちた声で一つ呟くなり、ハオマは蛇頭琴の弦を、義爪で弾いた。
一定のリズムに基づく、穏やかな旋律が始まる。一節を終え、再び同じメロディが繰り返される。ただしそのメロディを追って、あたかも輪唱者が加わったかのように、同様の旋律が調和を保ったまま重なる。
先程、ハオマが演奏していた曲だとヒューは気づいた。追複曲の独奏。音楽には詳しくないが、五つの弦を使ってこの楽曲を奏でるには、相当な技巧が必要である事は分かる。
バロメッツの群れが、一斉に森の方角へと首をもたげた。ハオマの音楽に合わせるような規則的な動きで、群れは整列し、粛々と森に向かって歩き始める。視界は悪いが、バロメッツの足取りに迷いはない。
森の中へと、バロメッツの群れの姿が消えていく。ハオマが音楽を止める事なく、その後ろについて行った。
ヒューは自分の剣を見つめ、それから手首の袖口を観察する。もう呪いの発動は治まったようだ。周辺の煙も、徐々に薄れ始めた。
場合によっては、小一時間噴き出し続ける事もあるのだが、今回は随分すんなりと治まったな、とヒューは、安堵すると共に首を傾げる。
急いでハオマの後を追い、森の中を探すと、バロメッツが土の中から這い出てきた地点に彼はいた。
バロメッツは、自分達が出てきた事で空いた地面の穴に、身体を潜り込ませているところだった。羊のような顔面は朽葉色の体毛の中に埋もれて消え、その毛皮も、獣ではなく、ある種の芋のような外見へと変容していく。
そして、群れはぴくりとも動かなくなった。