STORY.7 素直な言葉
歩道の隅っこに自転車を止めた。
堤防を走り続け、緩やかな坂道を上り辿り着いたこの場所。今は青々とした葉で覆われているが植えられているのは桜の木だ。春だったら視界はピンク色に染まるんだろう。
「こっち」
隆太郎は自分の鞄とわたしの鞄、そしてかぼちゃケーキの入った紙袋を手に取るとわたしを先へ促した。
桜の木々をかき分け、ただ前を行く隆太郎を追いかける。当てもなく歩いているのかと思いきや、目的地は決まっているようで、隆太郎は迷うことなく足を進めていた。
「どこ行くの?」
「着いたら分かる」
「えー?」
なにそれ、と頬を膨らませる。すると隆太郎が突然立ち止まり、驚いたわたしは危うく前につんのめりそうになった。
ふと視線を落とすと、そこには木でできた低い柵があった。隆太郎はそれを軽々またぐと、わたしに手を差し出してくる。
「ほら」
少し照れる。
わたしはそれを隠すかのように口元をきゅっと引き締めた。隆太郎の手をそっと取る。
「すぐ地面なくなってるから気を付けろよ」
「え? う、うん」
しっかりと手を握られて、わたしは隆太郎に支えられながらその柵を乗り越えた。無事着地した地面は幅50センチほど。驚いて目を丸くしたわたしは、うひゃーと間抜けた悲鳴を上げた。
「ちょっとここ掴まって待ってて」
「う、うん……」
言われた通りに柵に掴まる。ただでさえ足下が心許ないのに隆太郎まで離れていってしまって少し心細かった。
そして、わたしが前に視線をやったと同時。
突然隆太郎の姿がそこから消えた。
え、と思ったときには下からと着地音が聞こえ、わたしはそこに目を向ける。50センチ先のそのまた下。そこには平ぺったい空き地があった。
ふと、視線をそのまた前方に向けた。今までずっとこの状況に必死で気付いていなかったけれど。
息を呑む。そこには、信じられないくらいの美しい情景が広がっていた。
「う、わ……」
すごい。
夕焼け色に真っ赤に染まる街の向こう。学校の屋上に上っても見えなかった海が、なだらかな曲線を描ききらきらと輝いていた。あの散歩道よりも高いところにあるのだろう。視界には何も邪魔するものはなく、背の高い木も生えていないため本当に視界いっぱいに景色が見渡せる。わたしはただ大きく目を見開いてそれを見つめていた。
「美緒」
下から隆太郎がわたしを呼んだ。こちらを見上げ、隆太郎はわたしに両手を差し出してくる。
「こっち来いよ」
わたしのいる場所と、隆太郎のいる場所の段差は、約1メートルと50センチほど。
わたしは慎重に前へ進むとぎりぎりのところでしゃがみ込んだ。そこに腰掛ける。隆太郎がわたしの背中に腕を回しきて、わたしは隆太郎の首に自分の腕を巻き付けた。
ふわりと心地よい浮遊感を感じた。隆太郎はわたしをしっかりと抱き込んだまま、そっと地面に降ろしてくれた。
「ね、ここ……」
わたしが驚きの交じった声で言葉を発すると、こちらを見た隆太郎は口元に笑みを浮かべた。
「美緒、こーいうとこ好きだろ」
「うん、好き……」
前方に広がる美しい景色を見て、わたしは幸福な気持ちに包まれた。
東側の空はもう少しだけ、暗くなっている。群青色から橙色へ染まるそのグラデーションは、わたしが今まで見たどの夕焼けとも比べることができなかった。
言葉で言い表せないくらい、いや、そういうことをいちいち細やかに言葉にしていったら、この美しい風景の価値が失われてしまう気がした。
きっと、この夕焼けが特別に見えるのはこうやって隆太郎が隣にいるからだ。よく本や漫画で「あなたが隣にいるだけで世界が違って見えるの」、というくだりがあるけれど、本当にその通りだと思う。隆太郎がいるだけで、わたしの世界は眩しいくらいの色で溢れかえるのだ。
ふと隣に視線をやると、隆太郎がわたしのことをじっと見つめていた。わたしと目が合ったことで彼は少し狼狽し、わたしはそのことにちょっと笑ってしまった。
「ここ、隆太郎が見つけたの?」
そう尋ねると隆太郎は小さく頷いた。少し頬が赤く見えるのは気のせいかもしれない。空に広がる赤みを帯びた柔らかな色はわたしと隆太郎をその色に染めていた。
「……美緒、誕生日だろ」
「え?」
疑問を返すわたしに、隆太郎はちょっとぶっきらぼうに言う。
「だから、美緒、誕生日だろ」
「え……」
つまり、は。
隆太郎はわたしのために、ここを見つけてくれたんだろうか。
見ると、隆太郎の頬は絶対さっきより赤い。わたしは嬉しさに笑みをこぼし胸がいっぱいになった。感情の器はもうまんぱんで、わたしは、何も考えずに、いや、考えないからこそその言葉は自然と出たのだと思う。
きゅっと隆太郎に抱き付いた。突然のことに隆太郎は驚いたらしく、その身体はちょっとよろめいた。
「隆太郎、大好き」
今までずっと言えなかった言葉。飲み込んでいた言葉が、気が付けば自然と口から溢れ出ていた。
「大好き」
本当は、そんな言葉じゃ足りないくらいなのだけれど。
わたしの中に『告白』という緊張はまったくなかった。ただ、今溢れかえりそうなくらいにいっぱいな自分の気持ちを素直に伝えただけだった。
「…………」
そして、数秒間の沈黙。
その間わたしはふわふわとした幸福感の中にいて、自分の腕の中にある隆太郎の温もりを心ゆくまで感じていた。そのとき隆太郎がどんな表情をしていたかなんて分からない。胸の奥にあるこのじりじりとした熱い想い、それにすべての感情を預けていた。
隆太郎が突如意識を取り戻したように動いたのは、わたしがそんな幸福感の中をふよふよと漂っているときだった。
がばっと、肩を掴まれ、隆太郎は少し腰を折るようにしてわたしの顔を覗き込んできた。びっくりしたわたしは何度かぱちぱちと瞬きをして隆太郎を見つめ返した。
「今の、ほんと?」
隆太郎の声はいやに真剣だった。
「美緒、俺のこと好きなの?」
こくん、とわたしは頷いた。
「友達、とかじゃなく男として好きなの?」
もう一度こくんと頷いた。
そして、またもや沈黙。
隆太郎を見ると彼は何だかわたしを見たまま呆然としていた。肩に置かれている隆太郎の両手に力がこもる。
「……やべぇ」
何かを堪えるような声でそう一言。
隆太郎はぽつりとその言葉をはいたあと、突然感極まったようにわたしをぎゅっと抱きしめてきた。
「あーやっべぇ! 俺も美緒のことすっげえ好き! うはーもー嬉しすぎて死ぬうぅ」
「りゅ、隆太郎?」
隆太郎が壊れた、と思ったと同時、わたしはぴたりと自分の身を固めてしまった。今、何かとてつもないことを聞いた気がするのだけれど。
えーっと……えー、隆太郎が、わたしを、好き?
「ッ」
ぼっと。その言葉に今さらの反応を示したわたしは顔を真っ赤にした。
よく考えてみれば、わたしは隆太郎に告白したんだ。優花の言っていたことがそのままじゃないにしろ本当になってしまった。自然すぎて自分でも実感がわかなかったのだけれど……
「あああっ、もうっ」
あまりの恥ずかしさにわたしは隆太郎の胸にぎゅっと顔をうずめた。息をするのも苦しいくらいだったけれど今はこれがちょうどいい。誰かわたしの頭を冷やしてほしい。
「美緒?」
隆太郎の声が上から降ってきた。けれど、今さらながらに全身を焦がすこの恥ずかしさに身もだえしていたわたしはそれにいやいやと首を振った。穴があったら入りたい、というのはまさにこのことだ。
「みーお?」
「…………」
「美緒ー? おーい」
ひたすら無言。
そんなわたしの様子を見て、隆太郎は何が面白いのかわざとわたしの顔を覗き込もうとしてくる。ここで思い切り顔をそむけるのも変な気がしてそそくさと目を逸らしていたら、案の定隆太郎に両頬をとらえられてしまった。
「な、もっかい言って?」
「…………」
顔が、近い。
わたしは自分の顔がますます熱くなっていくのを感じながら、目を逸らすこともできず目の前にある隆太郎の顔を見つめた。
もう一回言ってって何をだ、なんて野暮なことは聞かない。けれどわたしは精一杯の抵抗を示すためにぷいと顔を背けた。
「美緒~」
すると隆太郎の声がちょっと不満げになった。
「いーや」
「なんで」
「そんな何回も言うものじゃないでしょ」
さっきのわたしはちょっとおかしかったのだ。そう、感情の器というものがまんぱんになっていてきっと思考回路がどうかしてたのだ。
「さっきは素直だったのに」
「じゃあ、隆太郎は言えるの?」
反対に問い返してやった。隆太郎がそんな恥ずかしいことをすんなり言えるわけがない。
「言える」
けれど、予想に反して、隆太郎は真剣な表情でわたしの問いにそう答えた。真っ直ぐな瞳がわたしを射止める。
「俺は、美緒が好き。世界中の誰よりも、何よりも、お前が大切」
「…………」
絶句。
わたしは目の前にある隆太郎の顔を呆然と見つめた。もう少しで吐息がかかるんじゃないかと思うくらいに近くにある、彼の顔。さらさらな茶色の髪に長いまつげ、いたずらっ子のような瞳。見慣れているはずのそのきれいに整った顔は、わたしの心臓を必要以上に暴れさせた。
「なあ、もっかい言って?」
隆太郎の眉が切なそうにひそめられる。
……風に揺れる茶色の髪も、わたしを見つめる彼のきれいに澄んだ瞳も、どうして、わたしをこんなに惑わせるんだろう。
「隆太郎……」
呼びかけると隆太郎は小さく首を傾げた。胸の奥が熱い。じりじりとした甘い疼きが全身を駆け抜ける。
「隆太郎、大好きだよ」
伝えたい、言葉。
わたしはそれを柔らかな笑顔に乗せた。
隆太郎は少し驚いたように目を丸くする。けれどそのあとすぐに目を細め、嬉しそうに口元を緩めた。
「俺も、美緒が好き。すっげえ好き」
とろけるような甘い笑み。隆太郎はわたしを抱き寄せるとその腕にぎゅっと力を込めた。
隆太郎の胸に顔を寄せる。温かな体温。吐息。わたしを抱く腕も、その声も、すべてが愛しい。
幸せに瞳を閉じた。
大好きな人の体温に包まれる幸せ、わたしを愛しいと言ってくれるそれが、今、わたしにとってのすべてだった。