夏祭り 《其の一》
1995年 冬
その日はとても寒く、昨夜から降り出した雪が昼になっても止むことはなかった。
テレビのニュースでは大寒波が日本中を覆い寒さは2、3日は続くと各地の映像を交えながらその影響を大きく取り上げていた。
そんな雪の中、お揃いの黒いダウンコートに黄色いニット帽をかぶり、6歳の俺たちは手袋もしないでしっかりと手を繋ぎ家の前に立って震えていた。しかしそれは寒いから震えていたわけではなく、引き離される運命への恐怖からくるものだった。だからこそ凍える手をしっかりと繋ぎ、その体温で互いを感じ合い、決して離さないと心に誓っていた。いつまでも、どこまでも二人は一緒だから……そうやって一生離れずにいると……しかし……
父が兄の手を掴み引っ張る。余りの強さに顔を歪め悲鳴をあげる。しかし俺たちは繋いだ手を離そうとはしなかった。
父はこめかみに血管を浮き上がらせ怒りに顔を赤く染め更に強く引っ張った。
「痛い!」
「あなた!やめてください!」
母が二人の間に割って入ったが、〝うるさい!″ と一喝され突き飛ばされた。
転倒する母……俺は思わず手を離してしまう……その時小さく兄が何か言った…一瞬瞳の端に映ったその顔は怯える仔犬のようだった。
俺は母に駆け寄りチビのくせに起き上がらせようと手を取り引っ張った。そうしながら、当時絵本で見た赤鬼の様な恐ろしい顔をして立っている父を睨んだ。……睨むことが唯一の抵抗だった。
「なんだその目は!……まるで獣みたいな目をして…だからお前は連れて行かないんだ!」
……俺は睨んだ。…睨んで、睨んで……睨むことで父を消し去ることが出来たならどんなにいいだろうと思った。
いつまでも無言で睨む俺を見て、父は気味悪そうな表情をすると舌打ちをし、泣きながら嫌がる兄を引きずるように歩き出した。
「やだよぉ!」
足をバタつかせ抵抗する。
「ダメ!」
俺は腕を伸ばし離してしまった手を繋ごうとしたが、その手は空を掴んだだけで無様に転んでしまった。身体を打った痛みと雪の冷たさに顔が歪む……そうじゃない…………そんな痛みなど大したことではない。手を離してはいけなかったのに、まるで振り払う様に絶ってしまった馬鹿な自分が痛かった。
……それでも追いかけようとしたが、父は車に兄を放り込むみたいに乗せると、激しく降る雪のなか車を発進させた。
追いかける俺……馬鹿な自分を罵りながら必死に走った。
走りゆく車の後部座席の兄が振り返る。
暗く絶望した表情で、特徴的な瞳には怒りを滲ませていた様に見えた。それも降りしきる雪と車のスピードで見えなくなってしまう。
吐く息が白く儚く雪と混ざり合い、瞳の熱いものが景色を歪ませた。
母が泣いている……吹きつける雪が涙で溶けて顔をクシャクシャにしていた。
兄の名前を何度も呟き謝っている。
俺にも……
力なく座り込み涙を流す姿はこのまま凍りついてしまうのではないかと思った。
でも、俺は涙は流さなかった。……こみ上げるものを堪えていた。ただ悔しくて…何も出来ない自分が情けなくて腹を立てていた。
この日…とても大切なものをお互い失った。
兄の人生も、俺の人生も…雪に覆われた街の景色のようにイロを失った。
◆◆◆◆◆
「………………さん?」
「……」
「成沢さん……成沢さん?」
ビシッとスーツを着こなし眼鏡をかけた男が奏多の前に座り覗き込むように声を掛ける。
夢から醒めた様に相手に視線をむけた。
「大丈夫ですか?」
「あ、……ああ」
やっと反応した奏多に男は心配そうに表情を曇らせ一冊の雑誌を置いた。
「お願いしたい仕事があるんですが…」
「……仕事…」
「仕事です。………どうしたんですか?心ここに在らず…って感じですね」
「あ…大丈夫…ちょっと考え事してて」
「考え事……悩みごとですか?」
眼鏡の奥の瞳が興味深そう動いたが、立ち入ってしまったと思ったのか直ぐに頭を下げた。
「すみません…答えなくていいです。でも、何度呼んでも反応がなかったので…ちょっと気になりました」
「はは…なんか夏っていいな…ってね。……冬は嫌いだから……」
「はあ……」
呼ばれても気がつかないほど、そんな事を考えていたのかと男は不思議に思い首を傾げた。
奏多はそんな表情に苦笑いを見せ、紙コップに入った飲みかけのコーヒーを喉に流す。
思いにふけっている間すっかりぬるくなっていたのか、不味そうに顔を顰め、まだ半分以上残っていたが捨ててしまう。
「ああ、仕事の話しね。どんなの?」
「あ、はい。…このブランドの写真お願いしたいのですが…」
「ふうん……初めてだな…俺でいいの?」
「勿論です!」
男は青柳という雑誌編集者で、奏多とは何度か仕事をした間柄だった。今回はブランド側からの指名もあり、編集者本人も奏多のカメラマンとしての才能を認め惚れ込んでいたので依頼に来たのだ。
「でも…このブランドって確か…」
「ああ…いや、そこは気にしないでください。…実は…」
青柳は前のめりになり声のトーンを落とすと、これはオフレコでと念を押し、詳しくは言えないが前回トラブルがあり、その事でブランド側がカメラマンを変更すると言いだし、奏多に白羽の矢が立ったのだと…降ろされたカメラマンも承知しているので気にすることは無いと言ってきた。
降ろされたカメラマンは奏多もよく知っている人物で、プロのカメラマンとして自分よりずっと先輩で売れていた相手なので、全く気にならない訳がなかった。
奏多が神経質そうに眉間にシワを寄せる。それを見た青柳は、前任者に遠慮して断られるのではと心配になり、トラブルの話しをするのではなかっと後悔した。
「駄目ですかね…」
「いや……そうだなぁ……まあ、折角指名してもらったのだから、引き受けさせていただきます」
青柳は強張っていた表情を緩ませホッとしたように頭を下げた。
「宜しくお願いします」
「此方こそよろしくお願いします」
青柳は満面の笑みを浮かべ立ち上がると、詳細は追って連絡すると言い残し休憩室を出て行った。
置いていった雑誌を手にしページをめくる。
季節は夏だが、既に秋冬物のファッションが特集されたていた。
「冬か……」
奏多は再び思いが過去へ飛びそうになったが、雑誌を閉じることでそれを封じた。
◆◆◆◆◆
夏休みに入って久しぶりに会う友人の池田柊子は見事に日焼けしていた。
どうやら沖縄に住む親戚の家に一週間ほど遊びに行っていたらしく、ほぼ毎日マリンスポーツを楽しみ、海の家でバイトしている大学生と知り合いいい感じになったと嬉しそうに語っていた。
「で、これからも付き合うの?」
エアコンが効いたファストフード店の窓際に座りハンバーガーにかぶりつきながら聞いた。
色気なく大口を開けて頬を膨らませながら食べている智花を残念そうに見つめながら柊子は首を横に振った。
「なに…数日だけの彼氏?」
「まぁね……地元の人だし、付き合うって難しいでしょ」
智花はそんな短く付き合った相手を彼氏という括りにしていいのか疑問に思ったが…キス位はしたのだろうか?…と思いなが頷いた。
「……それに別に彼女いるみたいだし…」
智花はハンバーガーを詰まらせ慌てて烏龍茶で流し込んだ。
「はぁ?彼女いる人なの?」
「うん。…ひと夏の思い出…ん?…なんか昔の歌にそんなタイトルのあったよね…親世代の…もっと前かなぁ?…誰が歌っていたんだろ?」
「……誰でもいいし、タイトルもちょっと違うんじゃない?」
「そうだった?」
「それに…ひと夏とは言えないと思うけど」
智花は呆れ顔でフライドポテトを口に放り込み、柊子も苦笑いを浮かべ同じくフライドポテトを口に放り込んだ。
……相手の彼女にバレない事を祈ろう。
「で、智花はどうなの?」
「何が?」
「叔母さんの家」
「ああ…居心地良いよ」
「ふぅん…何か面白い事とかあった?」
「面白い事?」
……不思議な瞳をした成沢樹生が頭に浮かんだ。ついでに弟の不機嫌そうな顔も浮かんで智花は眉をひそめ、一口残っていたハンバーガーを口に入れた。
「怖い顔してる」
「え?」
「何かあったんだぁ」
怖い顔だと言ってニヤニヤと面白がっている柊子に向かって目を細め口をへの字にした。
「別に……」
「じゃあ、なんで怖い顔したのよ」
「……ちょっと」
「ちょっと…何?」
「……近所に変な双子が住んでた。それだけだよ」
「変な双子……何々、面白そう!」
「別に面白くないよ…よく知らないし」
「…でも気になるんでしょ…だからそんな顔するんだよ。どんな人?男?女?…歳は?……まさか赤ちゃんなんて言わないよね」
興味津々で矢継ぎ早に質問してくる柊子に顔を顰めながらも、話してみるのも良いかもしれないと智花は思った。
◆◆◆◆◆
柊子に成沢兄弟との出会い、双子でも性格が正反対で弟の方は兎に角感じが悪い事、兄の方がどうも売れない画家のようで、柚乃が絵のモデルを引き受けていた事などザッと話して聞かせた。
しかし左右瞳の色が違うことは伏せておいた。
樹生の口ぶりだとあまり人に知られたくはないようだったのと、他人の身体的なことを軽々しく話す気にはならなかったからだ。
「穏やかな画家の兄に感じの悪い弟…で双子ね……弟の仕事は?」
「……聞いてない。……普通の会社員って感じはしないな…何してんだろ?」
聞くも何も弟の奏多とはほぼ向こうの一方的な喋りだけで会話という会話はしていないのだから知り得る筈がなかった。
「今度聞いてみてよ」
「ええぇ〜」
「本人にじゃなくとも兄の方とは話しやすいんでしょう。そっちに聞いてみれば?」
どんな流れでどんな顔して聞けばいいのかと智花は首を捻った。
「わかったら教えて…って言うか合わせてよ」
「はあ?」
「ねぇ、その双子カッコイイ?」
「…まあ…そうね。カッコイイと言うより…男なのに美しいって言葉ががあってるかな」
柊子は目を輝かせニヤリとすると、必ず合わせてねと何度も智花に念を押し、そのしつこさにウンザリしながら取り敢えず頷いた。
別れ際柊子はとんでもない事を口にした。智花は兄より弟の方が気になっているようだと…意外と第一印象が悪い相手と如何にか成るかもと…あまりに有り得ない事で智花はポカンとしてその後激しく否定した。
柊子は悪戯っ子みたいな顔を見せると手を振り立ち去って行った。
…………絶対面白がってる。
柊子の後ろ姿が人混みに紛れ見えなくなると、身体の向きを変え歩き出そうとした時人とぶつかった。
いつもならスニーカーや踵の低い靴を履いているのだが、今日に限って5センチ程のヒールのサンダルを履いていたのでバランスが取れず尻もちをついてしまったのだ。
「大丈夫?」
「ごめんなさい……大丈夫です」
打ったお尻の痛みと恥ずかしさで身体が熱くなり、散乱したバックの中身を急いでかき集める。
「はい」
目の前にスマホが差し出された。
「画面は壊れてはいないみたいだけど…」
「あ、ありがとうご…ざい……ま…す……えっ?」
スマホを受け取りぶつかった相手をみて智花は驚いた。こんな場所で会うなんて思いもしない相手だったのだ。
成沢奏多だった。しかし彼の方は智花を憶えていないのか反応がない。自分など記憶に留めておく必要のない相手なんだと多少のショックと、そんなものだろうと諦めみたいな思いで引きつった笑顔を見せた。
スマホをバックにしまい立ち上がろうとしてよろけてしまう。しかし素早く奏多の手が伸びて再び転ぶのを免れ安堵し、よろけた足に目をやるとサンダルのヒールが折れてしまっていた。
「うそぉ…」
智花はサンダルを手にして情けない表情をした。
……まだ、そんなに履いてないのに壊れるなんてついてない。
「……家、どこ?」
「え?」
「送って行く……っても…知らない男の車には乗れないか……ちょっと待ってて」
そう言うと風みたいに人混みをすり抜け姿が見えなくなった。
一人残された智花が呆気にとられ暫く立っていると、紙袋をさげた奏多が戻って来た。そして手にした袋を渡され中身を除くと踵の低い真新しいサンダルが入っていた。
「ヒールが折れたままじゃ歩き難いだろう…それ履いて帰えるといい」
「え、でも……そんな」
「遠慮なく。返されても困るし」
そうするのが当たり前といった表情をし、腕時計に視線を落とすと大きなバックを肩に掛け智花に背を向けた。
「あの…じゃあ、お金」
金など要らないと言うと駐車してあった車に乗り込み走り去った。
……なんで…いい奴?
渡された袋の中を覗き込み戸惑いながらも嬉しくて微笑む……履いてみるとサイズもピッタリで、光沢のあるキャメル色のサンダルを履いた自分の姿をショーウィンドウに映し満足気に頷いてから顔を曇らせる。
……結局、私のこと思い出さなかったよね。
記憶の隅にも無かったことに不満はあったが、それ程やな奴ではないのかも知れないと智花は思った。
柊子の言葉が頭に浮かんだ。
…………ないない…あり得ないから…
ショーウィンドウに映る智花が戒めるみたいに自分を見つめ返していた。
◆◆◆◆◆
成沢奏多とぶつかってサンダルの踵が壊れるハプニングから一週間過ぎた。
兄の樹生には何度か会う機会はあったが本人と顔を合わせることは無かった。
サンダルの件もあり礼を言いたかったのだが、まるで避けるみたいに入れ違いの日々だった。……向こうは避けるもなにもそんな出来事さえ覚えてないかも知れないと思いながら智花はモヤモヤとした気持ちでいた。
「ちーちゃん、早く、早く」
公園の前で柚乃が大きく手を振っている。
智花も大きく振り返した。
今日は、この住宅地一帯の夏祭りの日だ。
町内会が中心となり、焼きそば、お好み焼き、イカ焼き、子供の喜びそうなクジ引きや、ゲーム、綿あめ、かき氷、クレープ等出店している。勿論、大人の飲み物アルコール類も売られていた。
公園の中央にはステージが設けられ、有志による歌やダンス、地元中学生による吹奏楽部の演奏、怖いもの知らずの高校生によるコントには微妙な笑いや観客からの〝頑張れー″ の声などが飛び交い、汗をかきながら最後までやり通して温かい拍手を贈られていた。
智花と柚乃も苦笑いを浮かべながら惜しみない拍手とは違うが周りにつられる様に手をたたいた。
今日の二人はいつもと違う装いで歩く姿もお淑やかに見える。それもそのはずで涼しげな浴衣姿だった。
叔母の麻子が二人に浴衣を用意していたのだ。
黄色地に蝶柄が柚乃、紺色に藤の花柄が智花の浴衣で、これは麻子が昔着ていたもので、折角の夏祭りだからとタンスから引っ張り出してくれたのだ。
浴衣なんて何年ぶりだろうと思いながら、気恥ずかしさとちょっとした高揚を感じながら着付けをしてもらった。
髪の長い柚乃はアップにして赤と黄色の花飾りを付けた。智花は髪が短いので両サイドを軽く後ろで結びバレッタで留める程度にした。
二人の支度が終了すると麻子は仕事に行ってしまう…土曜日だというのに働きに出掛ける後ろ姿に、母親も離婚したらこんな風に働きに出掛ける様になるのだろうな…としんみりとした。父親の居ない生活を望んではいるが、不安と少しの寂しさみたいなものをきっと感じるのかもしれないと智花は思った。
麻子を送り出すとしんみりした感情を追い払い、夏祭りが始まるまでの時間、お互いスマホで写真を撮りまくった。
澄まし顔、変顔…モデルの様なポーズをとりながらスマホの画面に映る柚乃がとても可愛く、キッズモデルでもやればいいのにと思いながらシャッターを押す。其れだけ8歳の柚乃には他の同じ年頃の子とは格段に違うオーラを纏っているのだ。
…………なんで選りに選って売れない画家のモデルなんだろ?
もっと華やかな場所が似合う……柚乃本人も自分の魅力は自覚しているだろうにと、未だに絵のモデルで満足している事に納得がいかないでいた。
パァン!パッパッ…パーン!
花火の音が聞こえてきた。
夏祭り開催の合図だ。
「始まるよ!」
柚乃が飛びついて来た。
玄関には二足の下駄が揃えてあったが、柚乃は指の間が痛くなるからと言って嫌がり白い花飾りのウエッジソールのサンダルを履いてしまった。
歩き難くはないかと思ったが、サッサと履いて外へ飛び出して行ってしまったので、智花は慌てて下駄を履いて後を追った。
外は夏の太陽が地上を蒸しあげるみたいに容赦無く照りつけ、湿度の高い空気はべったりとした汗を誘いそうで、無慈悲な眩しさに智花は手をかざしながら見上げ顔をしかめた。
◆◆◆◆◆
ステージの横を通り過ぎ、思った以上に賑わっている会場に圧倒されながら暫く歩く。
「サンダル歩き難くない?」
柚乃は足元に視線を落として平気だと笑い繋いでた手を離し走って見せた。……と言っても浴衣を着ているので小走りする程度だ。
「おや、柚乃ちゃん」
突然、テントの中から声を掛けられる。
二人は声のする方に顔を向けると、人の良さそうなおじさんがニコニコとしながら手招きをしていた。
「お母さんは?」
「仕事だよ…今日は従姉妹のちーちゃんと一緒」
「ああ…そう言えば姪っ子が暫く滞在するって言ってたね」
智花はぺこりと頭を下げ挨拶をした。
焼きそばをすすめられたが、まだお腹が空いていないと言い、後で買いに来ると丁重に断り笑顔でその場を離れた。
「麻ちゃん、私の事話していたんだ」
「うん。夏休みの間居るからって……あのおじさん…遠藤のおじさんは2軒先のお家で班長さんだから言っておいたみたいだよ」
「へぇ…なんでだろ?」
「わかんない…」
「住人じゃない人間が出入りしていると不審者にでも思われるからかなぁ?」
「ちーちゃんが?…まさかぁ」
柚乃が両手を口に当て肩を小さく震わせながら笑った。それにつられる様に智花も笑い、こんな平和そうな小さな町で何か物騒な事件とか起きるわけがないとこの時まで思っていた。
「ちーちゃん、かき氷が食べたい」
「そうだね…何味がいい?」
「イチゴ!」
二人でかき氷の屋台まで歩いて行くと、この暑さで店は大盛況で行列ができていた。
この炎天下柚乃を長時間立たせて熱中症にでもなったら困ると思い、智花は少し離れた木陰で待つように言うと、急いで行列に並んだ。
◆◆◆◆◆
柚乃が木陰のベンチに一人で座っていると、白地に朝顔柄の浴衣を着た土屋愛理が手を振りながらやって来た。その横に2、3度遊んだ記憶がある隣のクラスの及川美咲も一緒で、赤によく分からない花柄の浴衣を着ていた。
柚乃は二人の姿を通り越し、その後ろに注意深く視線を向けた。
加納凛花の姿が無いのにホッとして同じように二人に手を振り返した。
「柚乃ちゃん一人?」
「ちーちゃんと一緒」
「ちーちゃん?」
「遊びに行った時話したじゃん。従姉妹のお姉ちゃんが来てるって」
愛理は首を傾げ記憶がなさそうなのを見ると、柚乃はまたかと思い軽く溜め息をついた。
愛理は人の話しをニコニコしながら相槌を打つが、これが曲者で聞いているようで全然聞いていない事がよくあった。……もしかしたらすぐ忘れてしまうのかもしれない。
「…そうだった?…ごめん」
申し訳なさそうに謝るが、そこまで大層な話しでもないので柚乃は笑っていいよと言った。
「愛理ちゃんは忘れっぽいからダメね」
高くて鼻にかかった下手くそなバイオリンの音みたいな耳障りな声が二人の後ろから聞こえてきた。
柚乃はあからさまに嫌な顔をした。……加納凛花がいつの間にか女王様気取りで偉そうに立っていのだ。ただ意外な事に浴衣を着ていなかった。
柚乃は目立ちがりやの凛花なら当然派手な浴衣を着るだろうと思っていたが、白いロングワンピースに白いサンダル、大きなツバのある帽子を被って意地の悪い笑顔を浮かべていた。そして柚乃と愛理の間に割って入ってきた。
浴衣着用率が高い夏祭りでは、全身白でコーディネートされた少女は逆に目立つ存在なのに気づき、それを狙ってのこの姿なのだと確信すると、らしいなと思いながら心の中でアカンベーをした。
「…ちょっと…ヤダァ、柚乃ちゃん浴衣なのに下駄じゃなくてサンダルなのぉ…変なの」
柚乃はうんざりとした表情をする。
あら探しをして他人を攻撃…何が楽しいのか柚乃にはよく分からなかった。
「そう?…別に下駄じゃなくてもいいでしょ…このサンダルお気に入りだし」
「でも、絶対変」
しつこいと思いながら、早く智花が来ないかとかき氷屋の行列に目をやった。
…………ああ…まだ少しかかりそうだなぁ。
「浴衣にサンダルなんて馬鹿に見えるよ」
さすがにこの発言に対して鈍感な愛理も顔を曇らせ美咲と気まずそうに視線を絡ませあった。
「そうかなぁ…」
間延びしたような声が聞こえると木の影から樹生がリンゴ飴を舐めながら現れた。反対の手にしていた袋にも大量のリンゴ飴が入っていた。そこからひとつ取り出しニッと笑うと柚乃に手渡した。
樹生は浴衣にサンダル姿の柚乃を上から下まで品定めするみたいに眺めながら頷く。
「……僕は良いと思うけど…馬鹿には見えないよ。…ねぇ」
〝ねぇ″の所で樹生は愛理と美咲に微笑みながら同意を求めた。二人はつられる様に頷くと慌てて凛花の顔を伺い、険しい目で自分達を見ているのにピクリと首を引っ込める。
「…君は……確かこの間柚乃のサンダルを取り上げていた子だよね」
「取り上げてなんかない。……ちょっと…借りただけ…」
「ふぅん…そうだった?」
樹生は腰を折り凛花の顔を覗き込む。
柚乃はあの日の事を思い出した。
貸してくれと凛花にせがまれサンダルを渡したはいいが中々返して貰えず文句を言っていた。
自分のする事に意を唱えられる事が嫌いな凛花は柚乃を怖い顔で睨みつけると、花飾りの所を乱暴に引っ張り遠くへ投げつけたのだった。
其れを拾ってくれたのが樹生だった。
あの日も今みたいに突然姿を現し柚乃を助けたのだった。
「あれ?…君のサンダル…柚乃と似ているね」
その場にいた全員が凛花の足元に視線を集める。
確かによく見てみると白い花飾りが付いていて似ていた…ただ、ウエッジソールではなく踵の低い割りと普通のサンダルだった。
「本当だ…凛花ちゃんのは踵が低いけど」
凛花はその〝低い″と言う言葉に余程面白くなかったのか愛理を睨みつけ、女王様みたいに二人へ顎をしゃくると先頭に立って歩き出し、その後を家来の様について行った。
その三人の後ろ姿をリンゴ飴を舐めながら薄っすらと笑みを浮かべ見送る樹生を、柚乃は不思議そうに見つめ、どうしてこの間も今日もタイミング良く現れるのだろうと首を傾げた。
「行っちゃったね。…怒らせたかな?」
樹生の声は何だか楽しそうだった。
「あの子は柚乃に嫉妬しているんだね」
「嫉妬?」
「分からないか……君が羨ましいんだよ」
「どうして?」
「可愛いから」
「…凛花ちゃんだって…可愛いと思うけど…」
口いっぱいにリンゴ飴を含んでいた樹生は眉を微妙に上下させ柚乃を見てから顔を顰めると、飴の部分だけが無くなったリンゴ飴をつまらなそうに見つめ近くにあったゴミ箱へ捨ててしまった。
「本当にそう思っている?」
樹生は袋の中にあったリンゴ飴をもう一本取り出し聞いた。
「えっ……うん……」
嘘だった。
凛花も可愛い方だとは思うが、何処か〝自分の方が″という自惚れは持っていたが、それを声に出してしまう事は、自尊心が強く他の人を見下した態度をとる凛花と同類になる様な気がして嫌だった。
「そう……」
大きく美しい瞳に見つめられると全てを見透されているみたいで居心地が悪く、落ちつかない胸の内を誤魔化す為に話題を変えた。
「…如何してリンゴの部分食べないの?」
「えっ?…ここ食べる?」
樹生はあり得ないといった表情で手にしていたリンゴ飴を見つめ、それからとても不味いものでも口にしたかの様に唇を歪ませた。
「リンゴ…嫌いなの?」
その問いかけに首を捻ると〝まあ、そうかな″ と言って二本目をペロリと舐めた。
◆◆◆◆◆
中々進まない行列に照りつける太陽を浴びながら智花はボヤいていた。
…………夏祭りなのに何でかき氷屋が一箇所しか無いのよ!
そう心の中で叫びながら、あと何人くらい自分の前にいるのか半歩列から外れ先の方を苦々しく見つめたが、だからといって早く順番が回ってくるわけでは無い事に智花は肩を落とす。
後ろから知った名前が耳に飛び込んできた。其方に視線を向けると、中肉中背のこれと言って特徴のない、大勢の中に居たら確実に紛れてしまう存在感の薄い男に成沢奏多が話しかけていた。
「…今日は見かけてないけど」
「そうですか…」
口元に指を添え考え込む様にしている。智花の視線に気付き目が合うと奏多は訝しげに目を細めた。
「こんにちは…」
「誰?」
やっぱり憶えていない…ここまでくると呆れてしまい智花は笑いたくなった。
「あの…樹生さんに絵を描いてもらっている小泉柚乃の……」
「ああ…」
ピクリと神経質そうに眉を動かし何故か憮然とした表情をされ、弟の方はやはりとっつき難い、いい奴かも知れないと思った事を後悔した。
「…樹生見なかった?」
「見て…ない…です」
その言葉に溜め息を吐くと、使えないガキだといった表情をして話しかけていた男に頭を下げ立ち去った。
「心配だよね」
「え?」
「あ…いや…」
男は言葉を飲み込むみ誤魔化す様に笑顔を見せた。
智花は兄の何が心配なのか不思議だった……小さな子供でもないのに過保護?…其れとも親離れ成らぬ兄離れしていないのだろうかと…そんな言葉が有るの分からないが…
双子の兄弟とはそんなものなのだろうかと、理解し難い表情をして遠ざかる後ろ姿を見送った。
ステージでは中学生の吹奏楽の音合わせが始まり、様々な楽器の音が不協和音の様に響いて智花はなんとなく不安を感じ耳を塞ぎたくなった。