第6話「エリュシオンの鳥籠」
汚染。この湖を既知する者が見れば、まずこの言葉が思い浮かぶ。
星屑映しとは到底呼ぶ事など出来ない、穢れた水面。いや、水面と判断するのも難しい。この湖はそれほどまでに普段の姿とかけ離れていた。
湖中央に位置する水晶も写真で見る限り綺麗な水色をしていたのだが、今は何とも禍々しい紫色に発光しており大分変貌を遂げている。
しかし、しかしだ。
不思議と、危険さは感じられない。
歪な危うさは間違いなく感じる。感じられるのだが、それが害になる物かと問われれば彼等は首を横に振るだろう。
例えるなら――子供が興味を惹く為の、悪戯。
「リア。これは、もしかして……」
「……決めつけるのは早計だ。もう少し調査の必要がある」
リアの言葉にヨハンを首肯し、静謐な湖畔を慎重に進む。土を踏み締める物音すらも最小限に、周囲への警戒も怠らない。
そして、湖が眼前の所まで近付くと、原因の究明の為に膝を折り曲げた。
「この湖を覆う黒い物体は魔力粒子、か?」
「うん、可能性は高いね。あの神造遺物から漏れ始めているのかもしれない。……確認してみようか」
ヨハンはそう告げると、掌を水面に翳す。
そして、
「消失」
短い詠唱と共に、黒の物体へ手を触れさせた。
刹那、彼が触れた箇所のみ、黒の表面が綺麗に剥がれ落ち、ラルシュタット湖が持つ透明な水面を映し出した。
しかし、
「……なるほど。消してもまた再生するわけか」
顔を見せたのも束の間、即座に黒が侵食し元通りになってしまった。
これにはヨハンも苦い顔をし、溜息を吐く。
「神造遺物は無限に近い魔力を貯蔵している。このままじゃ幾ら消してもキリがないな。……となると」
「大本の方を何とかするしかないみたいだね」
「そのようだ」
二人は視線の先を水晶体に向ける。
中にある黒の本。あれが湖を汚染している原因なのは確定だ。後はあれを如何なんとかするか、そこが問題である。
と、そこで。
「……よし、ここは僕一人で行こう」
ヨハンが一拍の思考後、切り出して来た。
「いいのか?」
「いいとも。……というより、この為に連れて来たんだろう? なら報酬分ぐらいは働かないと。それに……」
彼は近くの枝木を湖に投げる。
すると、それは黒の表面に触れた瞬間に、跡形もなく溶け消えた。
高密度の魔力が見せる現象の一つだ。
「流石の君でも、これに触れると少しやばそうだ」
「……どうにもその様子だな。わかった、お前に任せよう」
リアは表面上こそヨハンに一任をしてはいるがその実、言葉の端々に口惜しさが滲み出ている。
滅多に起こる事のない特異な状況だ。彼女の好奇心が疼いて当然というもの。しかし、なまじ頭が切れる為、嫌でも足手纏いになると理解できてしまう。
だから彼女はそれ以上の言葉を放たない。いや、放てないのだ。
「それじゃあ行ってくるよ。出来る限り君の要望には応えたいけど……無理だったらごめんね」
「死ぬ気で頑張ってから言い訳は聞く。さっさと行ってこい」
「……はは、了解」
ぶっきらぼうな台詞に彼女らしさを感じ、笑いが漏れた。そして彼は、何の躊躇もなく足を湖へ踏み入れる。
先程と同様に彼の足が触れた箇所を中心に無色透明へ変化、直後綺麗な波紋が広がる。一歩、一歩と踏み締める度にその数は増えるが、神造遺物の魔力が即座に波紋の逆再生を行い、全てを無に帰す。
消えては元に戻る、それの繰り返しを続け、ヨハンは少しずつ神造遺物へ近付いていく。
(この黒い魔力粒子が悪意を持って害を為す事はないな。その特性上、どうしても人体には悪影響だけれど、それはひとまず置いておくとして。……問題は、何故あれが漏れ出しているか、だ)
ヨハンは湖畔に付き最初に感じた事を思い出す。
第六感的なものだが、この現象には悪意的なものは感じられなかった。リアの言葉や表情を確認する限り、彼女も同じ見解なのは確かだ。
(……と、情報がないのに深く考えてもしょうがないか。やはり、直接調べない事にはわかりそうにない)
そう考えを割り切り歩けば、何時の間にか水晶の目の前に到着した。
思ったより大きいな、とヨハンは感じる。彼の身長は180センチ近い。しかしこれはそれよりもう一回り大きさがある。中にある黒の本、神造遺物が小さく見えるぐらいだ。
とりあえず、とヨハンはその周囲に向け隈なく視線を向ける。細かな事すらも見逃さぬよう、集中力を最大限に引き上げて。
すると、
「……ああ、やはり原因はこれか」
六方柱の最下方。そこから黒の魔力粒子が微量に漏れ出している。
案の定、とアタリを付けた事柄が見事に的中した。したのだが、彼としては的外れである事を願っていた。
流出している、という事は堰き止めなければ問題は解決しない、という事だ。しかし、今の彼にはこれを止める手立てはなかった。
正直な話、お手上げである。
「参ったね、どうも。……これは破壊するしかない、かな」
リアの意向は守れそうにないが、いざという場合は破壊する事を許可されている。
いくら悪意を感じないとはいえど、それは彼等の感覚的なものだ。現実問題、こうして湖に魔力粒子は広がり、悪影響を与えている。
ならば選択肢は他にないだろう。
「仕方ない。リアには後で謝ろう」
余談を許さない状況だ。今は湖のみで収まっているが、これが森林まで広がらないとは限らない。最悪、この周辺を更地に返す事すら考えられる。
そうと決まれば、とヨハンは決意し、掌を水晶へ。
「消失」
本日三度目の詠唱を。
彼の発動する魔法が、水晶の一部分だけを消滅させる。丁度、掌より少しだけ大きい円ほどか。中にある神造遺物に触れるには最適な大きさだ。
慎重に、しかし迅速に。ヨハンはその何方をも両立させ、役目を熟していく。
「よし、後少し……」
そして、そう口に出した――刹那の事だった。
(……けて)
彼の脳内に、声が聞こえた。
耳を通した声音ではない。直接脳内に話しかけるような、そんな感覚だ。空耳か勘違いかと彼は思うも、
(たす、けて。たすけ、て)
その声は途絶える事はなく、明確な形となった。
(どうして、わたしが、つらい、いやだ、やめたい、なんで、わからない、だれか、だれか、だれか、だれか、だれか、だれか、だれか)
音の無い声は、悲痛な程の叫びを幾度と彼の脳内に反響させる。
それは懇願にも似た願いだった。それだけを望み、それだけしか求めない。それ以外は何を捨ててもいい。そんな意志で放った、感情の吐露。
しかし反面。何処かで諦めを感じさせる絶望さを孕んでいて。
(だれか)
そして、
(だれか、わたしを)
次の言葉は、
(わたしを、たすけて)
混じり気のない、想いの一欠片だった。
「――……」
理由はわからない。同情の念を感じたのか、好奇心が煽られたのか、それは定かではない。だが、彼は反射的に己の魔法を解いた。
そして、まるで割れ物を扱うように、繊細で、柔らかな手付きで〝彼女の心〟へと――手を伸ばした。
視界は染める色を変え、
彼を鳥籠の楽園へと誘う。
§§§
――不透明な白、無機質な黒。
対照的な二つの色が一瞬で青年の視界を染め上げた。
次いで体全体に水の膜で覆われるような浮遊感が。体を縛る枷を全て排除し、本来の自由を再現した――そんな言い得ぬ感覚。
現実と微睡の境界線。彼は此処をそのように感じた。
只管白だけが続くこの空間。上も下も左も右も、ありとあらゆるものが存在しない不確定な場所は、不思議と居心地が良かった。
快楽に近い。此処に居るだけで常に悦の波が脳に押し寄せ、絶え間ない幸福を以て体を固定する。そしてそれは、決して逆らえぬ神の寵愛。全てを包み込む女神の抱擁だ。
――だがそれ故に、ヨハンの琴線に触れた。
朧げな意識の中で、一つの言葉を紡ぐ。
直後、空間を形成する表面は剥がれ、完全な世界は崩壊を始める。白の亀裂は新たな一つの世界を。否、本来の空間へと、形を再構成する。
「……ッ」
世界が、一変した。
神秘的――此処はその言葉を体現した場所だった。
瞳を横切る青の粒子。空模様を模った無彩限の壁面。見る者を惹き付ける碧の水面。どの情景を切り取っても感銘を受ける。受けざるを得ない場所だ。
彼は一目見ただけで理解した。此処は己が知る理から外れた、異なる力が働いた空間なのだと。
「此処は……一体。それに僕は、確か……」
ヨハンは未だ世界に酔い痴れながらも、少しずつ記憶の糸を辿る。何故自分が此処に居るか、何故自分が此処に来たか。
「そうだ、あの声。あの声を辿って、此処に来た」
助けて、と何度も告げるあの声の主。彼はその声の糸を手繰り寄せ、此処へと導かれた。
しかし、周囲に視線を見る限り人影らしい姿は確認できない。それどころ人工物すらも全く見えないのだから、八方塞がりだ。
「いるのかな、君は」
未だ正確に現状を把握出来ずにいるも、まだ見ぬ相手を探す為、彼は一歩を踏み出す。
声の主もそうだが、彼方の世界ではいきなりヨハンが姿を消した事になっている。狼狽こそしないだろうが、当然リアも疑問を抱いている筈だ。早急に対処しなければ自分が湖に入ると言い出しかねないと、彼は考え、状況の収束を計る。
幸い歩けない場所ではない。探索する余地はある。あるが、何処に進めば良いか見当が付かない。これだけ広大で、目印になる物も何もないのだ。闇雲に歩き何とかなるような場所には到底思えない。
(さて、どうしようか……。……ん?)
と、そこで。
ヨハンの目の前を、青色の蝶が舞った。鱗粉の変わりに粒子を散らし、宙を自由に飛びながら彼の視界を行ったり来たりしている。
不可解な行動に首を傾げ、リアの魔法に酷似しているな、などと思考するも束の間、ふと、彼はその蝶の規則性に気付いた。
「……もしかして、あっちに何かあるのかい?」
蝶はその言葉に羽ばたく勢いを強め、呼応する。
そして、彼を導くかのように粒子の道を作り始めた。
「行ってみようか。他にあてもない事だしね」
蝶の後を追い、〝アオ〟の世界を進み始める。不確定要素に身を任すなど、普段のヨハンからは考えられない行動だ。
しかし、この蝶に着いて行けば辿り着く――彼はそう感じていた。
――そうして何分、何十分だった頃。
あれだけ勢いよく羽ばたいていた蝶が、動きを止めた。
その場で静止し、一心にある方向に見続けている。ヨハンも足を止めその方向を凝視すると、何やら周囲の粒子が一際集まる場所が見えてきた。
「あそこにいるんだね」
蝶は最後の力と大きく羽ばたき、正解を示す。
そして、ヨハンの手の甲に止まったかと思えばその姿を崩し、周囲の粒子に紛れ込んでしまった。
「ありがとう、案内してくれて。後は頑張るよ」
ヨハンは蝶がいたそこをそっと撫でると、再び歩き始める。
青、蒼、碧。固定化された景色を見つめながら、ヨハンはふと、ある事に気付いた。
先程まで何一つ変わらなかった風景に〝色〟が付き始めている。その色はまだ淡く、小さな灯火でしかない。朧げで、不安定で。吹けばすぐ消えそうな微かなものと言える。だけれど何故か、傍に居れば温まれるような気がする――そんな不思議な〝色〟だった。
ヨハンの口元に薄らと弧が描かれる。それが何故か、理由は彼にもわからない。
しかし、これだけは言える。
「見つけた」
――この出逢いは、必然だ。