穏やかな顔
――さて。
事の次第を一から説明すると、次のようになる。
車の運転をしていた松島和之(五十二歳)は、信号が赤になる直前、急性の心臓発作でアクセルを踏み込んだまま意識不明の重体に陥る。結果、減速することなく横断歩道に突っ込んだところに、横断中の睦月がいた。
とっさのことに足が竦んだ睦月を、同じく横断中だった正人が突き飛ばす。それにより睦月は車の進行方向から辛うじて逃れるが、その代わりに正人が車と接触。ただ撥ね飛ばされるだけでは済まず、運悪く肩から背負っていた野球のバッグがサイドミラーに引っかかり、数メートルもの距離を引きずられた上でその勢いのまま電柱に体を強打することとなった。
地面で引きずられた左足と、肘から電柱に打ち付けられた右腕は損傷が激しく、治癒は絶望的なため患部の切断手術が適切であるとの診断が下される。また、車との衝突により頭部も含めた全身を強く打っており、事故後も意識が戻らないまま、遷延性意識障害……いわゆる植物状態であるとの診断が下った。
……なお、正人を轢いた車の運転手である松島和之は、救急隊員が到着する頃にはもうすでに絶命していたという。こちらは事故ではなく、心臓発作による急死だったらしい。
そんな正人の事故から、もう一週間が経っていた。だけどその間、俺はほとんど時間の感覚を失っていたように思う。緊急手術には長い時間を要したし、回復の見込みがどの程度あるのかだって分からない。ほとんど、生きた心地がしなかった。
それでも、俺が涙を流すことはなかった。悲しくはない、わけじゃない。だけど全然、分からない。あまりに突然降りかかったこの状況を、感情が処理しきれていない。気持ちが全然、納得していない。 なぜ? どうして? なんで正人が? そんな疑問ばかりが浮かんで、悲しみが具体的な感情として追いついてくることはなかった。
まるで、準備ができていない心に、強烈な右ストレートを食らわされたかのようだった。痛みを感じるより先に、衝撃で脳がぐちゃぐちゃにされているような感じ。正人があんなことになってしまっているというのに、上手く泣くことができないなんて、俺はもしかすると血や心の冷たい人間なのかもしれないな、なんてことを妙に冷静に考えることすらできた。
樹里は泣いていた。
正人が病院に搬送された連絡を受け、やってきた時にはもう表情が泣いていた。正人の手術が行われている、集中治療室の前にあるベンチに座っている時も、「なんでよ」「どうして兄貴が」なんて言いながら、涙をぼろぼろこぼしていた。
「兄貴、死なないよね」
とか言って、縋るように俺に問いかけてもきた。俺は答えるべき言葉を持ち合わせてはいなかったが、涙をこぼす樹里の頭を抱き寄せ慰めることはできた。……それしか、してやれることがなかったとも言えるかもしれない。
正人が事故に遭ったその日の日付が変わる頃、泣き疲れた樹里は意識を失うようにして眠りに就いた。「娘のことは、あとは任せておいて」と樹里の母親である理沙さんが言ってくれたから、その日は俺は家に帰ることにした。
睦月はずっと無言だった。
事故があってから、ずっと、能面のような表情で一言も口にしないままだった。
正人が轢かれた直後、彼女の顔には血がまるで斑点のように散っていた。それは睦月自身の血ではない。誰の物かは、語るまでもない。
そうやって顔についた血を拭ってやった時も、正人が集中治療室にいる間も、樹里が泣きながら正人の身を案じている時も、そしてようやく正人の容態が安定してきた今になっても、睦月は口を開かない。
表情すらなくなったようで、感情の色がきれいさっぱり抜け落ちてしまっているかのようで。
――それでも、睦月は正人の傍を離れようとはしなかった。
「うぃーっす」
この日も、俺は学校が終わっていったん家に帰ったあと、正人の見舞いのために病室を訪れていた。
あえて軽いノリの挨拶を意識しながら、扉を開いて中に入る。こうやって、少しでも自分で気分を盛り上げていかないと、辛気臭い空気や雰囲気に押し潰されてしまうような気が、俺にはしていた。
この時間、病室にいるのは大抵、睦月と樹里の二人だけ。樹里の母親の理沙さんは仕事や家事もしなければならないし、父親である向居真琴さんはもともと仕事の忙しい人だ。両親とも、病院にずっといる、というわけにもいかない。
樹里は学校からそのまま来たのだろう。俺とは違って、制服姿のままだった。彼女は窓際でぼんやりと外の景色を眺めていたが、俺が入ってきたことに気づくとこちらを一瞥し軽く頭を下げてきた。小さいながらも、「うっす」と挨拶みたいな声も聞こえてくる。
一方で睦月は、視線のひとつもよこしはしない。正人の枕元にある椅子に座ったまま、微動だにすらしていないようだ。顔からは相変わらず、感情めいたものは抜け落ちてしまっているようで、表情からはなにを考えているのかなどうかがい知ることはできない。しかしこの一週間で、だいぶ頬がこけているのは傍目にも明らかであった。ろくにものを食べていないのかもしれない。
そして正人は――ああ、正人は。
色んなものに囲まれている。色んなものに繋がれている。それは電子機器だったり、チューブだったり、そういったものだ。正人のバイタルをチェックしているだろう計器類の見方など俺には分からないが、それらはきっと正人の生命を繋ぐのに必要な装置なのだろう。今も絶えず休まずに、稼働してるのが見て取れた。
「おう、正人」
配線などといったものを避けて歩き、ベッドに横たわる正人に近づく。左足と右腕には、極力目を向けないように気を付けた。そこにはもう、あるべきものが存在しない。
「なんだお前。まだ寝てんのか? いい加減、目ぇ覚ませや。お前らしくもねえ」
「……」
「見ろよ。あんまりお前が寝坊すぎるもんだから、睦月のやつこんな顔になっちまってんぞ。笑えるだろこれ。ハハッ、のっぺらぼうだってもうちょい感情豊かな顔面してると思わねーか?」
「……」
「だいたいよぉ。正人、テメェ、睦月のことをまだ、全然名前で呼んでやれてねえみたいじゃねえか。そうやって妙なとこでヘタレてっから、間抜けなドジを踏むんだよ」
「……」
「なんとか言えやコラ。シカト決めてんじゃねーぞ、バカ野郎が」
「………………です」
不意に、そんな細い声が割り込んできた。
突然のことに俺は目を剥いた。今の声は、あまりに弱々しく小さかったが……この一週間、一言も口を利かなくなっていた睦月のものに他ならない。
「バカじゃ……ないです。正人君は、そんなんじゃないです……違うんです……」
「睦月、お前……」
「バカは私です。ごめんなさい……ごめん、ごめんなさい。正人君、ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで、ごめんなさい……本当に、全部、全部、ごめん……ごめんなさい……」
「お、おい、睦月……?」
様子がおかしいことに気づく。
睦月の顔は、相変わらず能面みたいに真っ青だ。震える唇が紡ぐのは、正人に対する謝罪の言葉ばかり。ごめん、ごめんなさいと言っては、時折喉をか細く震わせる。まるでその言葉しか知らないかのように、むしろ執拗なまでに懺悔に懺悔を重ね続ける。
その姿は、痛ましいと言う他にない。正人が轢かれるのを、目の前で見ていたのは睦月だった。頬に血まで飛び散るほど、すぐ近くでその瞬間を見てしまった。しかもただ見ていただけじゃない。正人は睦月を庇って轢かれた。だから、睦月の代わりに、今、正人はこうしてベッドに身を横たえている。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私が……私の、せいで……あなたが……ごめんなさい……ごめんなさい……」
だから睦月は、紡ぎ続けるしかないのだ。本来なら糾弾すべき相手も、とっくにこの世を去っている。ならば他に、誰を責めることができるというのか。誰も責められないならば、睦月はもう、自分を非難し続けるより他にない。
「正人君。ごめんなさい。本当に、本当に……ごめんなさい……本当だったら正人君ではなく、私が轢かれるべきだったのに、なのに、それなのに……ごめ――」
「あんたねえ!」
だが、永遠とも思われたその懺悔に、割り込んできた声があった。樹里である。
窓際に立っていた樹里は肩を怒らせて睦月に近寄ると、肩を掴んで強引に振り向かせ、そして――。
「あんたにっ! そんな顔っ! してほしくてっ! 兄貴はっ! あんたをっ! 助けたわけじゃっ! ないっ!」
パァン――と、頬を張る高い音が病室に響いた。それも、連続で。「っ」の数だけ、樹里は平手を振りかぶり、振り下ろす。睦月の弱気を許さぬとばかりに、睦月の懺悔を聞かぬとばかりに。
「ごめん、なんて――それだけはあんたが口にしちゃいけないことでしょうが!」
そして最後に樹里は拳を握り締め……って、ちょ、待っ。
「ばっ、樹里、それはやめっ」
すんでのところで、俺の制止は間に合った。とっさに樹里の腕を掴んで止めていなければ、睦月の鼻っ柱は物理的にへし折られていたかもしれない。それぐらいの勢いで、樹里は睦月を殴りつけようとしていた。
「いや、樹里、待て? な、待て? 落ち着け、な? ほら、ここ、病室。分かる? 病室。ってか、うん、危ないからね……ほんと、危険だからね……機械もあるし、な?」
「……大ちゃんは邪魔しないで」
「アッハイ」
めっちゃ怖い顔で睨まれて俺はすごすごと引き下がる。もんのすげえ剣幕で、触らぬ神に祟りなしという言葉を胸の奥で噛み締める。
……せめて、いつでも守れるようにしておこう。正人とか、点滴とか、機械とか。つーかマジで病室で暴れないでくれ……ひやひやするから、ほんとに……。
「あんたがウジウジ、凹んで、陰気に謝ったりなんかして、兄貴が喜ぶと思うわけ!? 逆じゃんそんなの! 兄貴が一番悲しむことじゃん! だってのに、あんたのそんな態度なんか見たら、兄貴が浮かばれないとか思わないわけ!?」
浮かばれないてお前。
お前の兄ちゃん死んでないから。生きてる生きてる。仮にだけど、暫定生者。辛うじて生きてる側。忘れないであげて。な?
「分かってます。分かってるんです、そんなことは。こんなことをされても……正人君が喜ばないなんてことは、むしろ悲しませてしまうなんてことは……分かっているんです」
「……っ、だったら!」
「でも……そんなに正しいことを言わないでください……」
「あんた……っ、ねえ!」
「正しいことなんて、そんな話は聞きたくないんです……それが正しいとしたら、だとしたら、私は誰を責めればいいんですか!?」
睦月が怒鳴った。
とっさに俺は正人と計器類を庇える位置に移動した。睦月の方まで、樹里に対して手が出るかもしれんと危ぶんだからだ。
だけどそれは杞憂に終わった。樹里は大いに不満げに鼻を膨らませ、それから「ふんっ」と顔を背けると、
「あたしもう帰る!」
と言って、病室の出口へと向かう。
そしてそのまま部屋を去るかと思いきや、廊下に出る直前に半身でこちらを振り向いて彼女は告げる。
「誰を責めてもなにも変わらないじゃない」
「……そう、ですね」
「バッカみたい!」
その言葉だけを残して、樹里は病室を後にした。
樹里の背中を見送って、俺はホッと胸を撫で下ろしていた。ちょっと……いや、かなり安心した。主に、正人の命を繋ぐあれやらこれやらが壊れたりしなかったことを。
感情的になると目の前のことしか見えなくなるのは樹里の悪い癖だよなあ……どうにかなんねーかな、あれ。
……クソッ。
おかげさまで、俺が取り乱すこともできやしねえや。
「……樹里が、随分と荒れていたようだけれど、なんかあったのかい?」
と、そこでだ。病室の扉が開き、大柄な男性が中に入ってきた。
正人の父親である、向居真琴さんだ。理知的な顔つきをした男性で、正人が言うには研究職に就いているらしい。「趣味が仕事で仕事が生き甲斐の趣味人だよ」とかなんとか、そんな話を聞いた覚えがある。
「あー……いや、はは。大丈夫っすよ。別に、これといったトラブルも特に……」
あったけど。
まあでも、あえて言うほどのものでもないと思った。樹里も一応手加減していたのか、叩かれた睦月の頬だって赤く腫れている程度で大した傷にもなっていなかったし、なにより真琴さんにこれ以上の面倒ごとを与えたいとは思わない。
「おじさんは、お仕事は今日はもうおしまいですか?」
「いや。仕事の都合で近くに寄ることになったから、少し正人の様子見をね。だいぶ元気そうで、安心したよ」
「……そ、すか」
「元気そうというのは、君のことだけどね。大樹君」
「……ありがとう、ございます」
「正人は相変わらずかい?」
質問には言葉で答えずに、俺は一歩だけ横にずれる。そこにやってきた真琴さんは、ベッドに横たわる正人をしげしげと見下ろしてから、「ふむ……」と両腕を組み合わせた。
「これはこれは……穏やかな顔つきで……」
「そ……すね」
「まあ、正人のことだ。寝るのに飽きたら起きてくるだろうさ。君がそんなに暗い顔をすることはない」
不意に真琴さんが、大きな手でバシンと背中を叩いてくる。心の準備をしていなかった俺は、「おわっ」と思わず前のめりになる。
「す、すみません……その、ご家族の気持ちも考えずに……」
「いやいや、大人に対して子どもが妙な気の使い方をするもんじゃない。無礼、失礼、大いにけっこう。そもそも僕は、そういった気遣いめいたことはするのもされるのもあまり好きじゃないんだ」
「それは……失礼、しました」
「無礼、失礼、大いにけっこう。それもまた、人間関係の醍醐味というものさ。人間だもの。ところで――」
「……? はい」
「大樹君も、睦月さんも、もうこんな時間だ。そろそろ帰った方がいい」
時計の針を見ると、時刻は午後七時近くを示そうとしているところだった。規則上では、面会時間は午後七時までだから、確かにもう帰らないといけない時間だった。
「せっかくだし、僕が二人とも車で家まで送っていこう。仕事に戻るついでにね」
「え? いや、それはさすがに迷惑じゃ……」
「正人の親友と正人の彼女を迷惑がるような父親に見えているようなら、僕は少しばかり自分の振る舞いを省みる必要がありそうだ」
平然とした態度で、真琴さんはそんな言葉を口にする。
「じゃあ……お世話に、なります」
「うむ。お世話しましょう」
こうして俺と睦月は、真琴さんの車で家まで送り届けてもらえることになったのであった。
はいー、というわけでだいぶ分量長くなっちゃいましたが更新です!
ちなみに、親友同士がの二章で描いているテーマは、「幸福と平和、そして愛」
それは誰もが欲しいもの。脆く儚く遠いもの。
……でも、最後にはハッピーエンドを目指して、これからも彼らの物語を紡いでいこうと思います!




