めがみ3
真っ白い空間の中で、俺はしゃがみ込んで頭を膝に埋めていた。
手探りだった。
獲物は一撃で仕留めなければならない。糧を頂くのは感謝を以って、決して命を弄んではならない。
人族は一撃で仕留めてはまずい。この世界では生き物の命が軽いのかもしれないが、それでもだ。
迷宮に来てから実際殴って手応えを確かめながら、きっと無意識にズレを調整していたのだろう。最初の頃に比べてかなり手際良くなってしまっていた。
昔は、組手も乱取りも大嫌いだった。
相手に怪我をさせるのが嫌だった。怪我で済むようにするための稽古だとか祖父は言っていたが、そういう問題ではなかったんだ。
それこそ安心して殴れるのは、絶対に壊れないと分かっていた祖父くらいだった。
...なのに今は、えらく威勢の良い鬼っ子達が一人練習する俺に毎日のように飛びかかって来るものだから......俺がちゃんと手加減できるようになったのは、きっと彼女達のおかげだろう。
弟子を取ってからが一人前だなんて祖父は言っていたが、きっとこのことを言っていたのだろう。弟子ではなくヨメだけど。
あのやたら元気の良い人が今の俺を見たならば「今すぐそこを代われ! 代われっ!」と鼻息を荒くしていたに違いない。代わらんけど。
...あの人の尊敬すべき所ではなく、軽蔑していた所ばかりが似てきてしまったな......ハハハ...
その祖父の言葉。
所詮この世は地獄絵図。
眩しいほどの白い空間にフラッシュバックする。
それは闇。身のうちから這い出して喉を締め付ける怖気。
暗がりに転げ落ちている動物達の躯、オークの負傷者達、人の屍、人の屍、人の屍、死屍累々、転げ落ちた物言わぬ肉と血だまりが死の匂いで埋め尽くし――
――逃げても逃げても追ってきて、悲鳴を上げるほどに盛り上がる観客共と観客共と赤の他人共が俺をこう囃し立てる――
「全部、お前が悪いんだよ――殺人鬼!!」
――黙れぇっ!! 死ねっ!!!
頭痛、赤、叫び。右拳に走る激痛。三枚の魔法の盾を砕いた先の幼女には、俺の拳は届かなかった。
涙で滲む真っ赤な視界に煮え滾る脳、胸を締め上げる激しい動悸と喉を焼く乱れた呼吸、頭痛......徐々にそれらが薄れていき――...ゾッとした。
メガミさんが【魔導】で防がなければ、俺は......目の前の幼女すらをも殴っていた......
そんな幼い女神が、俺の右拳を小さな手でそっと包み込んだ。
その手の平の温かな感触から解け崩されたように、俺は、身の内に抱える毒を吐き出してしまった。
「...自分の叫び声で目を覚まして、悪夢で良かったと思うと同時に、夢ならば八つ裂きにしてやるべきだったと、何度も、何度も後悔していた...」
「......」
自分が異常者だって自覚はある。
「だけど、ユメの内でも外でも、結局は、最期はそれを選んだ。あれだけ恐怖していたくせに、もう終わりだと決めた瞬間に...」
「......」
俺の頭に伸ばして来たメガミさんの右手、淡く温かな何かを帯びたそれを、俺はそっとどけた。
「...もう、隠さなくても大丈夫だ......全部、終わったことだ......失敗で終わったんだ」
「失敗なんかじゃないですぅ」
「...戦いの末に決着? 復讐して終了? あり得ない......」
「......」
「何かの試合や競技ならばいざしらず、争いに決着など存在しない! ...少なくとも、俺には、無い!」
「......」
「謝罪? 和解? ...ハハッ、何を言っているんだ?
恨みという名の墓穴を果てしなく深く掘り続けて奴らとその仲間達と更にその仲間達、世界の全てをその底なき穴へと叩き落とすその日まで、決して『飢えが渇くこと』など、無いっ!!」
「......」
「...それが分かっていて、それでも人を殴るのが楽しいのは、復讐など無いという甘い幻想で脳の髄まで酔い続けていられる間だけだ」
「......」
あるいはもう、全てを棄てて刺し違えると諦めた、その時だけだ。
「...酔いが覚めれば、正気に戻ることができたなら、そこにあるものはいつも、恐怖だ」
「......」
「俺に一体、どうしろってんだ......」
泥酔し、狂気のままに、あいつらと――
「――みんな仲良くしないとダメですぅ」
「――...っ、そうだ、そうだよっ!! 『みんな仲良く』しようと、しているんだっ!!」
「......」
「肩のぶつかり合う者同士が互いに半歩譲ってぶつからないように努力をしているんだ! 不倶戴天の敵同士、互いに距離をおきあう努力をしているんだ! ハサミを持てば刺したりせずに理由があれば襲ったりせずに、みんなそれぞれ、仲良く、しようと、努力しているんだっ...それなのに!!」
「......」
「気に入らない、赦せない、当たり前だっ!! あ゛ぁっ!! ...死して殺してなお晴れぬその闇を抱えてっ――...みんな、仲良く、しようと、努力しているんだっ!!」
「それでも、みんな仲良く――」
「――もっと他にっ!! 気の利いたこと言えないのかよ、ダメガミっ!」
「――...信じているですぅ」
「...そんなものは、ただの思考放棄だ、ダメガミ...っ」
隣りに座って俺の背中をさする幼いメガミに俺はただ、八つ当たりすることしかできなかった......
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気がつけば、寝台に眠る俺の傍らにはメイが座っていた。
部屋は暗い、きっとまだ夜か、早朝の時間帯なのだろう。
夢の中で体育座りし続けていたせいか、なんだか重たい上半身を起こすと、メイが心配そうに声をかけてきた。
「うなされているご様子でしたので......大丈夫ですか、ご主人様?」
「...恥ずかしい夢を見た」
「はわわ...」
「...いや、別にエロい夢とかじゃないからね? ......でも色々と、情けない、夢を見てしまったんだ...」
「...洗顔用の手桶とお飲み物をご用意致しますので、そのまま少々お待ちください。
その真っ赤な瞳をお見せしては、皆様が心配されますよ?」
メイが俺に優しく微笑みかけて、準備をしに部屋を出て行った。
早朝ではあったけれど、既にサンシータは起きていた。彼は彼で昨日は色々とあったから、あまり寝付けなかったのかも知れない。
ニアも起こして俺達は朝食を済ませると、そのまますぐに迷宮へと出発した。
まだ日が昇り始めて間もない時間だったけれど、今日こそは23階層に残したみんなと合流しなければならないと思い、早めに出発することにした。
昨日同様に、一旦返したサンシータの荷物を俺は再び【まほう】スキルの収納で預かって、荷物のない状態で少し足早に迷宮を急いだ。
22階層の森を三人で行く。
出発してまもなく、俺の隣を走るサンシータが問いかけてきた。
「あの、アニキ......背中のそれは、その...重くないッスか?」
「何を言っているイケメン、女性に重いは禁句らしいぞ」
「いや、ですが......せめて俺が代わりましょうか?」
「何を言っているイケメン、この猫耳・しっぽ付きリュックはお前には渡さないぞ。これは俺んだ」
出発前に俺の背中によじ登ってきたニアが、そのまま眠ってしまったんだ。
早朝だから眠かったのかもしれないけれど、朝から俺の顔をじっと見ていた時は眠そうではなかったから、違うのかも知れない。
...ただ、昨夜からずっと寒かったから、この保温機能付きリュックを背負っていると、少し重いけど、とても温かくて助かっているんだ......心が。
木々に囲まれた迷宮は、早朝の日差しも遮られたまま入ってくることはなく、まだほとんど夜と変わらなかった。
我が家の周辺ほどではないにせよ、うっすらと立ち込める朝霧が行く先を白く覆い隠して、そこに朝日が入り込むと光がキラキラと乱反射し始めてとても見通しが悪くて......だけど、美しい。
...そして、うっかり見落としそうになるが、見たくないものが視界の隅にチラついた。
「サンシータ。やっぱりここの木、ところどころ動いてないか?」
「えっ!?
...いや、聞いたことあります。この森は樹魔達がいるから日の差さない時間帯は危険だって言われているんです。
アニキが動いたように見えたのは、樹魔のことかも知れないッス」
...やっぱりこの森、何もいないんじゃなくて、いたけど動かないだけだったんだ。
ただ、小走りに森を抜ける俺達に何かをしかけてくる訳でもなかったので、無視してそのまま走り抜けていった。
ちらちら視界に入るそれらは気味が悪かったけれど、それ以外については、朝の森というのもなかなか気持ちが良かった。
やがて陽の光も強く差し込んできて、森を開きだしていくのを見ると、なんだかこれからラジオ体操でも始まりそうな気分になってきた。
「...サンシータって、早朝に走って身体を鍛えたりする人か?」
「えっ? よくご存じッスね! 妹達が何か言ってましたか?」
「あ、いや、なんとなく...」
...なんとなく、イケメンは早朝にマラソンとかする気がしただけだ。
朝の日差しのキラキラを吸い込んで、それを昼間に放出してキラキラしていると思っただけなんだ。
すると、目下キラキラを充電中のサンシータが俺に補足した。
「集落の皆で朝は走ったり体操したりして身体を維持するんスよ。そうしないと俺達、すぐに腹が出てきてしまうんで、ハハハ!」
...訂正。彼らは日々努力してイケメンや美女を維持し続けているわけだ。今度キラキラしている時には、ちゃんとありがたく拝んでおこう。
俺達は森を走り続けて、再び23階層へと戻ったのは昼過ぎ頃だった。
転移門の光の柱をファーっと降りてくる途中、はるか下、川の向こうでブンブンとこちらに手を降っているサキと、その隣のユキの姿を見て俺はようやく安心した。
さすがに小さなティの様子までははっきりと目視できなかったけれど、二人の側にいることは何となく分かった。
そして地面まで降りた俺達を待っていたのは、いつか見た蔦オバケだった。
何かと思えば、それはティが用意した俺達を乗せる舟らしい。川岸で俺達に乗るように促してきた。
そして、しずしずと川へと入っていき、俺達を乗せた蔦の塊が川に浮く様子に俺とニアとサンシータは「おぉっ!」と同時に声を漏らした。
...ただ、向こう岸につくまでの間にだいぶ下流へと流されたところは、俺達も向こうで待つ三人も全員が想定外だったようで、少し焦ってしまった。
川を渡る時間よりも流された分だけ陸を引き返す時間の方が長かったような気がしたけれど、もうみんな無事なのが分かった時点で急ぐ気もなかったので、陸の上をしずしずと歩く蔦オバケにそのまま頑張って頂くことにした。
蔦オバケを下車した俺に、サキとユキの二人が人外の速さで飛びついてきた。俺は主様の意地を見せてどうにか倒れずに受け止めきった。
二人に遅れてこちらに飛んで来たティ、特に用事はないけれど俺の背によじ登ってくるニア。
そんな俺の姿を見て笑うサンシータと骸骨戦士(!?)。
...みんなに賑やかにまとわりつかれて、ようやく俺の体温が元に戻ってきた気がした。




