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とても素晴らしい日になる

 樹里から正人のスポーツ留学の話を聞かされてから、一週間と少しが経った。


 そして今日は、五月最後の金曜日。つまり正人が、野球キャンプに向けて旅立つ日だ。


 平日だが、俺はこの日ばかりは見送りのために学校を休むことにして、向居家の前まで訪れていた。まだ、正人は家から出てこない。


 とはいえ、スマホを確認してみたところ、現在時刻は午前十一時三十分。十二時二分の電車でまず都内に出て、そこから成田空港に向かうという話だったから、もうそろそろ顔を見せてもいいはずだ。


 それにしてもだ。


 妙な緊張を俺は覚えていた。考えてみれば、最後に正人とまともに顔を合わせたのは、喧嘩をしたあの日にまで遡る。だいたい、二週間も前のことだ。そのせいか、実のところまともに話せるかどうか不安に感じる部分もあった。……変な感じに気まずい空気になってしまったら嫌だなあ。


 いけない、いけない。


 俺は気を抜くとすぐにこうである。物事を、ダメな方向、悪い方向にとかく考えがちなのだ。そして自分で勝手に一人で気持ちを落ち込ませる負のスパイラルを作り出す。


 こういうのはあまり、褒められた性質ではないだろう。そもそも、考え過ぎてしまうのがきっといけないのだ。


 そうだ。あくまで普通に。普通に、を心がけて話せばいい。普通に。普通に。——よし、普通に話そう。


 そんな風に自分に言い聞かせているうちに、向居家の玄関扉が開かれる。そうして中から顔を出したのは、正人と睦月の二人だった。


 すぐに正人が俺に気づく。一瞬、驚いた様子で目を見開いたかと思うと、すぐに嬉しそうに表情を綻ばせた。


「よ、よォ!」


 普通に、普通に、と意識しまくったせいか、俺の第一声は逆に不自然な硬さを伴って響いた。一瞬、「やべえ、ミスった」と思い気まずくなりかける。


 だが、俺がそう思うよりも先に正人が手を上げて、


「おう、親友!」


 と、言葉を返してくる。


 ……そのセリフに、俺はなんだか泣きそうになってしまった。


 お前はまだ、俺のこと親友と呼んでくれるんだな。そう、思ってくれているんだな。


 そう思うと、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのだ。その熱さは決して、喜びとか友情とか、そういう良いものだけではない。長年、関係を続けてきた結果、正人に対する感情は複雑なものになりすぎた。


 だけどそれでも——いや、だからこそ。


 今でも親友(・・)と呼んでもらえることを、確かに嬉しく思う俺もいて。


「……よう。相変わらず、元気そうじゃねーか、親友(・・)


 気を取り直した俺は、今度は普通に(・・・)そう言って返すことができたのであった。


 表情を綻ばせたまま、正人がこちらに近づいてくる。


 それから、俺のすぐそばにまでやってきたかと思うと、


「今日は、とても素晴らしい日だな」


 と言って、軽く握った拳をこちらに突き出してきた。


「はあ? 藪から棒に、なに言ってんだお前」


「だって、お前がこうして来てくれたからな。最高だろ」


「……はっ、そうかよ」


 正人の言葉に笑みこぼし、俺も拳を突き出した。こつん、と軽く合わさる拳と拳。そうやって挨拶を交わしたところで、寄り添うように近づいてきた睦月へと目を向けた。


「こんにちは、大樹君」


「おう、睦月。今日は平日だぞ? いいのかよ、こんな時間に、こんなとこにいて」


「大丈夫ですよ。今日は私、かねてからの予定通り、四十度近い熱を出して寝込んでることになっているので」


「その割に、顔色は良さそうだが?」


「普段から真面目にしておくと、いざというときの方便も通りやすくなるのでお得ですよね」


 そう言ってにっこり微笑む睦月の顔は、とても熱があるようには見えない。


 仮病かよ。


「かくいう大樹君の方こそ、よろしいのですか?」


「俺みたいな男には、秘密兵器があってな」


「秘密兵器ですか」


「その名もサボりと言うんだが」


「……内申点を踏み倒す気満々ですね」


 呆れた目を睦月が向けてくる。そんな睦月に向かって俺は胸を張り、言ってやった。


「安心しろ。優等生のお前と違って、あえて必死に守り抜くほど、俺には内申点の貯金なんざねーからな! まるで痛くも痒くもねえ!」


「自慢になりませんよ、それ」


「自慢にもならねーぞ、それ」


「まったく同じ突っ込みをまったく同じ温度で入れてくるなんて、さすがカップル。ラブラブですねえ」


 二人の突っ込みにそう返してやると、正人と睦月はどちらからともなく目を合わせ、それから照れくさそうに頬を染めた。初々しいラブコメ空間がここに爆誕。付き合い始めてそろそろ二ヵ月ぐらい経つだろうに、よくまあこんなに甘ったるい空気を出すことができるものである。


「こほん」


 仕方ないので、まずは咳払いをして二人の意識を俺に向け、


「そうやってラブコメすんのもいいけど、電車の時間も考えろ?」


 と、指摘を飛ばす。


「お、おう……そうだな。そろそろ行かないと、間に合わなくなるか」


 そう言って頬を照れくさそうに指先で掻くと、まず最初に正人が歩き出す。


 すぐにその隣に俺が並び、睦月は二、三歩ほどの距離を置いて俺たちのあとからついてくる。


 それは、俺たちのいつもの並び方。三人で一緒にいる時の、いつもの歩き方。


 そんな風にして駅への道を行きながら、他愛のない言葉を三人で交わし合う。それこそ、特に内容のないような雑談ばかりだ。最近どうだとか、先生がこうだとか、勉強だりいとか、宿題する気がしねえとか、でもやらないといけませんよとか、じゃあ代わりにやってくれよとか、自分でやらないと意味がありませんよとか、それができたら苦労しねーとか。


 そういや、アメリカ、大丈夫なのか、とか。


 言葉がどうとか、生活習慣がこうとか、ちょっとそこは不安だよなとか、でもなんとかなるだろとか、お前度胸あるよなとか、腹くくるしかねえんだよなとか。


 あれとか、これとか、それとか、色々。


 どんな下らない内容でも、いつまでも話し続けられるような気がした。三人でいれば、言葉も会話もきっと尽きたりしないんだろうな、なんてことも思う。そんな風に感じる一方で、無言の時間が永遠に続いたりしても、居心地が悪くなったりはしないような気もした。


 なんだこれ、と思う。案外、俺、やれてんじゃん。


 まともに話せるかどうか、直前まで不安に思っていたことの方がもはや不思議なような気がした。たかだか二週間ぐらい話していなかったぐらいで、俺たちが積み上げてきた時間が崩れるわけでも、失われるわけでもない。会話のテンポも、間合いも、頭で考えるより先に体の方が覚えている。


「なあ、正人」


 会話の流れを無視して、おもむろに俺は正人にそう話しかけた。


「ん、なんだ?」


「俺さ。実のところ、お前らとはもう、終わったって思ってたんだよな」


「……」


「色々あったし、喧嘩もしたし、関係だって拗れまくってもう元には戻れないって思ってた。っていうか、今でもやっぱそう思ってる。正人とも、睦月とも、以前とはまったく同じ関係には戻れないし、そんなのは絶対に不可能だって」


「……それは、まあ、そうかもな」


 正人と睦月は付き合い始めて。


 俺は野球を、完全にやめ。


 そうやって築き上げてきた関係も、すべてが脆くも崩れ去った――そう、思っていた。


 けど。


「でも」


 本当に全部がなくなったのか、と言われれば、そうとも言い切れないような気がして。


「無理をしたい――って、今は少し思うんだよ」


 睦月と正人は付き合い始め。


 俺は野球を完全にやめて、正人ともバッテリーなんかではなくなって。


 そうやって変わって、崩れて、変化して、失った関係の中でも――多分、最後には残るものがあるんだと思う。


 その、残るものは、脆く、儚く、消えやすく、失いやすく。


 そして、そこにあると気づくことが、他のなによりも難しい。


「結局俺は、お前らのことが憎くて、妬ましくて、疎ましくて、腹立たしくて――」


 だけど。


「それ以上に大事で、大切すぎて、無視することなんてできないんだと思う」


 思えば、二人と決別してからも、ずっと正人と睦月のことばかり考えていた。


 例えば樹里が、俺にとっては妹も同然で、家族に等しい存在であるのと同じように、正人と睦月はとっくの昔にそういう存在になっていた。


 もしかすると、だ。ただ楽になることだけ(・・・・・・・・)を考えたら、それこそ二人とは完全に距離を置いてしまう方がいいのかもしれない。


 まったくの他人になって、この先一生、関わることなく生きていくのが、最も心穏やかになれる方法なのかもしれない。その選択を賢いという者もいるだろう。一番、苦しむことのない道だという者もいるだろう。


 けれども、俺はやっぱり、そんな道を選べない。愚かな選択をし、苦しむ道を進むことを、こうして二人と会って話して、やっぱり望んでいる俺がいた。


「俺は、無理をしてでも……正人とも、睦月とも、ダチでいてえなって思うんだよな」


 苦しくともなお大事に想う、そんな心を『情』という。


 友情とも恋情とも愛情とも異なる。


 そこには憎しみも恐れも嫌悪も妬みもある。


 汚く澱んだ感情を、醜く歪んだ激情を、さらに超えていく情がある。あるいはそんな熱情(おもい)のことを、人は情けと呼ぶのかもしれない。


「だから、なあ、正人。お前、すげえやつになってくれよ。世界中の誰もが知ってる、そんなすごい投手になってくれよ。地球人類七十億人、その全員が一人残らず称えるような、最高の選手になってくれよ」


「……でかすぎるだろ。注文が」


「文句言うな。お前は俺よりも色々と持って生まれたんだから、これぐらいの荷物背負ってみせろよ。そして最後には、俺はそんなすごい奴の親友なんだって、俺の自慢にさせてくれ。俺の親友は俺の誇り、あいつの球を受けていたんだって、いつかでかい顔をさせてくれ」


 だから、なあ。


 俺は正人の方を向いて、言った。


「頼むぜ、親友。いつでも、いつまでも(・・・・・)応援してっから。挫けたりしたら承知しねーぞ」


 そんな重い呪い(きたい)の言葉を正人にかける。


 いつだったか。俺はいつも(・・・)は、でも、いつまでも(・・・・・)ではないと思ったことがある。


 だけど、この期待ばかりはいつまでも(・・・・・)、だ。俺はきっとこの先一生、正人に重い期待(ねがい)を押し付け続けることだろう。


 そんな俺の、期待の言葉に。


任せろ(・・・)


 一ミリも揺らぐことなく、正人はうなずいてみせた。


「そんなに簡単に受け入れていいのか? 言っとくが、この期待の重さは相当なもんだぞ」


「生憎だが」


 にやり、と正人が笑みを浮かべる。それは、俺もよく知っている――投手としての正人がよく浮かべる、獲物を狙う獰猛な肉食獣の笑み。


 打者を力でねじ伏せる時に、必ず正人が浮かべる、自信に溢れた投手(おとこ)の笑みだ。


「オレは、背負う荷物が重ければ重いほど、燃える方なんだよ」


「……知ってるよ」


 土壇場で怖気づくのは、いつも俺の方だった。マウンドにいる自信満々な正人の立ち姿がどれだけ俺を勇気づけてくれたのかは、今でもよく覚えている。


「だから、行ってこいよ、正人。誰の手にも届かないぐらい、すごい男になってこい」


「言われるまでもねえ」


 気づけば、横断歩道にまでやってきていた。信号は赤を示している。この横断歩道を渡れば、駅はもうすぐそこにある。


「――じゃあ、俺はここまでだな」


 その横断歩道の手前で、俺は足を止めた。


「いいのか? 駅まで来なくて」


「んな野暮なことはしねえよ」


 睦月の方をちらりと見つつそう返す。


「しばらく会えなくなるんだから、最後ぐらいは彼女と一緒にいてえだろ?」


「い、いや、なんつーかそのだな……そういうことをはっきりと言われると、なんてーかこう、なんだろうな、は、恥ずかしいな……」


 いきなり正人が、頬を染めながらぐねぐねとし始める。なんだこいつ。恋愛が絡むと相変わらず、妙に初心なところのあるやつだ。


 ふと、いたずら心を覚えて俺は問いかけてみた。


「ちなみにもうヤった?」


「はあ!?」


 正人が目を剥く。


「ばっ、上月の前でお前なにを……なにを!」


「なんだ。ヤってないのか」


「いやそれは普通順序というものがあってだな……そ、そういうのはもっとこう、しっかりと段階を踏まえて互いの心と心がいい感じのコンディションをえーっと……あ、いや、ちょっと待てふざけんな上月の前でなにを言わせる!?」


「ちなみに睦月は? 正人とヤるならどういうタイミングとかって希望とかはあんの?」


「……あの、それ、答えた方がいいですか?」


 恥じらいを含んだ表情で、睦月が俺と正人を交互に見る。


「!らかいいてくなえ答(←裏声)」


 素っ頓狂な声を上げる正人に、俺はふっと笑みこぼし、


「……そんじゃ、行ってこいよ。親友」


 と声をかけ、グー、パー、グー。そして最後に親指立て。


 そこで信号が、パッと青に切り替わる。


「……ああ。行ってくるよ、親友」


 正人が背を向け、横断歩道を渡り出す。睦月も軽く俺に向かって会釈をし、そんな正人のあとに続いた。


 こちらに背中を向けながら、正人が腕を高く上げ、グー、パー、グー。そして親指立て。


 そんな正人の背中を見届けて、俺はそこで空を見上げた。


 よく晴れた、雲一つない、いい空だ。


 爽やかな抜けるような青天井。親友の旅立ちを、まるで祝福しているかのようで。


 だから俺は、なんだかちょっと泣けてきて、なのに笑えて、とても自然にこう思ったんだ。




















 ――ああ、とても素晴らしい日だ。




















 そう、思った瞬間だった。


 甲高い、耳障りなエンジン音が、こちらに近づいていることに気づいたのは。

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