奪われた未来
翌朝。不意に寝苦しさを覚えた俺は、体の節々に痛みを覚えながら目を覚ました。
リビングにかかっている時計を見上げれば、針が示しているのは午前五時を少し過ぎたところ。当然、太陽はまだ昇り切っていないようで、窓から差し込む光は弱々しく、室内は少し薄暗い。
下側にして寝ていた右の肩や肘が、少し痺れて強張っている。どうやら、座布団は寝具としてはあまり適していないらしい。そんなことを思いながら立ち上がると、筋肉をほぐすようにして俺は肩を回した。
それから、首も軽くコキコキと鳴らす。普通に全身もダルかった。というか、そもそもまだ眠い。だけどこんな寝床では、二度寝するのも億劫だ。起きるしかない。
そう結論付けて、とりあえず水でももらおうかとリビングから直接つながっているシステムキッチンへと向かおうとしたところで、そこの明かりが点いていることに俺は気づいた。
その照明に照らされて、カウンターの向こうに睦月が立っていた。こんな早い時間に、朝食の準備でもしているのだろうか? そう考えて、声でもかけようと近づいてみたら、なんてことはない。
――睦月はどこか、思いつめたような表情で、自身へ向けた包丁の切っ先を見つめていた。
……?
…………?
………………は?
一瞬、俺は目の前の光景を受け入れることができなかった。あまりにも唐突に現れた状況に対して、眠りから覚めたばかりの脳が一時的な機能不全に陥っていたからだ。
ちょっと待って。よく分からない。朝っぱらから? 睦月が? キッチンで? 包丁の切っ先を? 自分へと向けていて? って、なんだそれは。どういうことだ。いやいや、そもそも包丁とか、そういう持ち方をするもんでもねーし? というか、いや待てそれどころじゃない。
頭がようやく回り始める。眼前の、一息に飲み下すにはカロリーの高すぎるその光景に対する理解が追い付いてくる。追いついて、そして、とっさに体が動いた。静観の許されるような状態でないことは明白であった。
「馬鹿ッ、なにやってんだ馬鹿ッ!」
とっさに振るわれた俺の腕が、包丁を持つ睦月の手を弾く。弾いてから、「やべッ」と思った。これで変な方向に包丁が飛んだりしてしまったら、それこそ怪我に繋がりかねない。
幸いなことに、包丁はくるくる回って、俺の足元に落ちただけだった。落ちた時にちょっと跳ねた包丁の柄が、小指に当たってそれが少し痛かったけど、それだけだ。怪我らしい怪我はなにもない。
だから俺は、拾い上げた包丁をすぐ近くにあった戸棚の奥に放り込んでから、立ちすくむ睦月へと向き直る。
それから。
「この――このッ、くそ、お前、あのなあ!」
なにかを言おうとして、それがとっさに言語化されなくて、だからそのせいでこんな憤慨の仕方をすることしかできない。自分の言語野に対する苛立ちが募る。肝心な時に、どうして俺はこんなにも頭と舌の巡りが悪いのか。
「なに、しようとしてんだよ! 意味とかねえだろこんなもん!」
それでもようやく、そんな言葉を口にする。
怒鳴る俺から、睦月はすっと視線を逸らした。
「ごめんなさい。……朝ごはんの準備を、しなければならないと思って。そのつもりだったんですけど、でも……見ていたらなんだか、自分の命を差し出せば、正人君が戻ってくるなら、もしもそうだったなら……なんてことを、気づいたら考えてしまっていて」
「……」
「……理屈では、分かってはいるんです。そんなことはないって。でも……世の中には、あるものなんですね。理屈や正論だけではままならない、感情というものが」
「それは……」
「私は、こんなものがあることを、ずっと知らなかったんですね……」
弱々しく呟く睦月を見ながら、俺はふと、ひとつのことを悟っていた。
彼女の中では、きっとこれまでは感じたことのない衝動が荒れ狂っているのだろう。内向きに自分を傷つけるそれの扱い方を知らなくて、だから睦月は理解も整理も追いつかずに苦しんでいる。
俺は知っている。睦月の中で芽生え、暴れまわっているものは、理屈や正論だけでは制御の効かないものであることを。だから上手く折り合いをつけて、コントロールして、時には適度に吐き出して……そうやって付き合っていくしかないことを。
そして例えば、樹里などはその『感情』ってものとの付き合い方が上手い人間だ。そういう人間だからこそ、彼女は睦月のことなどはどちらかと言えば苦手にしていたりするわけで……まあ単純に、理性と理屈と正論だけで話されると対応に戸惑うというのもこの場合はあるのだろうが。
一方で睦月は、それとの付き合い方が下手くそだ。だからこうして、自罰的な方向へ極端に傾いたりしてしまうわけで。
……だけど俺は、そんな睦月の感情を否定しようとは思わなかった。ある意味、人間的な成長でもあると思うからだ。自分の衝動との付き合い方なんて、これからきっと、いくらでも学べる。
だから、俺は――。
「睦月」
「……はい」
「話せよ」
「……」
「いいから、話せ。思ったこと、感じたこと……あるんだろ? 今、心の中で暴れまわってる、どうにも世話の焼ける気持ちがさ」
かつて鮎菜ねーちゃんが、今よりもまだ幼いころにしてくれたことを、睦月に対してするだけだ。
「いいか、睦月。お前は今、理屈だけで考えるなら、現在進行形で盛大に間違っている。でも、間違っていていいんだ。それは、絶対に避けられないことなんだ。正しいことだけを、正しい形で、百パーセント正しくやれたら、それが一番いいかもしれないけど……それはとてつもなく難しいことなんだ。だから、話せ」
「大樹君……」
「話すだけじゃ何も解決しないかもしれないけど……それで少しでも気持ちが楽になるのなら、意味はなくても無駄ではないんだ」
俺がそう促すと、睦月はしばらく逡巡している様子であったが、それでもおずおずと話し始めた。
「……私が、悪いと思ったんです。正人君が、あんな目に遭ってしまったのは、全部、私のせいだと……そう、思ってしまったんです」
それは、彼女が正人の事故以来、ずっと言っていることだ。
それを俺は、正人が自分を庇って車に轢かれたからだと思っていた。
だけど、それだけが理由ではないことを、俺は続く彼女の言葉で知ることになる。
「野球キャンプに行くべきだと……アメリカに、スポーツ留学をするべきだと、それが正人君のためになることで、将来的には必ずプラスになることだと、そんな風に私が言ってしまったから」
「……」
「だから、私がなにも言わなければ、正人君は事故に遭わなかった。あの日、あの時間に、あの場所を歩いていることがそもそもなかった……!」
気づけば睦月は、静かな表情で泣いていた。
「私が彼から、未来を奪ってしまったんです……!」
その頬に雫を伝わせながら。
睦月は自分を責めるそんな言葉を、悲痛な声で放つのであった。