兄貴、あれマジでやめた方がいいと思うよ
※向居兄妹回です
ほんっとわけが分かんない! いったいマジでなんなのあの女マジで! ――と、鼻息も荒く樹里が家に帰ったのは、ちょうど門限の午後七時になる頃であった。
玄関の扉を開きながら、「ただいまぁー」と口にする。それから靴を脱いだ樹里は、
「あーもーっ!」
と、いらだち紛れにそんな声を上げ、リビングの中へと入っていった。
「あら樹里。おかえりなさい」
そういってリビングの奥の台所で顔を上げたのは、母の向居里沙である。向居家の夕飯は、いつもだいたい七時半ぐらいだ。漂ってくる香りからすると、今夜はカレーといったところか。
「あ~ら……っていうか樹里、どうしたの。そんな顔しちゃって~」
調理の手はそのままに、里沙はそう言っていかにも不機嫌そうな顔つきの樹里に問いかけてくる。それに対して、樹里はというと、ここぞとばかりに「あのねあのねっ」とやや前のめりに話し出す。
「ほんっとあり得ないのよ! あの女マジで! ちょーわけ分かんないっ」
「あの女~? あ~、睦月ちゃんねえ。正人と付き合い始めたんだっけ~?」
「そうなのよありえなくない!? 兄貴の危機だよ危機!」
「あら、そうなの?」
「そうなの!」
熱を込めて兄の身の危険を訴えかけるが、里沙は「あら~、大変ねえ」と気のない返事。どころか、
「あら……ちょっと水加減間違えたかしら……」
と言いながらお玉を片手に鍋に向かい、少し難しそうに眉を寄せている。事の深刻さを分かってくれない母に対して微妙に苛立ちを覚えつつ、「ちょっと樹里こっちいらっしゃい」と手招きされて台所に近づいていくとだ。
「な~によママ……んっ」
口にカレーの入った匙を突っ込まれた。その口当たりは微妙に薄味。カレーというには、スープそのものがさらさらしすぎているようだった。
「どう?」
「……なんか水っぽい」
「そうよね~。じゃあルー足しちゃおっと」
「水の分量、ちゃんと計るようにしなよ……」
「いつものことだとついつい横着しちゃうのよね~」
「まったく……」
戸棚を漁りだす母を見て、樹里はため息を一つ。ちなみに向居家で一番料理が上手いのは兄の正人で、次点が父。里沙と樹里は同列三位ぐらいに位置しているため、実は人のことをバカにできないのが樹里である。
ともあれ、家事に勤しむ母にこれ以上愚痴を言ったところで今は聞いてはくれないだろう。樹里は早々に見切りをつけ、ソファの上に通学カバンを放り出し二階へ向かう。
リビングから出る時に、後ろから里沙が、
「あ~こら、カバンちゃんと片づけなさ~い!」
と声をかけてきたが、それについてはいつものことだ。
「あとでリビングで勉強するからいいの~」
そんな風に叫びかえしながら、階段をドシドシ上がっていく。「まったくも~」とか言いながら、今頃は里沙が肩を竦めている辺りだろう。
階段を駆け上がり、まずは自分の部屋に飛び込む。手早く制服を脱ぎ捨てて、クレンジングシートで化粧を簡単に落とす。細かいところはあとで風呂。外ならともかく、家の中ならこういうのは雑でも別に構わない。
それからサクッと部屋着に着替え、キャラクターモノのクッション(駅前のゲーセンで取れるやつ。三年前に大樹がくれた)を片手に部屋を出た樹里は、隣室の扉をドンドンドンッ、と三回ノック。返事も待たずに中に入ると、野球用ワックスのにおいと、部屋の主―――正人の呆れた目つきが出迎えた。
「お前、樹里……ノックの意味知ってるか?」
「知らないっ」
ふくれっ面で返しつつ、適当に床の上にクッションを敷いて腰を下ろす。
「まったくこいつは……」
とため息をつく正人だが、毎度のことにいい加減諦めることを覚えたらしい。非難してくる様子はなかった。
「今いい? なに観てんの?」
「んー、内野手の守備理論に関する動画」
机の前に座って動画サイトを見ている兄にそう問いかけると、そんな返事が返ってきた。野球に関しては詳しくないから、「ふ~ん」と適当に返す。
「内野手に焦点を当てた、各ポジションごとに必要となってくる能力、みたいなあれだよ。三塁手は速い打球に対する対応能力が必要になるし、一塁手は荒れた送球に対する即応力・捕球力が重要、みたいなあれ」
「ああ、なるほど。あれね、あれ」
うなずいてみせる樹里であるが、ぶっちゃけ兄の言っていることはよく分かってはいない。野球と聞いて彼女が思い浮かべることなど、兄がピッチャーで幼馴染の彼がキャッチャー、だということぐらいである。
部屋の片隅、兄のグラブと並んで置かれているキャッチャーミットを見て思う。――大ちゃん、野球、なんで辞めちゃったんだろう、などと。
「っていうか、兄貴! 今、いい!?」
気を取り直して口を開くと、微妙に嫌そうな視線が返ってきた。
「お前にそう聞かれて、良くないっつって、樹里がおとなしく引いたことってこれまであったか……?」
「今日は大事な話だもん」
「それも何度も聞いた。……はあ」
仕方ない、とばかりに正人は動画の再生をいったん止め、樹里に対して向き直る。妹の甘えとわがままは今に始まったことではない。……いい加減、適度に突き放すことも覚えなければならない時期かもしれないが。
「……で、今日はまたどうしたんだよ」
「あのさあ! あの女、ほんとマジで信じられないんだけど! 兄貴、あれマジでやめた方がいいと思うよ!?」
「お、おう……いや、いきなり人の彼女をディスるのもやめとけ、な?」
傾聴の姿勢はそのままに、苦言だけは一応呈しておく。――甘やかしてきた弊害か、本当に遠慮のない性格にこの妹もまた育ったようである。
※向居兄妹回はもうしばらく続きます。
こういう兄ちゃんの欲しい人生だった




