第5話「前触れは突然に、兆しは唐突に」
ルスティアには二大観光名所と呼ばれる場所がある。
一つは言わずも知れた黄金の小麦畑。山部と海部の狭間、其処を彩る黄金色の穂は一度見たら網膜に焼き付き離れぬ程の心奪われる情景だ。何度も見よう、と観光客が再度足を運ぶ事も少なくない。
そして、もう一つは山部の中央。緑豊かな森林に囲まれ、一切の都市開発を受けず環境の保存が成されているルスティアの象徴。
ラルシュタット湖。通称、星屑映し。その景観もさることながら、特筆すべきは夜の帳が下りた時の情景だ。数ある湖の中でも一際透明度が高く、夜天に映る星の煌きを鮮明に反射させる。
空と水面、二つのキャンパスが描く満天の輝きは黄金畑同様、絶景という言葉以外では表す事が出来ない。それほどまでに、感動を与える景色なのだ。
「ラルシュタット湖か……僕はまだ見た事がないから、少し楽しみだ」
夜空の下、ガトゴトと揺れる場所の荷台にて。
ヨハンは普段より少しだけ顔に喜色を滲ませ隣の女性に話しかける。
「あんなもの、大したものじゃない。綺麗と言っても所詮は景色、数十秒もすれば目が慣れて飽きるような代物だ。過度な期待はオススメしないな」
しかし隣の女性ことリアの反応は冷ややかなものだった。
興味の無い事にはとことん意識を割かない。ヨハンは彼女らしいと思いつつも、会話が広がらない現状に、苦言を呈す。
「……冷めてるなあ、君は」
「現実を見ていると言ってほしいな。それに、お前が夢見がちな性格なだけだろう?」
とことん感性が合わない二人の会話。こんな中身のないやりとりがあれこそ四時間ほど続いている。
あの後、ヨハンはリアからの依頼を承諾した。
旧知の仲である彼女の頼み事。それに神造遺物という謎の物体。リアとベクトルこそ違えど、彼自身も色々な意味で興味があった。勘的なものだが、強ちこの勘は馬鹿に出来ない、とヨハンは大事にしている。
故に理由は充分。彼は首肯一つで了承を示した。
そして、リアは彼の返答を予想していたのだろう。彼女は予め移動手段を確保していた。
それが現在、彼等が乗るこの馬車である。
小型ではあるが、速度は充分。数ある移動手段の中では最適と言っていい乗り物だ。
リアの家から徒歩でラルシュタット湖に向かうとなれば、短く見積もっても半日は掛かる計算になる。流石にそれは馬鹿らしいと考え、彼女が手配したものであった。
「さて、馬車に揺られ四時間ほど。時間的にはそろそろ着いてもおかしくないな。……おい、御者のお前。あー……名前、なんていったか」
失礼極まりない態度で名を聞くリアに対し、御者は曖昧に苦笑を漏らした。
そしてヨハンはその様子を見て可哀そうだ、と彼の境遇に同情する。
十二回。この四時間でリアが彼に名前を聞いた数だ。流石に数回も聞けば嫌でも記憶する筈なのだが、如何にも彼女の脳は彼の名前を覚える事を拒絶しているらしい。
興味がないのだろう。ヨハンはそう結論づけた。
「アルフレドです。アルフレド・スタックナイト」
十三回目の自己紹介を行うアルフレド。
外見上の歳は十代後半、といったところで、リアの態度にも文句一つ言わない、落ち着いた雰囲気を持つ好青年だ。
彼は今回の件を依頼した人物からの推薦で、二人の送迎を担当している。
「そうだそうだ、アルフレド。それで……だ、アルフレド君。結構時間が経ったみたいだが、到着はまだか? 私、そろそろ暇で寝そうだよ」
「ふふ、暇なのは許容して下さい、と言いたいところなのですが……もう間もなく到着です。あの上り坂を超えると湖が見えてきますよ」
「そう。着いたらまた教えて」
欠伸をしながら素気ない返事をするリアとは裏腹に、ヨハンは御者後ろから身を乗り出し景色を堪能しようと試みる。
近くからの情景も良いが、遠くから見る夜景もまた一興、という考えからだ。
「ヨハン様はリア様とは異なり景色に興味がおありなのですね」
「うん。初めてみるものには好奇心が湧くよ。というよりは人並みの感情があれば見たいと思うのが自然じゃないかな。リアが例外なだけで」
「あ、はは……なるほど」
魔法以外の事柄には無頓着なリアだ。きっと初見でラルシュタット湖を見た時も同じような反応をしたに違いない。
ヨハンとアルフレドは、察した笑いを浮かべ思いを共有させた。
「……あ、そろそろですよ。ヨハン様。畔ほどではありませんが、此処からの景色も中々素敵なんです」
「へぇ、そうなんだ。楽しみだね」
馬車が上り坂を超え、見晴らしの良い場所へ。
直後、ヨハンの視界に映るラルシュタット湖の全貌。見る者全ての目を奪うその情景は、ヨハンですらも例外ではなく。
文字通り目を奪われた彼は、心に一つの感情を抱いた。
「……これが、ラルシュタット湖?」
猜疑心と言う名の、負の感情を。
ラルシュタット湖の水面は、どれほどの距離があってもその透明感を失う事なく、星々を反射させ景色を彩る。
無論、普段なら彼等が居る場所でもその存在感を主張し、星屑映しに恥じない情景を瞳に映し出す筈だ。
しかし、今は真逆と言っていいほどの凄惨さであった。
漆黒。透明感の高い水面はその特質を失い、一切の光を透過しない漆黒に変色していた。濁っている、などと言うレベルの話ではない。これは、微かな光すら許さぬ黒染めだ。
ヨハンは流石に普段のラルシュタット湖とは異なる、という事は理解した。
しかし念の為、とアルフレドの肩を叩き声を掛ける。
「アルフレド。この湖は何時もこうなのかい?」
「ち、違います。何時もはこんな、黒で覆われてはいない……! 前に来た時は何ともなかったのに、な……何が……」
想像通りのアルフレドの反応を見て、ヨハンは微かに眉を顰める。
そして、即座に隣に座るリアに視線を向けた。
彼女は二人の会話を聞いていたのか。既に湖の方角へ視線を向け、意識を集中させている。
「リア」
「ああ、わかってる。……全く。つまらない景色と思っていたが、いつの間にか私好みの湖に変わっていたようだ」
リアは軽い舌打ちをし現状の後手を皮肉げに嘆くと、荷台から降り地面を踏み締める。
次いで、ヨハンがそれに乗じて荷台を降りた。
「アルフレド。送迎は此処まででいい。近くまでと思ったが……どうにもきな臭い雰囲気だ。万が一という事もある、お前は此処で待機をしていろ」
彼女の言葉は珍しく純粋に彼の身を案じたものだった。
しかし、アルフレドは表情に困惑を浮かべながらも勢いよく首を振る。
「い、いえ! じ、自分も近くまで同行致します。そ……それに、その、あの……上からの、命令ですし……」
その一言でリアの瞳に落胆の色が宿る。
アルフレドの言葉は見掛けこそ騎士道を体現した立派なものだが、その実恐怖に支配され裏の感情が垣間見えてしまっている。
しかし、リアはその事に不平を抱いているのではない。誰しも自分の身は大切だ。彼女もその点ではヨハンを同行させているし、同情の念は感じる。
だが、上司の命令だからと理由付けをしたのが頂けなかった。
(自分の命が危うい状況で上司が、か。……人選ミスだな。連れてきていい人材じゃない)
リアは溜息こそつかなったが彼に対する反応は露骨だった。
やはり置いておくのが無難か、と判断すると若干不機嫌な表情をし、口を開く――が、そこで。彼女の心中を察したのだろう、ヨハンがリアを遮るように前に出た。
「アルフレド。無謀と勇敢を吐き違いてはいけないよ」
「ヨハン、様……?」
「まだ正確にはわからないけど、状況はかなり不安定だ。危険だと判断したら僕等も調査を中断して撤退をしなければならないほどにね。……けど、もし君や馬車に何かあった場合、逃避や帰宅の手段がなくなってしまう。それが如何にマズいか、君ならわかるだろう?」
逃走手段が徒歩だけ、というのは悪手だ。一旦戻って体勢を立て直すにしても、此処から半日もあるリアの自宅に戻るには、馬車が必要不可欠である。
それ故の選択。彼が此処に留まる、という事は決して無駄ではない。湖から距離もあるし、状況に応じで場所を避難する事も可能だ。
それに無駄に強い上司への忠誠心がある辺り、二人を見逃す事も考え難いだろう。
「これは役割分担だよ、アルフレド。君には君の出来る仕事を、僕達は僕達に出来る仕事を。お互いやるべき事を成そう」
「は、はい! 了解致しました、ヨハン様! このアルフレド、馬車を守る大命……必ず遂行致します……!」
「うん、お願いするね。此処は任せたよ」
彼は言葉を素直に受け止め、意気揚々と敬礼を。
ヨハンはその様子を見て一度首を縦に振ると、視線を再びリアの方向へ。
「いこう」
「ああ」
そう短くを返事をした刹那。二人は足に力を込め駆け始めた。
一歩、一歩と地面を踏み締める度に、およそ人体では出せぬ速度が彼等から出る。絶え間なく走る事で周囲の草木は騒めき、土埃が吹き荒れるように舞う。
身体強化。体魔力を身体全体に薄い膜として纏い、身体能力の補助を行う第一魔法だ。
魔力操作が実に繊細な為、一般の者は使用する事が出来ない。戦士、騎士、あるいは戦闘に関わる職の者達が訓練してようやく習得する出来る高等技術である。
逆に言えば、これが出来なければ〝戦争〟に赴く事が禁じられている。
「なんだなんだ。あの手の輩はお手の物だな?」
「言い方。……君が顔を顰めていたのは気付いていたしね。それに、彼には悪いけど……あの心構えじゃ何かあった時に対応できるとは思えない。ただでさえ不確定要素を抱えているのに、更に問題を増やす余裕はないよ」
「違いない。アイツは現地に赴いていい器じゃないな。……め、もっとマシな奴を派遣すればいいものの」
依頼主に対しての不満が募っているのか、リアがぶつぶつと愚痴を零す。
ヨハンはその様子に、普段通りの彼女だと安堵の吐息を漏らした。
「さて、少し急ごうか。何時頃からああなったのかもわからない、手遅れになる前に現状を把握したい」
「ああ、了解」
それ以上の言葉は不要だ。後は淡々と目的地にたどり着くのみ。
眼前を遮る木々や草木を掻き分け、彼等は足を止める事なく巧みに森中を駆ける。
障害物と夜という状況ゆえに、見え辛い視界の筈なのだが、二人はまるで影響がないかのように疾走する。
それも身体強化が為せる技ではあるが、彼等の卓越した体捌きによるところが大きい。比較的凹凸の激しい獣道を難なく進めるのは、やはり経験則というものだろう。
――そうして森を駆け五分後。
黒の湖は、その姿を現した。