第15話 ベアキラーの帰還 ③
長々と尾を引いた咆哮の、こだまが返ってくるより先に、シェーナは戦闘態勢に入り、錫杖を構えていた。
「今のは……!?」
「まさか、魔物?」
ロイシンも、片手で持っていた長杖を、胸元に引き寄せて警戒する。
遠くから、足音が聞こえてきた。複数人だ。人間のものかどうかは、判別がつかない。
シェーナは咄嗟に、ロイシンを呼び寄せて結界を張ろうとしたが、直後、眼前の地面に異変が起きた。
正確には、地面からほんの僅か、浮き上がった所に、と言うべきか。
そこに、水晶を思わせる半透明の『道』が、整然と舗装された状態で現れたのだ。
「これって……地属性遁走用結界!『脱兎小路』!?」
シェーナの声に呼応するように、足音の主が草むらを掻き分けて姿を見せ、言葉を発した。
「シェーナ。貴方ですか、その声は」
「……ハオマ!」
目を瞠るシェーナの横で、ロイシンが木々の奥を指差す。
「もう一人、人が……! 追われてます!」
指で示された先。『脱兎小路』による結界の道の上を駆けて、真っ直ぐにこちらへやって来る者がいる。
フェリックスだ。いつになく、その表情に一切の余裕がない。
それもそのはずで、フェリックスのすぐ後方には、猛スピードで彼に迫りつつある巨獣の影があった。
「あれは――!?」
フェリックスが駆け抜けた端から、『脱兎小路』で出来た道は消失し、茂みや泥濘が追跡者の行く手を阻んでいるはずなのだが、獣はまるで、怯む様子を見せない。
燃え盛るような真紅の長い毛皮に、畳まれた両翼。ナイフのように鋭利な鉤爪が、前後の脚にそれぞれ五本ずつ生え揃っている。体高だけで、実に四ケイドルはあるだろう。
熊だ。背中に翼を生やした真っ赤な熊が、今にもフェリックスの後頭部に齧りつきそうな勢いで、牙を剥いて向かってくる。
「ヴラディベア!」
ロイシンが口元を押さえ、息を呑みつつその魔物の名を呼んだ。
「シェーナ!? ここで何を! 危ないぞ!」
フェリックスがこちらに気づくとほぼ同時に、シェーナは呪文の詠唱を終え、鋭く声を飛ばした。
「フェリックス! 伏せて!」
幸い、ここは川の近くだ。シェーナの扱う治癒術は水属性。ラグ川の早瀬を、そのまま魔術に利用出来る。
「『流水花弁晶』!」
シェーナとロイシンの後方を流れていた川の水が、詠唱に応じて逆巻き、二人を飛び越えて、ハオマとフェリックスまでも取り囲む。花弁のように広がり、噴き上がる水の壁に押し返され、ようやく熊の猛進は止まった。
「グガアアアアアッ!」
脚は止まったが、熊の食欲はまだ、フェリックスに向けられているらしい。その場で吠え立て、流水の壁を爪で掻き切ろうと、前脚を振り回す。
鉤爪と体表が、余程の高温となっているのだろうか。水の壁が湯気を吹き上げ、薄れ始めた。
「まずい、結界がもたない! 退却っ!」
シェーナは皆に呼びかけ、錫杖を構えたまま、自身も川の手前まで後退する。
と、不意にハオマが、蛇頭琴と共に小脇に抱えていた、ガラス球に向かって話しかけた。
「イマジナリー・リード。どこかに逃げ場は?」
「ふむ。ここはもう灯台の近くだな? この辺に、灯台守の薪小屋があったはずだ」
ガラス球から、男の声が聞こえてくる。
「……え? 何ソレ?」
「ソレとは何だ!」
驚くべき事態が一度にいくつも起こり、つい率直過ぎる疑問を口にしてしまったシェーナに、ガラス球が怒った。
「詳しい説明はのちほど」
ハオマが短い回答を寄越す。
彼はガラス球と蛇頭琴を抱え、更に片手の杖で前方を探ろうとしていたが、流石に難儀と思われた。全力疾走で乱れた息を、整え終えたフェリックスが、ガラス球を受け取る。
「お前は扱いが雑だ。我輩は精緻なる魔道具であり……」
ガラス球がごにょごにょと、フェリックスに文句を言った。どうやら気位の高い人物らしいが、緊急時なので無視される。
結界を維持しつつ、じりじりと魔物から距離を取るシェーナの横で、ハオマが蛇頭琴を奏でた。『流水花弁晶』強化のための、即興だ。
「こいつ、火属性の魔物ね。悔しいけど、相性悪いわ……!」
普段シェーナが使用する結界治癒術、『聖泡破邪壁』であれば、既に突破されていたかもしれない。あの術は、消耗する魔力が少なく、持続可能時間が長いという利点があるものの、そう強力ではないのだ。
今張っている結界は強固だが、大量の流水があるこの場所でなければ、長時間は維持出来ない類いの術である。
「悔恨には及びません……強化が完了しました。これでしばし、保つはずです」
五弦を駆使した和音で、ハオマは即興演奏を締めくくった。
薄れ始めていた流水の結界が、地属性の支援によって硬化する。爪の一撃を弾かれ、魔物は驚きと怒りの唸りを上げた。
「凄いぞ二人とも! 今のうちだ、君も早くあちらに!」
フェリックスがロイシンを促し、走らせる。彼の指し示す方向には、小さな木造りの小屋が見えた。薪小屋というのはあれだろう。
「は、はい……あっ」
駆け出したロイシンが、川辺にちらりと目を向ける。
シェーナも薪小屋を目指しつつ、川辺に視線を走らせる。遠目に、黄金色の花の群れが見えた。
ロイシンの目的の花、ハルキハッカとは、ひょっとしてあれだろうか?しかし、今は無論、花を摘んている猶予などない。
「小屋に隠れて、それでやり過ごせるかしら」
「難しいだろうな」
呟くシェーナに応じたのは、ガラス球である。
「ヴラディベアとは、アルフォンスにとって、懐かしくもおぞましい名前だ。数年に一度、北の不毛の地よりこの島に飛来する、翼と灼熱の毛皮を持つ熊……火の精霊王ヴラダから、毛皮を盗んだという伝説がある」
それは伝説に過ぎん話だが――とガラス球は注釈を加え、更に続けた。
「イニシュカには、ラグ川の魚を狙って襲来するのだろう。雑食だが非常に獰猛でな。村近くまで降りてきて、村民に被害が出た事件もあった。一度人間の『味』を覚えると、極めて危険だ。嗅覚が鋭く、家屋の壁くらいは平然と突き破ってくるぞ」
「じゃあ、あの薪小屋に隠れても……!」
「しかし逃げ続けたところで、人の足ではすぐ追いつかれる!」
それはガラス球の言う通りだ。先程のフェリックスも、危ういところだった。
では、どうするのが最善か。ロイシンは、薪小屋に隠した方が良いだろう。その上でシェーナが結界を張り直し、ヴラディベアを引きつける。隙を見てフェリックスに麓まで走って貰い、救援を呼ぶ……取れる方策はそれくらいだろうか。
ただ、救援が来るまで、シェーナが結界を保てるとは思えない。
兎にも角にも、四人とガラス球は小屋の中に逃げ込んだ。
戸の隙間から外を覗くと、ヴラディベアが川辺を駆け上ってくるのが見えた。黄金色の花が無惨に蹴散らされ、草むらから煙が立ち昇る。体表は先程よりも、もっと温度を上げているようだ。
「ああ! ハルキハッカが……」
ロイシンが小声で嘆く。
「このままじゃ、山火事になるかもしれません。そうなったら、村まで……!」
「大丈夫。何とか、草木の少ない方へ誘導するわ。ロイシンはここを動かないでね」
シェーナはロイシンの肩に手を置き、強く言い聞かせた。熊を誘導した後どうするかは、まだ思いついていないが、最早出たとこ勝負で、やるしかない。
錫杖を構え、呪文を詠唱しつつ、一度は閉ざした木戸を開けようとするシェーナを、そこで引き止める声が上がった。
「待って下さいシェーナさん、わたしが行きます!」
ロイシンである。
その場の全員が、目を丸くした。
「何言ってんの! 依頼人に危険な真似はさせられないって!」
「村を思う気持ちは分かる。しかし、今は僕らに任せるんだ、ローソン!」
フェリックスが、真摯な眼差しできっぱりと告げた。が、派手に名前を間違えている。
「彼女はロイシンよ」
訂正を入れてから、シェーナはロイシンに向き直った。
「無茶は駄目よ、ロイシン。魔物はあたしが引きつける。もし逃げるとしても、あいつが見えなくなってから――」
「いいえ、任せて下さい」
ロイシンはシェーナの言葉を遮り、長杖をぐっと握りしめてみせる。
「わたし、前にも勝ちましたから!」
「ロ――え?」
全く予想だにしない一言だった。シェーナは反論に口を開きかけ、そのまま硬直する。
「シェーナ、フェリックス。ここは彼女に任せてみましょう」
そう発言したのは、ハオマだった。
「ハオマ!?」
「落ち着いて聞いて下さい、フェリックス。彼女……ロイシンの心音と呼吸音は、現在この中で最も落ち着いている。足音からしても、何らかの武術の達人と思われます。そうですね?」
「何て?」
シェーナは思わず聞き返した。
ロイシンはあくまで冷静に、首を振ってみせる。
「達人だなんて。わたしは……ただの薬草師です。薬草師に必要な事が出来るってだけです」
そう言い残して、止める間もなく、ロイシンは小屋から飛び出した。
「ロイシンッ!」
シェーナは後を追ったが、予想外に彼女の足は速かった。せめて結界が間に合えばと、走りながら呪文を詠唱する。
ヴラディベアが、四肢の鉤爪から煙を立たせつつ、斜面を駆け上ってきた。
魔物の間合いに入る。その直前、ロイシンは唐突に、地面に転がるかと思える程、腰を落とす。
「グラアァァッ!」
猛る声を一つ上げて、ヴラディベアが前脚の爪を繰り出す。
姿勢を低めていたロイシンは、すれすれでそれを回避した。そして空を掻いた脚を、掬い上げるように杖で打ち据える。
不意を討たれたヴラディベアの身体が、大きく傾いだ。
ロイシンは杖を素早く回転させ、構え直すと、牙を剥き出し、大きく開かれた熊の下顎を、横合いから強かに薙ぎ払う。
「ちぇりゃあああああッ!!」
ロイシンの喉奥から、ほとんど怒号に近い雄叫びが絞り出された。
姿勢の崩れたヴラディベア目掛けて、高々と飛び上がったロイシンは、その眉間に、長杖の先端を叩きつけたのだ。
数瞬の膠着ののち、ヴラディベアは――ぐるりと白目を剥き、泡を吹いてその場に倒れ伏した。
ロイシンは、未だ臨戦態勢を解かない。若草色のローブの内側のホルダーから、何かを抜き取った。
ナイフか、とシェーナは思ったが、違う。短刀程の刃渡りの、針だ。
倒れたヴラディベアに走り寄ったロイシンは、体表の熱をローブで防ぎつつ、耳の下部に、素早く針を突き立てた。
魔物は、びくりと一度痙攣を見せ、そして四肢を投げ出した。体表が急速に冷え、焦げついた周囲の草むらが、煙を立ち昇らせる。
――絶命したらしい。
「倒した……?」
結界治癒術の詠唱を中断し、恐る恐る歩み寄るシェーナに対し、
「はい。もう心配いりません」
と、屈めていた身を起こしたロイシンが、にっこり微笑む。
「ヴラディベアは、高熱かつ高硬度の体表を誇りますが……この耳の裏は、毛皮が薄くなっていて、温度も普通の獣と変わりません。つまり、ここが弱点なんです」
ヴラディベアの耳元を指差し、ロイシンは誇るでもなく、淡々と解説を披露した。
襲いかかってくる四ケイドルの巨獣の、耳の裏に針を突き立てるという、そんな隙を作るまでの段階で、普通はかなり苦労しそうなものだが。
「前回も……こうやって仕留めたの?」
シェーナの質問に、ロイシンは照れたような表情を見せる。
「前の時は、ヴラディベアが村に降りてきちゃったんですけど。まだわたしの腕も未熟だったので、追い払うのが精一杯でした。この魔物の弱点は、薬草師の師匠に師事してから、教えて貰ったんです」
話しながら彼女は、ヴラディベアに止めを刺した針を、軽く布で拭い、鞘に納めて、ローブの内側に仕舞った。
「わたしの御師様は、昔ながらの薬草師ですから。野山に生きる全ての存在を、『薬』として活かす……その知識を継ぐ者が、薬草師です。だから採集対象は草木に限らなくて、蜂の巣とか、害獣とかの駆除と利用方法も、実践しながら習うんですよ」
「は、はああ……」
なるほど、かつては冒険者として名を馳せる薬草師がいたという話も、納得だ。
そしてもう一つ、シェーナが納得したのは、イニシュカ村の人々が語っていた、ロイシンの二つ名――『ベアキラー』の由来である。
本当にそのまま、『熊殺し』という意味だったのだ。前回のヴラディベアの襲撃が何年前かは知らないが、少女が棒で熊を追い払ったりすれば、伝説にもなるだろう。
父親のディランから、武術を伝授されたのか、それとも当人の才覚によるものか。
エイダンも、ディランに棒術を習っていたはずだが、彼は護身術程度の腕前だと言っていたし、実際、専門の格闘家には及ばない実力である。恐らく、ロイシンの方が強い。
「大丈夫か!?」
小屋の方から、フェリックスが駆けてきた。
「……大丈夫そうですね」
「ほほう。大したものではないか」
遅れてやって来たハオマとガラス球が、それぞれに述べる。
「シェーナ、君まで無茶な飛び出し方をしないでくれ。肝が冷えたよ」
見ればフェリックスは、そこらで拾ったらしい、木の枝と小石を片手に携えている。いざとなったら、それを投げて自分の方に魔物を引きつけようと考えたのだろう。
深々と安堵の息を吐くフェリックスに、シェーナは「ごめんごめん」と、軽く頬を掻いた。
「とにかく、みんな無事で何よりよ。護衛任務どころか、すっかり守られちゃった。ありがとう、ロイシン」
シェーナの謝辞に、ロイシンは「そんな」と、またはにかむ。その仕草は、やはり古の叙事詩に登場する、可憐な乙女のようなのだった。
「ところで、貴方がたは……?イニシュカ村の人では、なさそうですけど。シェーナさんの知り合いという事は――」
「ああ、紹介が遅れたわね。彼はフェリックス。村に滞在してる冒険者で、湯治場に勤めてもいるの」
シェーナはフェリックスを手の平で示し、ロイシンに紹介する。フェリックスは、背筋を伸ばしてから恭しく一礼してみせた。
「湯治場……あ、最近村で温泉が湧いたって、友達からの手紙にありました」
「そう、そこで番頭代理を務めているんだ」
ちなみにフェリックスは、エイダンの隣人で親友のキアランが暮らす、オコナー家の離れを借りて住んでいる。
オコナー家当主は、近隣の漁師達をまとめ上げる網元であり、二男二女の父親であり、相当に度量の大きい人物だった。今までも度々、旅行者や食客、行き場のない放浪者を世話してきたそうだ。
「それとこっちは、サヌ教のお坊さんで冒険者の、ハオマ……」
紹介しかけてシェーナは、自分もハオマの滞在を知らなかった事を、今更ながら思い出した。
彼は信仰上の理由から、定住生活をしない。冒険者としての任務でイニシュカ村を訪ねたものの、二ヶ月ばかり前に旅立ったはずだ。
「……そういや、あんたは何でここにいるの?」
「少し、難しい仕事を請け負いましてね。エイダンの力を借りに参ったのです」
「エイダンの!?」
シェーナより先に、ロイシンが勢い込んでその名を問い返した。
「ええ。彼の治癒術士としての実力は、拙僧の知る限り、確かなものですので」
「エイダン、そうなんだ……」
ロイシンの表情が明るくなる。と同時に、頬と耳の端が緩やかに赤らむ。
それに気づいたシェーナは、
(あらあら、やっぱり)
と微笑ましい気分になったが、一先ずは目の前の、ハオマとフェリックスの案件を優先させる事にした。
「それで、どうして山登りを?エイダンはいないみたいだけど」
「エイダンは……タウンゼンド治療院で、急患の看病をしております。今日、この山に重大な用件で登るはずだった人物が、緊張のあまり、酷い腹痛を起こしまして」
「……ええ?」
訳が分からない、と眉をひそめるシェーナに、少し考え込んでから、ハオマは口を開く。
「命を救われた相手に、隠し事というのも失礼でございますね。最初からご説明致します」