もしも世界が白いスクリーンなら
今見えている景色は果たして本物だろうか。隣に座っている友人と私は、本当に同じ景色を見ているのだろうか。彼女と私とでは、見えている景色が違うのではないか。
しかし、彼女と私が全く同じ景色を見ていると証明するすべがない。眼球を取り出し、網膜を調べればよいのか。そのような残虐なことをしてまで追求するようなものではない気もする。
私を囲む世界が本当は4枚の白いスクリーンでできていて、私が映したいものが目が映写機となって、それに映されているのではないか。生きている他の人もまた、同じ境遇なのではないか。いや、私以外に生きている人はいるのか。生きていると思っている私以外の人間もスクリーンの映像に過ぎないのではないか。
この妄想にとりつかれてから、いや、この真実に辿り着いてから、変わったことがある。
見えるものが平面になる瞬間が、時に訪れるようになった。
疲れがたまり、何を言われても頭で処理しきれなくなりつつあるとき。段々と意識が遠のき、次第に周囲の顔から立体感が失われていく。
正反対に、集団で何かを成し遂げ、笑い合い喜びを分かち合うとき。段々と周囲の声が遠のき、同様に立体感が失われていく。
このような体験は、私の孤独感に起因していると思われる。孤独を求めたときに、現実かのように思わせる能力を緩め、本来のスクリーンらしく変化する。
孤独だったから、孤独であることを好むのか、はたまた孤独を好むから、孤独になろうとするのか、判断はつきかねる。