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裏切れば承知はしない

 に、してもだ。


 睦月のことが好きなのに、睦月と正人の仲が進展するように協力した理由、ねえ。


「自分でもよ、ぶっちゃけよく分からねーとこなんだよな、そこんとこは」


 俺がそう呟くと、樹里は意外そうな目を向けてきた。


「そうなの? 自分のことなのに?」


「我ながら情けねー話だと思うが、まあそうだな。なんかその時は、そうするのが当然だって思ってたし、自分のやってることにまるで疑問なんざ覚えなかった。俺が協力することで、睦月と正人が幸せになってくれるんだったら、なによりだってな」


 正人を好きになったと言ってきた睦月。


 睦月に惚れたと相談してしてきた正人。


 そんな二人の気持ちがすれ違うことなく、互いに向き合っているのなら、とてもじゃないが邪魔なんてできやしないと思っていた。むしろお似合いな二人だし、きっとこの組み合わせならどちらも幸せになれるだろう、なんてことも考えていた。


 俺が、睦月に惚れていると気づいたのは、二人の気持ちを知ってから数日が経ってからだった。だけど、自分の中にある恋心を自覚してからも、二人の間に割って入ろうなどとは思わなかったし、思いつきすらしなかった。むしろ、正人に惚れたことで、睦月が以前よりもたくさん笑うようになったのを喜んだぐらいだ。


 自分の気持ちを我慢することで、睦月の笑顔が増えるならそれでいいと思った。


 俺が背中を押すことで、正人が睦月をどんどん幸せにしていくのならそれが一番だと思った。


 なによりも、両親の離婚がきっかけで小五の頃から一人暮らしを余儀なくされている睦月には、拠り所になるようなものが必要だと思っていたのだ。それこそ、俺にとっての鮎菜ねーちゃんみたいな存在が。


 正人なら、きっとそうなってくれる信じていた。揺るぎない真の強さで、睦月の全てを受け止め、受け入れてくれるはずだ、と。


「じゃあ、なに? 兄貴と、あとあの女が二人で幸せになるなら、自分だけは一人で我慢すればいいって思ってたわけ?」


「そういう考えが、まったくなかったとは言わんけどさ。別に、それだけじゃねーよ。今思えば、そうだな……多分、俺は怖かったし、信じられなかったんだろうな」


「……つまりどういうこと?」


「俺はこの先一生、恋愛もしないし結婚もしない。ずっと一人で生きていく……そんなことを、あの頃は本気で思っていたんだよ」


「……っ」


「お前には、そんな悲しいこと言ったら嫌だ、なんて泣かれちまったけどな。だいぶ長い間、それこそ中学三年間はずっとそんな風に考えてた」


 そう思うようになったきっかけは、両親の離婚と、それに伴ういくつかのトラブルだ。


 人の想いが、簡単にひっくり返る瞬間を見た。


 一度は結婚し、間に子どもまで作った人間同士の関係が、徹底的に壊れる過程に触れてしまった。


 ずっと遠い昔には、右手に父の、左手には母の手を握って歩いた記憶が残っている。俺の頭上で笑顔を交わしたことの二人が、恐ろしい形相で怒鳴り合っている姿は、当時の俺には悪い夢のようですらあった。


 小六に上がる、直前の出来事。父親の不倫が発覚した、桜がそろそろ芽吹き始めるあの季節。


 その日を境に、家のリビングでは毎日のように壮絶な言い争いが繰り広げられることとなった。


 母を批判する父の声。父を非難する母の声。頭から布団を被っていても否応なく鼓膜を体を心を震わせる口論は日毎にその勢いを増し、険悪さはなりを潜めるどころかむしろ加速するばかり。


 しまいには、喧嘩に疲れ果て、母親に呆れ尽くした父が、不倫相手の部屋に上がり込む形で家を出る。しかし、そうやって父が逃げたところで、なにが収まるわけでもない。


 母の矛先は、あろうことか、父の不倫相手に向かった。


 なんとしてでも慰謝料を搾り取ろうと、悪鬼の如き凄まじさであらゆる手段を講じ始めたのだ。


 ……女というものは、長年連れ添い愛の熱が冷めてしまった男が相手でも、他の女に乗り換えられればどこまでも姑息にも、残酷にもなれる。そのことを俺は、その時知った。父が結婚して子どもまでいたことを、不倫相手はこれっぽっちも知らされていなかったにも関わらず、母は「あの女は最初から知ってて奪ったのだ!」という結論を頭から信じて疑わなかった。


 そして、母の所業はそれだけではない。


 ——大樹はちゃんといい子よね?


 ——大樹は私を裏切らないわよね?


 ——大樹はあの男のようにはならないわよね?


 ——大樹は必ず、どんな時でも、私の、私だけ味方よね?


 夜毎、俺の枕元に座っては、母はそんな言葉をかけてきた。そしてそれに、「うん」と返すまでは、眠りにつくことも許されない。


 そして「うん」と返したところで、「もし裏切ったら承知しないわよ」という、脅すような言葉が返ってくるのだ。


 そんな、両親の離婚とそれにまつわるトラブルは、離婚の調停が進み、母親が父親から三百五十万もの慰謝料を毟り取ることで収束を迎えた。だが、そうやって問題が解決したあとも、一連の出来事が俺に与えた影響はあまりにも大きかった。


 俺には、母を裏切り他の女に逃げた男の血が流れている。


 俺には、自分を裏切った男を修羅の如く追い詰め憎悪した女の血が流れている。


 そんな風に考えるたびに、俺はひどく絶望的な気持ちになった。とりわけ、恋愛や結婚などといったものにはどうしていい印象を抱くことができず、自分が誰かとそういった関係になることは想像の中ですら思い描くことはできなかった。


 自分もいつか、一度は愛した女性を手ひどく裏切るかもしれない。


 あるいは逆に、相手が自分を裏切ってしまうかもしれない。そしてきっとその時は、俺の心はきっと憎しみに染まるのだ。そうなってしまった時の自分を想像するたびに、夜、眠れなくなるほどの恐怖を覚え、母親の声が頭の中で蘇る。


 ——大樹はちゃんといい子よね?


 ——大樹は私を裏切らないわよね?


 ——大樹はあの男のようにはならないわよね?


 ——大樹は必ず、どんな時でも、私の、私だけ味方よね?







 ——もし裏切ったら承知しないわよ?






「だから、さ」


 そこまで語り終えたところで、俺は樹里に向かって言った。


「俺だけが我慢すればいいとか、そんなかっこいい理由なんかじゃなかったと思うぜ。もし睦月が正人に惚れていなかったとしても、俺には想いを伝えることなんて絶対にできなかっただろうな」


 気持ちを通じ合わせて結ばれた先で、壊れてしまうのは怖いから。


 どの道俺には、気持ちに蓋をする以外の選択肢しか、最初から残されていなかったのだろう。


「……ごめん、ごめんね大ちゃん」


 俺が話を終えてから、しばらく経ったところで、樹里がぽつりと呟いた。


「なんで、お前が謝るんだよ」


「だって……」


「別に樹里が悪いことしたわけじゃねーんだから、ごめんなんて口にするな。あんまよくねーぞ、そういうの」


「ごめん……」


「だから、お前なあ」


「だって……ひぅ……」


 唐突に樹里の声音に泣きの色が混じってくる。


 見れば、彼女は唇を引き結ぶようにして、しゃくり上げているようだった。


「あたし、大ちゃんが……大ちゃんの家がそんなことになってるなんて、全然知らなかっ……うぇ、ひっく……気づいてあげられなくてごめぇん……ぐすっ」


「あー、おいおいまったく。お前が泣くようなことじゃねえだろ、こんなもん」


「ら、らってぇ……ぁぅ」


 強引に樹里をこちらに向かせて、顔の涙を手で拭ってやる。それこそ、ガキの頃に樹里によくしてやったように。


「俺が、人に言いたくなかっただけなんだよ、こんなのは。誰かに言ったら、そこで挫けてしまいそうで、ぽっきりと心が折れてしまいそうだったから。だからお前が泣いて悲しむようなことじゃない。腹抱えて笑えとは言わんが、元気出せ、バカ」


 そして涙を拭ったあとは、ぽんと頭を軽く叩くようにして撫でてやる。樹里が泣いた時は大抵、こうしてやると機嫌を直してくれたものである。


「……バカじゃないもん」


 実際、そう言って返してきた彼女の言葉は、まだ少し涙声ではあったがさっきよりは張りがある。そのことに俺は、ほっと胸を撫で下ろした。


「……あたし、さ」


「うん?」


「大ちゃんが、いつか自分のことを信じられるようになったらいいなって思う。大切な人を大切にできる、そんな人間だって大ちゃんが思えるようになってほしいって思った」


「そうか。ありがとな」


「だから、あたし、頑張ろうと思うんだ」


「頑張るって、なにをだ?」


「色々」


 とだけ、樹里は言った。


 それから、口元を少しばかりもにょもにょさせたかと思うと。


「大ちゃんには、そのうちちゃんと、言うから」


 と、謎の宣言を俺に向かってしてきた。


「お、おう……なにを言うんだ?」


「その時になれば分かるよ」


「なにを、勿体付けてんだか……」


「言うから」


 強い、決意を込めた眼差しを樹里が向けてくる。


「言うから。ゼッタイ」


「?????」


 だから、なにを言うんだっつーの。


 けどまあ、なんだ。


 樹里が……妹分が、なにかを決心したってんなら、俺としてはその背中を押さないわけにいかんだろう。


「なんだか知らんが、まあ、そういうことなら待ってるよ」


 そんな言葉を返しながら、俺はニッと樹里に笑いかけるのであった。

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