序章「-Elu-」
――青い、蒼い、碧い。
淡く錆び付いた記憶は、何時もそんな色から始まった。
視界端々で飛び交う青の粒子。壁面を塗り替えるように蒼い空模様。そして――一人の少女を中心に広がる碧の水面。世界から隔離されたこの空間は、そんな多彩な〝アオ〟に包まれている。
此処には彼女、及び彼女が造り出した物以外は存在しない。虫も木々も動物も、あまつさえ人であっても例外なくその存在を否定されている。
一度踏み入れれば最後、空間に拒絶され、刹那さえ掛からず排他され逝く。そこには何の情緒もなく、何の感慨もない。それは空間に刻まれた只のシステムだ。効率よくこの世界を回し、少女の責務を全うする為に作られた――絶対的な法則。
少女に与えられた命は一つ。〝導〟を〝鍵〟の元へ与える事。
それは大切な責務だ。彼女の代わりは居らず、彼女しか出来ない。その事は少女自身も分かっており、自分が居なければ何かが壊れてしまう、という事も朧げながら把握していた。
しかしそれが何を指し、何が大切なのか、肝心な所を少女は理解していなかった。何故自分が〝導〟を創り、何故〝鍵〟へ与えるのか。何一つ分からず、何一つ教えてもらえない。
ただそれが重大な事柄で、自分は〝その為だけに産み落とされた存在〟なのだということだけは、彼女自身の〝核〟に刻まれていて。
だからそれは、少女にとって酷く虚しい作業であった。
何の為に創るのか、誰の為に創るのか。目的や趣旨を何も知らされぬまま、只管に没頭し続け、課された命を守り続けるだけの人生。
彼女が義務的で機械的な、心のない歯車ならどれだけ良かっただろう。それならば何の疑問を抱かず、責務を成せた。
しかし、少女には心があった。悲しいと、寂しいと、苦しいと。そう感じる事の出来る――確かな心が。
――そうして、ひび割れた心を隠し続けて幾年経っただろうか。
様々な形と意図を含む〝導〟を何度も創り、幾度と〝鍵〟の元へ届け続けた。その数は最早少女にすら把握出来ていない。正確には、千を超えた辺りで数えるのをやめた。
少女は悟ってしまった。このまま精神が摩耗し続け、自分という存在が壊れるまでこの〝作業〟は続くのだと。泣こうが喚こうが自分には作り続ける事しか出来ない。手を止めても少女という存在の〝核〟に刻まれた命がそれを許さず、強制的に身体を動かすのだから、最早諦める以外に何があろうか。
嗚呼、自分は孤独な運命の輪から逃れる事は出来ないのだろう。このまま理解も出来ぬシステムとして、誰の記憶も残らず果てていき、消えていく。それが自分に与えられた結末だ。
少女は一人孤独に涙を流し、そう、思った。
そう、思っていたのだ。
「見つけた」
声が、聞こえるまでは。
少女は咄嗟にその方向へ顔を向ける。居るはずがない。あるはずがない。この空間は彼女を束縛する鳥籠で、彼女を幽閉する牢獄だ。決して他の物は存在出来ないし、来る事もない。だから、これは幻聴だ。肉体の疲労と精神の摩耗が見せる幻聴なのだ。彼女はそう考えた。
しかし、彼は居た。さもそんな法則は関係ないと、飄々とした顔でそこに立っていた。
「君が、助けを求めた声の子……かな?」
端正な顔立ちの、薄銀髪の青年だった。
色濃い真紅の瞳に綺麗に通った鼻筋、そして輪郭を示すほっそりとした顎。全体的に整った造作はどこか大人びた印象を持たせるも、彼自体の雰囲気が柔和な為、何処か幼さも持ち合わせている。
青年は問いを投げ、軽く首を傾げていた。
身に覚えのない言葉を口にする彼に、少女は眉根を下げた。自分自身が分からない己の事を、何故彼が知っているのか。
だが、聞き返せる程彼女は〝人〟という存在に慣れていない。故に彼の顔を気まずそうに見る事が精一杯であった。
わからない、と一言告げれば済むのだが、本来ならあり得るはずのない青年との邂逅は、少女にとっては口を開く事が出来ない程に衝撃的で、想定外の大事であった。
青年はその様子を咎める事なく見詰めていたが、彼女が狼狽の色を見せる事で少なからず状況を把握する。彼は薄く口元を緩めると、少女の隣まで歩き、彼女と同じ目線まで腰を下ろす。
そして、そっとその手を差し出した。
「……自己紹介がまだだったね。僕はヨハン」
この日の事を。この時の情景を。彼女が忘れる事はないだろう。
「君に逢いに来た、変なお兄さんだよ」
錆びて、廃れて、壊れゆく。ただそれだけの人形に、青年は繋がりという名の細い糸を施してくれたのだから。
伽藍洞の心に淡い温もりの灯が燈り、瞳には輝きの満ちた未来への色彩が描かれる。
――この日をもって、少女の運命は流転した。
青年と少女。
出会うはずのなかった二人の物語は、これにより筆を執る。
後に世界の記憶に刻まれる〝エルの軌跡〟を紡ぐ為に。