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元気じゃなければ喧嘩だってできはしない

 それでも逃げ場なんて現実には存在しないのだ。主に、金銭的な意味で。


「……はぁ」


 多分俺に金があったら、電車にでも乗って知らない街にでも旅立ってた。そんなことを本気で思う、昼休憩を迎えた学食……の、裏。


 いつもの石畳の上で弁当を開き、俺はやっぱり憂鬱な感情を二酸化炭素に変換して吐き出していた。世界ってやつはなんだか残酷だ。睦月のこととか、正人のこととか、母親のこととか、起こってほしくないことに限ってなぜだか降りかかってくる。


 神とかいう存在が仮に実在しているとするなら、奴はきっと俺のことが嫌いに違いない。世の中には、俺よりもよっぽど幸福で色んなものを持っている人間がたくさんいるというのに、そういうやつらに限って何かを奪われたり、失ったりしていない。それをなんとも、理不尽で不公平なことのように感じてしまう俺がいた。


 もちろん、俺とて分かっている。今、目の前にある現実を、ただ嘆いたところで意味などなにもないということは。


 今ある悲しみに飲み込まれてはいけないと、真琴さんはそう言ったが、それがなかなか難しい。少しでも油断すれば、悲しみや苦しみというやつはあっさり心の隙間に入り込んでくる。そして気づくと、その毒はじわじわと広がっていき胸を苦しくさせるのだ。


(睦月は、どうしてんのかな)


 ふと、そこで睦月のことを思い出す。正人の事故以来、睦月は自宅と病院を往復してばかりで、学校には顔を出していないようだ。


 それだけ彼女にとってショックな出来事だったのだろうと思う。だが、このままでは睦月の心も体も、どんどん疲弊していく一方ではないかと思った。


「……だ~いちゃん?」


 ろくに食の進まない弁当を前にしたまま、物思いに耽っていると、おずおずとした様子で声がかけられる。振り向いてみれば、ちょっと困った顔をした樹里がそこにいた。


「……よ」


「隣、座るね」


 こちらがうなずくよりも先に、樹里が隣に座ってくる。前の授業が体育だったのか、今日の彼女は水色のジャージ姿だった。


「いいのか?」


「ん、なにが?」


「地面、なにも敷かなくて」


 いつもは俺に上着を要求しては、敷き物代わりにしていた樹里である。だが今日は、なにも言ってこなかったのが意外でそう訊ねてみると、


「普段は、ほら、制服だし?」


 と、彼女はそんな理由を口にした。


「ジャージなら、ちょっとぐらい汚れても平気だしさ。制服だと砂ぼこりとかついて嫌なんだけど」


「……だったら俺の制服だって敷き物代わりにすんなよ」


「それじゃあ、今度からハンカチ用意しておいてよ」


「なんで俺が」


「男の子に用意してもらうのが、大事なの」


 妙にきっぱりと樹里がそんなことを言う。俺には皆目理解もできんが、彼女にとってはなにかこだわりのようなものでもあるのかもしれない。


 それにしても、案外、元気そうな様子だった。先週病院で見かけた時は随分と思いつめていたようで、睦月に対してあんな怒りさえぶつけていたというのに、今はことのほか落ち着いている。明るい、とまではいかないものの、少なくとも落ち込んでいたり、悲しそうにしていたりしていない。至極、普通の振る舞いであった。


「なんか、元気そうな、お前」


「なによ」


 箸をパクっと口にくわえて、樹里がジトっとした目を向けてくる。


「元気でなにか悪いわけ?」


「いや、悪くはねーけど……なんか、ついこの間まではもっと落ち込んでたからな。意外で」


「まあ、そりゃね」


 くわえていた箸を離して、樹里が次のおかずを探し始める。イカの煮物を大根と一緒に挟んで口に運びながら、「んっとさ」と樹里は言葉を続けた。


「よく考えてみたら、兄貴、別に死んではいないしね。この先目を覚ますこともあるかもしれないし、なんかまるであの人が死んだみたいに悲しむこともないのかなあ、とかなんとか。あたしが落ち込んでたらお父さんもお母さんも心配するし、こういう時だからこそ日常のあれこれをしっかりやっていかないと、気がついた時には勉強とかも手遅れになってあとになってから困っちゃうよなって。それってなんだか、みっともないなって思ったんだよね。身内の不幸であれもこれも手につきませんでした、だから自分はやってきませんでした――とか言ったりとかしたらもう最悪だよね。兄貴があんなことになったのを、自分の言い訳に利用してるみたいで」


「それは……」


「あとは、まあ、土日でお父さんとお母さんと話してさ。お母さんが言ったんだ。悲しむのは自分に任せて、あたしはちゃんとやることやっていかないとって。……だから、あたしはもう、凹んだり落ち込んだりするのはやめた。うん、そういうのは全部お母さんにやってもらうんだ」


 そんな風に語る樹里の横顔は強い。


 俺は時々、樹里を見ているととても不思議に思うことがある。驚くぐらいに不安定で感情的な時もあれば、今のようにしなやかな強さを見せる時もある。どちらが樹里の本質なのだろうか、戸惑う時もあるが、結局はどちらも彼女の本当の姿ではあるのだろう。


 そして、樹里が時折見せる強さは、俺には決して真似することができないものだった。なんだかんだで前向きなのだ。俺のように物事をいちいち、悲観的に、後ろ向きに考えたりすることがあまりない。


「んでさ。あたし、ちょっと考えてみたんだけど……今度の週末、ライブでも行こうかなって思うんだよね」


「ライブ?」


 樹里の話が、予想していない方向に転んで、俺はつい首を傾げた。


「うん、ライブ。あ、ライブって言っても、大ちゃんが多分想像しているような、有名なアーティストが武道館とかでパーってやる感じのあれとは違うよ?」


「そんな想像、してないって」


 と口では言うが、ライブという言葉から俺が連想できるのは、某有名アイドルグループや、誰もが知っているミュージシャンが、大きなホールやスタジアムを使って広いステージの上で演奏したりしている姿の方だった。


「駅前にさ、μ's(ミューズ)っていうライブハウスがあんだよね。そこで今週末にイベントがあるんだけど、気晴らしにでも行こうかなって」


「へぇ」


「……大ちゃんも、どうかな?」


 おずおずとした様子で、樹里がそう切り出してくる。


「俺も?」


「うん」


「俺、そういうのよく分かんないんだけど」


「かも、しんないけどさ」


 もにょもにょと、樹里が唇を尖らせてみせる。なんて言おうか、言葉を選んでいるのだろう。


「分かんないかもなんだけど、でも、とりあえず元気は出ると思うんだ。なんていうかさ……ライブハウスって、そういうところなんだよね。嫌なこととか、つらいこととか、苦しいこととか、落ち込んじゃうようなこととか、そういうことがあった時に、『負けるな』『頑張れ』って音楽が背中を押してくれるとこ」


「……」


「だからさ、ええとなんだろ……んー、上手く言葉がまとまんない……」


 しかめっ面を作りながら、樹里はもどかしげにそう言った。


 だがやがて、うんと小さくうなずいたかと思うと。


「というわけで、今度の週末、大ちゃんはあたしとライブに行こう。これはもう決定事項ね。拒否権はなし」


 そんな風に、勝手に俺の予定が決められているのであった。


「お前な……」


 呆れつつも、俺も無理に彼女の言葉を拒むつもりはない。


 なんとなく、伝わってはきたのだ。彼女が俺のことも元気づけようとしてくれているのは。


 向居家のやつらって、なんでこうなんだろうな、と心の中で苦笑する。真琴さんもそうだったし、樹里だってそうだ。自分が大変な時だって、優しさや思いやりを人に分け与えることができる。それはすごいことだ。あんまり簡単にできることではないだろう。俺ならば、自分のことで精一杯になってしまう。


「まあ、分かったよ。週末は空けとく。……ああ、それと、ひとついいか?」


「なに?」


「行くんだったら、睦月のことも誘ってみていいか?」


 話を聞きながら、思ったのだ。今、もしかすると一番、元気が必要かもしれないのは睦月なのかもしれないなと。


 睦月には、樹里のように不安や悲しみを預けるような相手がいない。


 俺にとっての鮎菜ねーちゃんのような、温かく気遣ってくれる相手もいない。


 家に帰っても、誰もいない。孤独と不安と悲しみを抱える中、独りぼっちで過ごす夜のことを思えば、こちらの胸まで締め付けられるようだった。


「……んー」


 睦月を誘うことになにか思うところがあるのか、樹里はちょっと眉をひそめる。まあ、睦月に対して苦手意識を持っているようだし、それも無理のないことか。


 だがやがて、ため息交じりに、「いいよ」と樹里は呟いた。


「あの女も、なんか、ヤバげだったしね。声かけたらいいよ。……みんな元気になってからじゃないと、喧嘩だってできないんだし」


「いや、元気でも喧嘩すんなよ」


「無理。不可能。未来永劫、あの女とは喧嘩し続けると思う。多分、前世でも敵同士だったと思うんだよね」

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[一言] もっと後悔にまみれる睦月が見たいです!
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