STORY.4 ゴンちゃんと涙
「みおは特別だからな~」
そう言って、幼い隆太郎が見せてくれたのは画用紙いっぱいに描かれた茶色と白の物体だった。
まったくもって何が描いてあるのか分からない。幼き日のわたしは、嬉しそうにそれを見せる隆太郎の瞳を曇らせないために、必死で目を凝らした。
耳、みたいなものが生えている。うーん、これはもしやしっぽ?
「……犬……?」
自信はないけれど、そう答えたら、隆太郎はぱあっと顔を明るくして、そのあとでれっと口元を緩めた。
「そー、おれの犬。かわいーだろ」
「うんうん」
かわいいとは言い難かったけれど、その絵には隆太郎の愛情がいっぱいつまっているような気がして、そこに描かれているゴンちゃんはすごく輝いて見えたんだ。
隆太郎と仲良くなってからすぐ。
わたしはこの絵を見せてもらい、その帰りにゴンちゃんを見に行った。
当時小学1年生だったわたしにとって、ゴンちゃんはものすごく大きい存在だった。セントバーナード犬。4歳だったゴンちゃんはすでにもう立派な成犬で、わたしの腰くらいの体高があった。でも、怖いなんて思ったことは一度もなかった。ふわふわな毛に垂れた耳、ちょっとおじいさん顔のゴンちゃん。
「おれより2歳年下なんだ。だから、こいつはおれの弟」
ゴンちゃんの頭をぽんぽんとたたき、隆太郎は誇らしげにそう言った。どう見ても、隆太郎よりゴンちゃんの方がしっかりしているように見えたけれど、そこはご愛嬌ということで。わたしはふーんと感心したようにつぶやいた。
ゴンちゃんは散歩に行かなかった。いや、行かなかったというより、ゴンちゃんは一人で散歩に行っていた。リビングにも庭にいないな、と思ったら、ゴンちゃんは外をお散歩中ということだ。
ここ数年でこの町はずいぶん賑やかになった。きっと今だったら、ゴンちゃんを一人で歩かせることなんてできないだろう。一面に広がっていた田んぼは高いビルになったりマンションになり、交通量も増えた。もうのんびりとした田舎とはいえないから、放し飼いは近所の人から苦情がくると思う。それに、よく知らないけれど犬の放し飼いは法律で禁止されているらしいし。
とにかく、ゴンちゃんはすごくいい子な犬だった。人なつっこくて全然番犬にならない、そんなふうに隆太郎がときどき不平を漏らしていたくらいだ。
「ゴン太って昔は人間だったのかもしれない」
なんて変なことも言っていた。
「俺のことすげー分かってんだよな。不思議なくらい」
この言葉は確か、高学年に上がるちょっと前に聞いた言葉。その前日、バスケの大事な試合に遅れそうになったところをゴンちゃんに起こされたらしい。
「きっとゴン太は日本語分かるんだよ。俺が試合のこと話したの覚えてて、起こしにきてくれたんだ」
うーん、そういうことって実際にあるのかな。そう考えたけれど、ゴンちゃんだったらありえるかもしれないとわたしは思った。
ゴンちゃんは不思議な犬だった。ゴンちゃんに話すと気持ちが楽になったり、それが解決したり、隆太郎と喧嘩したときはいつもゴンちゃんがわたしたちの架け橋だった。
だから、すごく悲しかった。
ゴンちゃんが死んでしまったとき、わたしは泣くことしかできず、どうして、どうして、とそればかりを繰り返すだけだった。
行かなきゃよかった。乗らなきゃよかった。レオくんのばか、ばか、と同じことを何度も繰り返していた。
あれはわたしと隆太郎が小5のときのこと。
よく晴れた、日曜日のことだった。
* * *
成瀬家右隣には、また成瀬家がある。隆太郎のお父さん、そのお兄さんの家で、そのまたご両親と一緒に暮らしているのだ。
今はもう家を出て行ってしまっていないのだけれど、そこには以前隆太郎の従兄のお兄さんが住んでいた。
わたしたちより、8歳年上のレオくん。優しくて、物知りで、かっこいいお兄さんだった。
レオくんのお母さんはドイツ人で、だからなのかときどきレオくんの言葉には英語が交じっていた。今思えばどうしてドイツ語じゃなく英語だったんだろう、と疑問に思うのだけれど、よくよく思い出せばレオくんのお母さんも話すときときどき英語を使っていたような気がする。
まあ、今ではもうそんなことはなく、レオくんのお母さんは普通に日本語を話すのだけれど。きっとドイツ語を話さなかったのは話しても全然伝わらないからだと思う。かくゆうわたしも、英語は多少分かってもドイツ語はまったく分からないし。
レオくんはとても優しかった。いつもわたしたちの学校の宿題を見てくれたし、楽しい遊びを教えてくれて、一緒に遊んでくれた。
ゴンちゃんのこともすごく可愛がっていた。それはもう見事な可愛がりぶりで、隆太郎がすねてしまうこともたびたびあった。
この場合、隆太郎はレオくんにもゴンちゃんにも、両方にやきもちを焼いていた。レオくんは隆太郎の憧れで、ゴンちゃんは一番の親友。この2人が仲良くしているとむっすーとそっぽを向いていたものだ。
「俺には美緒がいるからいいもん」
いいもん、って。
わたしはおまけか、なんて思っていたけれど、それはそれで嬉しかったりして。
……悲しい出来事とは本当に突然起こるものだ。
その日、わたしと隆太郎はレオくんに誘われてピクニックに行こうと彼の車に乗り込んだ。
外は晴天。青い空にはひっそりと白い三日月が浮かんでいた。
「ちょっと、やめておいた方がいいんじゃない?」
出発する前にそうレオくんに声を掛けたのは彼のお母さんだった。レオくんは先月車の免許を取ったばかりで、人を乗せるにはまだ早い、そう彼のお母さんは判断したようだった。
「昨日、あんまり寝てなかったみたいだし、今日はやめておいた方がいいんじゃないの? パパも言ってたわよ」
でも、レオくんはその忠告を聞かなかった。
レオくんは大の車好きだったから、免許を取れたことに舞い上がっていたんだと思う。免許を取ったあとのレオくんは、財布からそれを取り出してはにやにや口元を緩めていて、そんな彼をわたしと隆太郎はよくからかっていた。
そして、ことが起きたのは車を発進させて数分も経たないうちだった。
どんっ、と鈍い音がして、車のバンパーに何かあたったような振動がした。
ちょうどカーブを曲がろうとしたときだった。わたしはそのとき、車窓の向こうに大きな茶色いものを見ていた。
「なに、今の」
隆太郎がレオくんにそう声を掛けた。そのときのレオくんの顔は、今にも倒れそうなくらいに真っ青だった。
ゴンちゃんはすぐに動物病院に運ばれた。
手術室のランプがついて、そのあいだわたしは泣くことしかできなかった。
血が、見えた。車を降りて、そこを覗き込んだとき、一瞬だけれど赤いものが見えた。あとから下りてきた隆太郎がわたしの顔を自分のもとに引き寄せて、すぐに視界は暗闇に覆われたけれど、確かにわたしの目にはそれが映った。
隆太郎は始終無言だった。泣いていたわたしはそのとき隆太郎がどんな表情をしていたかは知らない。ただレオくんが涙を堪えるようなしゃがれた声で、ごめん、ごめん、と隆太郎に何度も謝る声だけが聞こえていた。
手術の甲斐むなしく、ゴンちゃんは翌日に息を引き取った。
棺の中のゴンちゃんはただ眠っているようにしか見えなかった。ゴンちゃん、と声をかければ、あの優しそうな瞳をわたしに向けてくれる気がした。
でも、そっと身体に触れてみたら。ゴンちゃんはすごく冷たくて、わたしの心臓はどくんと大きく音を立てた。今までどこかで夢かもしれない、そう思っていた淡い幻想が粉々に打ち砕かれた。
棺の中には、ゴンちゃんが生前大好きだったお菓子やお気に入りのぬいぐるみを入れた。ひとりひとりがゴンちゃんに花を添えて、ゴンちゃんの周りはたくさんの花で溢れかえっていた。
「ゴン太は」
安らかに眠るゴンちゃんを見つめながら、隆太郎はそのとき初めて口を開いた。
彼の、掠れた声に。レオくんの肩がぴくりと震えたのをわたしは視界の端にとらえていた。
「きっと、俺たちを守ってくれたんだよ」
優しく、優しく。隆太郎はゴンちゃんに触れた。もう残ってはいないその温もりを探すかのように彼はその大きな身体をなでた。
「な、ゴン太、そうだろ?」
レオくんの肩が大きく震えた。堪えきれないように嗚咽を漏らし、左手で顔を覆った。
その夜、わたしは家に帰りたくないと両親にだだをこねてそのまま成瀬家に転がり込んだ。ゴンちゃんがいたその場所を、隆太郎の側を離れたくなかった。
夜10時を過ぎて。もう寝なさいと言われたわたしたちはそれぞれ床についた。
全然眠れなかった。わたしの隣にはゆりちゃんが眠っていた。瞼を赤く腫らした彼女は、穏やかな寝息を立てながら夢の中にいた。
そっと、わたしはゆりちゃんの部屋を抜け出した。1階からは明かりが漏れていて、隆太郎の両親がまだ起きていることが分かった。
隆太郎の部屋の前で、わたしは数秒立ち尽くした。ドアノブを音を立てないように握った。体重を軽くかけてドアを押すと、部屋の中は真っ暗だった。
「隆太郎……?」
もう寝てしまったんだろうか。そう考えて、わたしは足音を立てないように部屋の中に滑り込んだ。
ギシッと。後ろから音がした。振り返ろうとする前にわたしは背後からぎゅっと抱きしめられた。
「隆太郎……」
わたしの声に応えるように隆太郎はその腕に力を込めた。そして、小さな声でわたしの耳にささやいた。
美緒の一番好きな場所に連れて行って、と……。
リュックの中にゴンちゃんの写真と骨壺を詰め込んで。わたしたちはこっそり家を抜けだした。
お互いの手をしっかりと握りながら向かう場所はただひとつのところ。忘れ去られたようにひっそりと残っているこの町の散歩道。登り切るとそこからは町全体の景色が見渡せた。
「美緒……平気?」
階段をひとつ上るたびにわたしの足は小さく痛んだ。けれどその日だけは自分の足で登り切りたかった。わたしは隆太郎の手を強く握るだけで、彼に平気、と言葉を返した。
その場所に、夜行ったのは初めてだった。いつも太陽で照らされている町は夜のライトで溢れかえり、わたしはどこか夢の中にいるような気がしていた。
けれど、それは確かに現実で。隆太郎がリュックから取り出したゴンちゃんの写真と骨壺を、わたしは指でそっとなでた。
「ゴンちゃんと、ここに来たことなかったね」
「……うん」
夜の町を見つめながら、隆太郎は小さく頷いた。膝を抱え込むように丸くなって、前方を見据える彼。わたしはその横顔をしばらくの間見つめていた。
隆太郎が、そのとき何を考えていたのかわたしには分からない。
10年近く寄り添ってきたゴンちゃんとの思い出の数々。それを彼は静かに思い返していたのだろうか。
「ゴンちゃん、幸せだったかなあ」
わたしは隆太郎にすり寄ると、こてんとその肩に寄りかかった。喉の奥が熱かった。隆太郎はわたしをちらりと見て、再び視線を戻した。
「当たり前だろ」
「……そうだよね、隆太郎の弟だもんね」
そう言い切る隆太郎に、わたしは少し笑みを零した。
「ゴンちゃん、隆太郎のこと大好きだったもんねえ……」
隆太郎の肩が小さく震えていた。わたしはそっと頭を起こすと隆太郎の顔を覗き込んだ。彼の顔はひどく苦しそうで。何かを堪えているように見えた。
「隆太郎……?」
自分のことでいっぱいいっぱいだったわたしは気付いていなかった。
隆太郎は、ゴンちゃんが死んでから一度も涙を見せていなかった。
「隆太郎……」
彼の髪にそっと触れた。小さい子をあやすように彼の頭を優しくなでた。隆太郎は自分の膝をぎゅっと抱えると、小さく嗚咽を漏らした。
わたしは彼を抱きしめた。抱きしめることしかできなかった。隆太郎の腕がわたしの背中に回ってきて、強く強く抱き寄せられた。
「もっと、ゴン太と一緒にいたかった」
「うん」
「俺の、弟なのに。先に死んじゃうのはおかしいよ」
「うん」
「最後の最後まで、ゴン太は……」
それからさきの言葉は、涙に埋もれて聞き取ることができなかった。わたしも泣いていた。1日中泣いて、泣いて、涙は枯れてしまったと思っていたのに、それはとどまることなく溢れてきた。
隆太郎は優しかった。強くて、優しい人だった。出会ってからずっとわたしを支え続けてくれた人だった。
隆太郎がわたしを守ってくれるように、わたしも隆太郎を守りたい。
彼のように、わたしも強くなりたい。
隆太郎にはずっと、ずっと笑顔でいてほしい。
――わたしが、側にいるよ。
もう、二度と隆太郎がこんな苦しい思いをしないように。
わたしは誓ったんだ。
ゴンちゃん。
あれからずっと、わたしは隆太郎の側にいたよ。やっぱり隆太郎には守ってもらってばかりだったけれど、隆太郎の笑顔だけは、わたし、精一杯守ってたんだよ。
でも、本当は何も分かってなかったのかな。隆太郎が言っていたように、わたし、隆太郎のこと全然分かってなかったの?