第2話「緋き蝶は歓迎を」
リィンリィン。
本日三度目のベルの音が、街の一角に響き渡る。
心地良いそれが青年の鼓膜を伝うものの、前回と結果は変わらない。無情にも静寂が続くだけで、彼の目的の人物が顔を出す事はなかった。
最初のベルを鳴らしてから、かれこれ十五分は経つ。普通ならば諦めるところだが、彼の場合は三回目。それもまだめげすに鐘を鳴らそうとしていたのだから、根気があるというものだろう。
「全然出ない……留守、なのかな。でも僕がこの時間に来る事は予めて伝えてあるはずだし……」
青年はこの家の主に手紙で到着時刻を指定し、訪問すると告げてあった。故に、まともな精神を持つ者なら出掛ける、という選択肢は自ずと頭から外れるはずなのだ。
なら、考えられる選択肢は一つ。
「ああ……寝てるな、これ」
時刻はお昼を過ぎ、一の針を過ぎたところ。昼食を摂った者ならお腹が膨れて睡魔に襲われる時間帯でもあるし、別段不思議ではない。
しかし、青年が考えている選択肢は少し違う。寝ている、というカテゴリは同じだが、彼女の場合は夜から未だ起床せず眠り続けている、という事だ。
(リアは朝弱いからなあ……朝というか昼だけど)
旧友の性格を知り尽くしているが故の苦悩。青年は重苦しい溜息を吐くと、再び備え付けのベルを鳴らそうと紐に手を掛ける。
このまま待ち続けても何時彼女が起きるかはわからない。むしろ近い時間に起きる可能性は少なく、悪戯に時間を浪費し続けるのが容易に想像できる。それは得策とはいえない。
そう考えた彼は、強硬策を取る事にした。
リィンリィン。
四度目の鐘を鳴らす。
しかし、扉の向こう側には人の気配は全くない。それどころか物音一つする様子がない。
こうも静寂が続くと、嫌でも不在の線が過る。だが、青年にとってこの程度で起きないのは想定の範囲内でもあった。
(一度でダメなら何度でも、ってやつだ)
彼が取った策はなんのことはない、起きるまで鳴らし続ける事だ。
単純だが確実。これで起きなかったら流石にある程度で見切りをつけて帰宅する。そう算段を立て、青年は五度目の紐を引いた。
リィンリィン、五度目。
「……」
リィンリィン、六度目。
「……」
リィンリィン、七度目。
「……ええと」
リィンリィン、八度目。
「……なんだろう」
リィンリィンリィンリィンリィンリィン。
「流石にそろそろ出てくれないかな……!」
穏和な雰囲気を醸し出す青年も、流石に眉を顰めてヤケクソと言わんばかりに、何度も紐を引っ張り鐘の音を掻き鳴らす。先程までのそれは心地良い音色を響かせていたが、こうも連続して音を重ねると如何にも不快感が増す。有体に言えば煩い。
近所迷惑も良いところだ。痺れを切らした近隣の住民から苦情が来てもおかしくないだろう。
しかし幸運かな。現在、この辺一帯は住民は留守にしていた。買い出しや散歩、果てには旅行と様々な理由で家を後にしていたのだった。
ただし。ある一人を除いては、だが。
十五回目の鐘の音が鳴り響く――その瞬間、家が啼いた。
悲鳴、叫喚、呻き声。そんな音が、青年の耳に届く。勿論こんなものは比喩だ。比喩なのだが、あまりにも的確に今の現象を表していた。
青年はびくり、と肩を震わせ、手を止める。
衝撃の発生源は二階の一室。彼の位置からも見える、白いカーテンに覆われた部屋からだ。しかし、今は何事もなかったかのように静寂を取り戻している。
だが、青年は予期していた。これは嵐の前の静けさだと。
彼は嫌な予感に苛まれながら、部屋へ視線を固定する。
逃げずに立ち尽くした理由はこれといってない。強いて言うなら第六感的なものくらいか。あそこから目を背けたら何かが起きる、という感覚が彼を襲っていた。
そして、それは間違いなく正しい感性であった。
「ん……?」
ふと、青年の視界に動きが。
部屋を遮る薄透明色の窓。先程まで隙間なく閉じられていたはずのそこが、僅かに開いていた。青年の目測からして、およそ十センチ程の小さな隙間。
誰かが開けた様子はなかった。と、そこまで彼が思考した刹那。
「ッ……」
蝶が、現れた。
美しい緋色の輝きを纏い、鱗粉とも言える微量の粒子を舞い散らし空を舞う。そんな行動を繰り返す生物が、彼の目の前に現れたのだ。
そこだけ切り取れば素晴らしい情景だった。白色の家屋を背景に縦横無尽と舞う緋蝶。ここまで美麗な一コマ、中々お目に掛かれるものではない。
青年もそう感じた事だろう。
それが知り合いの物ではなく、赤の他人が作った魔法創作物で、害のない観賞用の蝶であったならば。
「待っ……!」
蝶の出現により全てを察した青年は、驚愕に双眸を見開く。咄嗟に静止を促す言葉を吐こうと試みるが、時既に遅し、であった。
蝶の鱗粉が青年に触れた瞬間、彼を中心に小規模な爆発が起きる。
衝撃で周りの木々が吹き飛ぶ。草々は捲れ、細砂は空高く舞い、石畳は抉れる。今の一撃は、それほどまでに強大なものだった。
この周辺の景色が土埃で不明瞭となる。全体的に朧げで見辛い――そんな状況が数十秒程続いた頃。
文字通りその曇った空気を吹き飛ばすかのように、勢い良く扉が開かれる。
とにかく色々な意味で目立つ女性が、そこにいた。
透明感がある色素の薄い柔肌。吸い込まれそうな翡翠色の瞳。そして、自己主張の強い焔色の髪は、後頭部を蝶柄のゴムで結びアクセントを利かせている。
そして、極め付けはその恰好だろう。上に薄地のシャツを着ているだけで後は下着のみ。非常に煽情的な装いではあるが、眼前の状況を欠伸をしながら見詰める姿に、そんな色気は欠片も存在しなくて。
彼女は乱暴に髪を掻き乱しつつ煙が消えるを待ち、それがある程度晴れたところでようやく半目の瞼を開いた。
そして、そのまま口角を大きく上げると、清々しい笑顔で口を開く。
「誰かと思えばお前か。ああ、久しぶりだな」
彼女が告げる先は勿論、決まっている。
「ヨハン」
あれ程の爆風でも埃一つ付いていない、薄銀髪の青年に対してだ。