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喧嘩してても楽しそう

 逃げることは、時に正しい選択なのだろう。


 だけどそれをそうだと知るのは、大人になってからでいい。


 今欲しいのは、逃げなかった(・・・・・・)という事実なのだから。


  ***


 いつもの場所――河川敷へと向かう最中、不思議と俺と正人の間に言葉はなかった。


 何年かぶりの緊張感が、俺と正人の間には漂っていた。ピリピリとした、どこか心地いい緊迫した空気を感じると、体に芯が通ったような気分になる。


 途中、睦月とすれ違った。彼女は俺と正人の様子を見て取ると、やんわりと笑顔を浮かべて、「いってらっしゃい」と言って俺たちのことを見送った。そんな彼女の言葉に対して、正人は右手を、俺は左手を軽く上げて返事に変えた。


 その瞬間、微かに胸がざわめくのを俺は感じた。親愛の深さはそのままに、気づけば友情へと形を変えていたと思っていた想いの形。未練にも似た感情が、きっとまだどこかに残されている。複雑に拗れて、よじれて、解きほぐすのが難しくなったこの感情もまた、人を想う形の一つなのだろう。


 河川敷にたどり着いた俺たちは、制服の上着を脱いで無言のままにキャッチボールを始める。ボールを投げる音と受ける音以外には、怖いぐらいに静かなキャッチボールだ。しかし今日は、ただこうするだけでは終わらない――そんな確信を、互いに抱いているかのような沈黙の時間だった。


 そのようにして、無言のままに三十分ほど、俺たちはボールの往復を続けた。5メートルの距離は10メートルになり、10メートルの距離は20メートルになり、さらに50メートルとなっていき、やがて――、


「座れるか?」


 ――遠投から徐々に縮まった俺たちの距離は、18.44メートル。


 マウンドから、キャッチャーミットまでの距離を、俺たちはもう体で知っていた。


「……おう」


 言葉少なに、俺はその場に腰を下ろす。それは、まさにこれから喧嘩が始まるという合図でもあった。


 重心は、やや前のめり。膝を地面につかない三点立ち姿勢。肘の辺りに余裕を持たせることを意識しつつ、キャッチャーミットを前に出す。


 視線は真っ直ぐ、正人(ピッチャー)へと向ける。こちらの受ける姿勢が整ったのを見て取った正人は、セットポジションから左足を大きく体に引き付けるようにして上げ、そこから前へと大きく踏み出す。


 そして。


「――ッ」


 投げる直前、正人のフォームに俺は思わず目を剥いていた。リリースポイントが明らかに低い。中学時代の正人はオーバースローだったはずなのに、知らない間にその投げ方は変わっていた。


 恵まれた、長い手足を存分に活かしたサイドスロー。俺から見て右手側に逃げていくボールを慌てて追うが、しかし対応しきれない。ミットの中でボールは暴れて、俺の足元にポロリとこぼれる。


「今のは……」


 絶句する俺に対して、開いたグラブを向けてきながら、正人が返球を要求してくる。


 それから、腹立たしいぐらいに冷静な声で言葉を紡いだ。


「まだ、こんなもんじゃないだろ?」


「……」


「オレたちの喧嘩は、まだ始まったばかりだろ? 違うか?」


「……上等だよ、テメェ」


 歯を剥いて俺は答える。拾ったボールを力強く投げ返し、再び負けじとその場にしゃがむ。


「っしゃあ、来いやオラァ!」


 そして、腹から声を出す。かつての相棒に、それこそ挑みかかるような勢いで。


 怯むようなことは、全然なかった。この程度でビビるぐらいなら、そもそも最初から喧嘩(・・)なんて持ち掛けてはいない。


 そう、これは喧嘩なのだ。


 昔は、俺も正人と喧嘩をすることもあったのだ。いつしかそれをしなくなり、衝突することも極力避けるようになっていた。


 だけど、本当はもっと、俺は正人とぶつかるべきだったのだ。衝突して、喧嘩することに、怯えすぎる必要はなかったのだ。そのことに、ここへ来てようやく俺は気づいた。気づいたからこうして、正人の球を――想いを、迎え撃っている。


「――っ」


 機械じみた正確さで、正人は際どいコースを突いてくる。球速は明らかに以前よりも速い。変化球のキレも鋭く、予想よりもさらに大きく変化する。それになんとか食らい付こうとするものの、ミットの中で球は暴れて時には足元に取り落とす。


 二年間、練習をサボってきた俺が、この二年で成長していた正人にそう易々と追いつけるわけもないことは分かっていた。正人の球の鋭さはそのまま、彼の重ねてきた努力を証明している。一週間足らずのバッティングセンター通い程度では、その差が埋まるはずもない。


(違う、こうじゃない!)


 胸の内でそう叫びながら、俺は正人にボールを投げ返しミットを構え直した。


(ボールの捕り方は、もっとこう――)


  ***


「……げっ」


 河川敷を訪れた樹里は、思わず顔をしかめていた。


 大樹が動くとするならば、きっと今日辺りだろうと樹里は思っていた。水曜日だし、晴れてるし、もしなんらかの行動を起こすならこれほどちょうどいい日もないだろう、と。


 そんな風に考えて、こうして河川敷へとやって来てみれば、そこには先客が一人いた。同じ学校の制服姿で、リボンの色が示す学年は二年生。自分とは裏腹なぐらいに静かなまなざしで土手の上に腰を下ろして、眼下の河川敷を見下ろしている、清楚(・・)と名高いお姫様。


「……なんであんたここにいんの?」


 剣呑な口調で樹里がそう言って話しかけた相手は、兄の彼女のいけ好かない女。あとなんかちょっと最近になって怖くなってきた女。いやほんと、次の行動が微妙に予測できなくて、口調の尖りっぷりとは裏腹に樹里の腰はやや引けていた。


「あら、樹里さんですか。お久しぶりですっ」


 一瞬、目を丸くしたその女――睦月は、すぐに表情を緩めると、にこやかに微笑みかけてくる。


「できれば一生顔も見たくなかったんですケド」


 そう言い返しつつ、樹里は睦月から距離を空けて土手の上に腰を下ろした。それから、河川敷へと目を向ける。


 河川敷では、正人と大樹の間を今も白球が往復していた。セットポジションで立つ正人。それに向かって、しゃがみこんでミットを突き出している大樹。


 正人が、投球モーションに入る。直後に鋭く放たれたボールは、樹里ではまともに追えそうにない。その球を大樹は辛うじてミットで受け止め……しかし一瞬後、弾かれたボールが地面で跳ねる。


「ああ、惜しいっ」


 思わず樹里が声を上げる。いや、本当に惜しかったかどうかなんて樹里には分からないんだけど。だけど大樹のこととなると、ついつい熱くなりがちな自分がいることを、彼女はそろそろ自覚しつつあった。


「確かに、今のは惜しかったですね」


「どひゃあ!?」


 不意にすぐ隣で睦月の声がして、樹里は思わずのけ反った。横を見れば、いつの間にかピタッとくっつきそうなほどに睦月がそこまで迫ってきていたのだ。


「なっ……うわ、ちょ、なになになんでそこにいるの!?」


 睦月に向かってそう言い放ちつつ、すかさず距離を置いて座り直す。


「中途半端に離れて座ってるのも、なんだか寂しくないですか?」


 すると睦月は、そんなことを言いながら再び距離を詰めてくる。


「寂しくないから……ってかあんたが近くにいると思うと逆に怖いしビビるから……」


「そうですか……」


 しょんぼりを眉尻を下げる睦月。だが、すぐに意識を切り替えたのか、


「ちなみに、私のどんなところが怖いのですか?」


 などと。本気で疑問らしく、首を傾げて問いかけてくる。


「いや自覚ねーのかよ!?」


「……?」


「きょとん、じゃねーよなんだよテメー……なんてやり辛いやつ……」


「でも、どこが怖いのか教えていただけたら、次は改善できるかと思いましたので」


 両手でギュッと拳を握って、気合を入れてみせる睦月。心なしか、ふんすふんすとやる気たっぷりな様子で鼻先も荒い。そんな睦月の態度に、「話しても無駄感」みたいなものを樹里は覚えた。……まあきっと、コイツはこういうやつなのだろう。諦め交じりに、とりあえずそう納得しておくことにした。


 そんなやり取りをしている間にも、眼下では正人と大樹の喧嘩(・・)は続いている。何度も何度も正人が投げて、それを大樹が必死に受ける。……だが、それを大樹はまともに捕球することができていない。はた目にも明らかなほどに、腕や体が流されてしまっている。時には、ボールそのものを取りこぼす。後ろに逸らしていないのが不思議なほどに、樹里の目に映る大樹は正人にいいように振り回されているように見えた。


「……なんか、兄貴、意地悪みたい」


 そんな言葉を、つい、呟いてしまう。


 あんな風に意地の悪いことをするなら、もっと捕りやすい球を投げたらいいのに。そんなことを、彼女は考えてしまう。


 しかし、そんな風に思っていた樹里の気持ちを否定したのは、睦月だった。


「いいじゃないですか。意地悪だとしても」


「……は?」


「仮にここで正人君が手心を加えたとして、それで大樹君が納得すると思いますか? 向き合うことを選んだ二人が、なあなあな結果で納得するのを選びたがると思いますか?」


「……それは」


「そのことはきっと、私よりも長くあのお二人を見てきた樹里さんの方がご存じだと思います」


 嗜めるような睦月の言葉に、樹里は思わずムッとする。それから噛みつき返すような口調で、


「そんなこと、言われなくても分かってるしっ」


 などと言い返していた。


 それから同時に、彼女は思う。


 どうせもう、自分にはこうして見守っていることしかできないのだ、と。


「……ほんっと、男はズルいよなあ」


 気づけば、そんな言葉を呟いている。


「樹里さん?」


「なんか、羨ましいなあ……だって」


 ――喧嘩してても、なんだか二人とも楽しそうなんだもん。


 その言葉は、口にはせずに、密やかに胸の内で呟いた樹里だった。

さて、そろそろこの作品も大詰めになってまいりました。

もうちょいで完結なんですがちょっとばかし物悲しい感じですね。あ、ちなみに完結するのは一章だけなんで、物語全体としてはまだまだこの作品も『道半ば』です。今後ともお付き合い願えれば幸いですね。

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