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『分からない』、が、『分かった』

 兄の告げた言葉に樹里は戸惑いを覚えた。分からなかった、などという答えが返ってくるなどとは、考えもしていなかったからだ。


 自分が期待していたのは、『分からない』などという断絶を感じるような答えじゃない。もっと親密で、温かいような感じのするものだ。だというのに、『無理解』だなんて回答に行き着くなんていうのは、あまりに悲しすぎはしないだろうか。


 だって正人は、樹里の目から見ても大樹のことを理解しているように見える。自分よりも、誰よりも、大樹と心を通わせているようにずっと樹里は感じていたから……。


「分からなかった、って……はあ? なにそれ、ふざけてんの?」


 思わず、噛みつくような勢いでそう切り返す。なんだか納得しがたいような気持ちが煮えていた。大樹のことを、兄が突き放しているように思えて、それがなんだか腹立たしかった。


 そんな風に声に険を滲ませる樹里とは裏腹に、正人の態度はいたって穏やかなものだった。むしろ、樹里の反応に対して、微笑ましいものを見るような目すら向けてくる。


 その視線にむず痒いものを感じてほんのり眉をひそめてみせると、正人が口を開いた。


「お前は優しいな、樹里」


「……はあ? いきなりなに言ってんの?」


「いや、素直にそう思っただけだ。分かってやりたいって思うんだろ、大樹のことをさ。あいつがなにをどんな風に感じているのか、とか、そういったことをちゃんと理解してやりたいって、さ」


「それは、まあ……」


「そういう風に樹里が思えるのは、他人のことを思いやるって心根を、お前がちゃんと持っているからなんだろうな」


 不意打ちで褒められたりすると、覚える感情は喜びよりもむしろ戸惑いの方が勝る。思わず、「えぇ……」と表情を樹里が歪めると、正人は苦笑を一つ漏らしてから言葉を続ける。


「ただまあ、オレの場合は結局分からなかったんだよ。より正確に言うならば、そうだな……『分からない』ってことが『分かった』」


「分からないが、分かった……?」


「ああ。……想像まではできるんだよ。大樹とか睦月を見ていれば、大人がいないことでどういう考え方をするようになったのか、とかだって、なんとなくだけどイメージぐらいは浮かべられる。そういう本とかも買ってみて、オレのイメージがどれぐらい正解だったのか、なんて答え合わせだってできる」


 その言葉に、樹里は部屋の隅にある本棚に目を向ける。漫画や野球の本に混じって、『発達心理学』や『臨床心理学』、『毒親育ちの子どもたち』『家庭の心理学』……そんな言葉が背表紙に刻まれている専門書らしきものが何冊もあった。十冊とか、二十冊とかぐらいだろうか。読み込まれているせいか、背表紙がもうヨレヨレになっているものもいくつかある。


 兄がそんな本を読んでいることを樹里は知らなかった。これまで何度もこの部屋に足を運んできていたのに、そんな細かいところまで見たことはなかったのだ。


「……ただな。どんなに調べて、考えて、答え合わせを繰り返して、大樹がいったいなにをどう思っているのか、どう考えているのか、どういう価値観で動いているのか知ろうとしても、どうしたって無理があるんだよ。オレだとどうしたって、分かってやれないことがあるってのが分かっちまった」


「なにが、分からなかったの?」


 おそるおそるといった様子で樹里が問いかけると、正人は一度、瞑目する。


 しばらくして目を開くと、どこか諦めの滲む声色で、ポツリと一言呟いた。


「感覚、だよ」


「感覚……」


「胸の中にぽっかりと穴が開いたような、どこまでも落ちていく、『なにも無い』って感覚が、多分だけど大樹や睦月にはあるんだと思う。足りない、満たされない、愛されていない、欠けている……そういう飢餓にも似た空洞を、きっと抱えているんだろう。あいつらは」


 正人の言葉に、樹里はマスドでの一件を思い出した。


 大樹も同じようなことを言っていた。


 ――距離とか、関係性とか、そういう意味での近さじゃなくてさ。……強いて言うなら、そうだな。傷、とか。虚、とか。もっと端的に言うならば、空洞とか、欠けてるものとか、そういう負の要素をふんだんに含んだ、あれやら、これやら、ってやつが、かな――


 そんな言葉を口にした時、大樹が近くにいないように感じられて仕方がなかった。まるで自分が知らない誰かになってしまったかのようで、その時樹里は、とても寂しい気持ちになったのだ。


 その寂しさは多分、大樹のことが分からなかったから。彼の言う『空洞』がなんなのか、自分の中を探してもまるで見つからなかったから。それが無性に悔しくて、寂しくて、切なくて、あの時の樹里は間違いなく無力感に襲われていた。


「それだけはオレには分からない。『欠けている』が分からない。『満たされない』が分からない。『埋まらない』が分からない」


「……」


「もちろん、試合に負けて悔しい、とか。次は勝ちたい、もっと勝ちたい、もっと上手くなりたい、強くなりたい、次は次こそはもっともっともっと……そういうのは分かる。いわゆる、向上心だよな。そっちなら、オレでも理解できる。感覚として、分かるんだよ」


「感覚として……」


「そう、感覚として、だ。で、その感覚の部分を分かってやるには、今のオレじゃもう無理だ。それこそ産まれからやり直さなければ、理解することもできんだろうさ。だから、『分からない』ってことが『分かった』んだよ」


「……なんかそれって寂しいね」


 兄の言葉を理解して……理解してしまって(・・・・・・)、樹里は不満げな言葉をこぼす。なんだか、「つまり、お前にはなにもしてやれない」と言われてしまったような気もする。


 実際、できることなんてなにもないのかもしれない。


 してあげているつもりになって、その実なんの助けにもなっていなかったりするのかもしれない。


 実際、樹里は一度は分からなかったのだ。大樹が心の傷を樹里に向かって開いてみせたとき、それに対して「よく分からない」と返してしまった。その時の大樹は、なんて口にしただろうか。「分からない、でいいんだよ」と、むしろ諭すように言ってきたりはしなかっただろうか?


 それに……そうか。あの時はよく分からなかったけど、憧れがどうとか大樹は言っていただろうか。分からないやつだからこそ、憧れているのだと。――あの時は、関係ない話をなんでするのだろうなどと、樹里は思っていたけれど。


「……それでもあたしは、分からないからって諦めるのは悔しいよ」


 こぼれ落ちた言葉は無意識。だけど、口にしてそれが自分の本音だと樹里は悟る。理解してあげられたらと、正人の言葉を前にしてもなお、思うのだ。そしてできれば伝えたい。寄り添う誰かがここにいるよ、と。……できればその誰か(・・)とやらが、自分であるならもう言うことはないだろう。


 そんな樹里を見て、正人がフッと笑みを深める。それはまるで、慈しむかのような微笑みで。


「お前はやっぱ、情の深いやつだよな」


 どことなく嬉しそうな様子で、そんな言葉を口にするのだ。


「……自分ではそんな風に思ったことないんだけど」


「ま、そんなもんだろ。自分のことなんて、自分が一番分からないのが世の常ってもんじゃないか?」


「兄貴はどうなの?」


「どうなのって、なにがだ?」


「兄貴も情が深いの?」


 樹里の問いかけには、正人は笑みを深めるだけで答えを避けた。それからぽつりと囁かれた言葉は、


「自分勝手なだけだろ、オレは」


 という、どこか自嘲めいたものだった。


「……ほんとだね」


「なんだ、お前にもそう思われてたのか」


「ううん。そっちじゃなくてさ、兄貴が言ったこと」


「オレの?」


「うん。自分のことなんて、自分が一番分からないって言ったじゃん」


「あー……」


「あたしからすれば、兄貴もじゅうぶん、っていうかすっごく、情が深いように思う」


 真剣な口ぶりでそう言えば、「まさか」とでも言いたげに正人が樹里を見返してくる。


「兄貴があの女と付き合い始めてからも、大ちゃんといようとしたのにだって、理由があるんだよね」


「……」


「大ちゃんが野球を辞めた時、キャッチャーミットを預かったのもさ。今でも野球部に戻れって、ずっと言い続けてるのだってさ」


「樹里……」


「大ちゃんを独りぼっちにしたくなかったからだよね? いつでも戻ってこれるように、兄貴は場所を空けておきたかったんだ」


「それはあまりに、身内贔屓が過ぎるってもんだろ」


 樹里の重ねた言葉に対して、正人は否定も肯定もしなかった。


 ただ、軽く笑ってみせたところで、口を開く。


「ま、実際の思惑がどうであれ……今の大樹にオレからしてやれることはもうないんだろうな」


「そんなことは――」


「あるだろ。オレや睦月が今の時点で大樹と話そうとしても、余計に苦しめるだけだ。……睦月にも、しばらくは大樹とは距離を置くように言っとかないといけないな」


 否定できずに樹里は黙り込む。確かにそれはそうなのだ。今日だって、睦月と話していた時の大樹は、とても苦しげだったから。


「……ねえ、兄貴」


「なんだ?」


「このまま大ちゃんと一緒にいられなくなったりとかしないよね?」


「さあな。そんなのオレに分かるかよ」


「あたしは、やだな、そんなの」


「……そうか」


「なんか、全然、納得とかできないし」


 不満げに唇を尖らせる樹里を見て、正人はもう一度だけ、「そうか」と返す。それから、座っていた椅子から立ち上がり口を開いた。


「さて、と。この話はもう終わりにするか。もう、飯になる時間だしな」


「あ、うん、でも――」


「でも、じゃない。ほら、もたもたしてると飯抜かれるぞ」


 立ち上がった正人に追い立てられるようにして、渋々と樹里はクッションを抱えて部屋を出る。


「――どうすりゃ全員が納得できるかなんて、そんなのオレにも分からねえんだよ」


 と正人の呟く声は、扉の閉まる音に紛れて、樹里の耳には届かなかった。

すみません。実は今月に引っ越しを控えてまして、それに伴って明日から部屋のWi-Fiが使えなくなり、その上で引っ越し作業の方も進めなければならないので、しばらくの間更新ができるかどうかわかりません。

一応、執筆自体は進めていくつもりなのですが、更新自体はかなり不定期になることが予想されます。大変ご迷惑おかけいたしますが、今後ともお付き合いいただければと思っております。


あと兄妹編はここで終わりです。次回から大樹視点に戻ります

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― 新着の感想 ―
「好きな女が目の前で他の男とイチャイチャしてたら辛い」って言えばいいだけの話をこんな引っ張るの意味わからんw
[一言] 自分らが納得いかないから振られても友達でいろ!お前が好きな女と俺がイチャイチャするのを近くで見てろ! 狂気のサイコパスカップルだわこれ。
[良い点] 私はみんなに幸せになって欲しい………
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