夏休みの始まり
男がヨロヨロと不確かな足どりで、それでも目的の場所に向かって歩いている。大きな袋をズルズルと引きずりながら……
刺すような風が唸り鬱蒼と茂る樹木を大きく揺らしている。
男は立ち止まり身体を丸めやり過ごそうしたが、耐えきれずひっくり返ってしまう。苦しそうに顔を歪め口から血を吐いた。腹部は赤黒く、白いシャツがジワジワとその色に染まっていった。
暫く蹲っていたが傷口を押さえながらようやく立ち上がると、再びヨロつく足どりで歩き出した。
男の目指す場所は一体どこなのか……このまま真っ直ぐ歩いても道などないのだ。
少し先に湖があるだけだ。
雲に隠れていた月が現れ男の顔を照らした。その顔は酷く頬が痩せこけ尖った顎に窪んだ目の奥はドロリと濁った沼のようだった。
男は誰かに助けを求めるわけでもなく、ただひたすら歩く。袋と自分の足を引きずりながら……
水際までやっとの思いで辿り着くと、小さな古い手漕ぎボートがあり、それに倒れるように乗り込みオールを手にして漕ぎ出した。
ボートが進むたび冷たく割れる音が鳴る。
湖に張られた氷が薄くて助かっただろう……でなければ大量出血で朦朧とした意識の状態で、とてもじゃないが湖の中央まで辿り着く事は出来なかっただろう。
男はボートを止めるとオールを捨てロープを取り出し袋の口を縛る。そして袋を船底に二度打ち付けると簡単に穴が開き、そこから湧きでる様に水がボートの中に入り込んできた。
男は次に袋ごと自分の身体に縛りつけた。そして徐々に水位が上がるボートに横になると静かに目を閉じる。
吹いていた風が止み静寂が訪れた。
月が雲に隠れ暗闇に包まれる。
……ただひとつ、星のような小さな光を残して……
◆◆◆◆◆
走った。
今までにないくらいのスピードを出して走った。
途中誰かに咎められたがそんな声は無視した。
巻いていたマフラーが緩み解けて落ちたがどうでも良かった。
心臓の鼓動が爆発しているみたいに身体中に響いている。
…………早く会いたい。
8年かかった。
思いっきり抱きしめるんだ。
◆◆◆◆◆
あの人が僕の前から消えた。
ずっと縛りつけて離そうとしなかったあの人から僕は解放された。
どうしてだろう……嬉しい筈なのに涙が出るのは……
◆◆◆◆◆
2017年 夏
前田智花は夏休みに入ると直ぐに母の妹、小泉麻子の家に厄介になる事に決まっていた。
高校3年で、普通なら夏期講習だ模試だと忙しい時期なのだが、エスカレーター式の女子校でほぼ上の大学に入学が確定していたので、必死になる事もなくノンビリしたものだった。
頑張って受験勉強している同年の学生に恨まれそうだが、彼女は彼女で中学受験で死に物狂いで勉強したのだから少しくらい楽してもバチは当たらないだろうと思っていた。
しかし…ノンビリと言っても丸々夏休みのあいだ麻子の家に厄介になるのには理由があった。
浮気の絶えない父親、前田康介にとうとう堪忍袋が切れた母親、前田聖子は離婚を突きつけたのだ。
それが今年の初めで、それ以来口論が絶えず、離婚届に早くハンを押すように詰め寄っても一向にする様子もなく、自分勝手な言い分を、時には神妙な態度で、時には横柄な態度を見せたりと、話は進まずそれの繰り返しだった。
半年もそんな状態で智花もいい加減決着をつけて欲しかった。母親と考えは一緒で女にダラシない父親など必要ないと思っていたし軽蔑していた。
そしてこの夏の間に離婚を成立させるべく娘の智花を妹のところに預けることにしたのだ。
やはり親の言い争う姿はこれ以上見せたくないと思ったようだ。
「智花…用意出来た?…忘れ物ない?」
「うん、大丈夫」
聖子は濡れてもいない手をエプロンで巻き込むみたいに絡め少し落ち着きがなかった。
「お母さんこそ大丈夫?」
「……ごめんね」
智花を抱き寄せ頭を撫でる。
智花は母親の背中をさすりひと夏の別れを言った。
「麻ちゃんに宜しく言っておいて」
智花は小さく頷くと大きなスーツケースを引きずり玄関を出る。そして家の前に止まっている父親の車へ足を向けた。
…………駅までの短い距離だけど、父さんと2人きりなんて地獄だわ。
やっぱり頑として断ればよかった。
なんでこんな時だけ父親らしい事しようとするんだろう。
ホント勝手な人だ。
智花はトランクを開けてくれるように運転席の父親に合図を送った。
…………重いんだから手伝ってくれてもいいじゃん。
そう呟いてスーツケースを持ち上げトランクルームに押し込めた。
そして助手席には座らず運転席の真後ろに乗り込み、ショルダーバックからスマホを取り出すと、イヤホンをつけ音楽を聴きだした。
会話を避ける為の行動だった。
康介はそんな娘の様子をルームミラーで覗き、眉根を寄せ何も言わずギアを入れて車を発進させた。
◆◆◆◆◆
叔母の小泉麻子の家に着くと、二階の東側に位置する角部屋に案内された。
六畳程の部屋にはシングルベットと小さなテーブルが置いてあるだけで、自宅の部屋と広さは同じくらいだが物が少ないだけ広く感じた。
早速スーツケースから着替えを取り出しクローゼットへしまう。
「あっ!」
ショルダーバックをかき回しスマホを取り出すと、室内を見渡しコンセントの差し込み口を探す。
ベットの脇に見つけ充電し始める。満足そうに頷くともう一度室内を見回した。
南側と東側に窓があり、今日は比較的涼しいからなのか、それとも使っていない部屋で空気を入れ替える為なのか判らないが、窓が両方とも開けてあった。
東側のレースのカーテンが風で揺れると、智花は誘われるように近づき外の景色を眺めた。
ちょうど真下は広い緑道があり南北に続いている。その両脇には桜の木が等間隔に植えられていた。
…………そういえば何年か前、麻ちゃんに花見に誘われ三人で見に来たなぁ…
あの頃はこんな事になるなんて想像もしてなかった。
楽しい思い出と現状のギャップに智花は鼻の頭にシワを寄せ渋い顔をした。
…………やめよう。
私がどうこう考えても二人の関係が修復するわけじゃないし、もう父とは一緒に暮らしたくない……
智花は窓枠に両手をつき深呼吸をした。
…………ん?
緑道の向こう側の家から一人の男が出てきてホース片手に庭へ水撒きを始めた。
…………あれ?…あの家ずっと空き家だったよね…お正月に来た時もまだ誰も住んでなかったと記憶してるけど……ヘェ〜売れたんだ。
「ちーちゃん!終わったぁ?」
突然大声を出して現れたのは麻子の娘、小泉柚乃で智花の腰に抱きついてきた。
くるくるとくせ毛の長い髪に色白の顔、丸い大きな瞳が印象的で西洋人形を思わせる8歳になる少女。
いとこ同士だが何ひとつ似たところがない。
智花は浅黒く切れ長の目に、大食いのくせに栄養は全て縦に伸びることに消費され、18歳になっても身体つきは少年ぽかった。
10歳も離れた従姉妹と比べても仕方ないのだが、どうしてこんなにも違うのかと、女の子らしい柚乃が羨ましく思うこともしばしばあった。
…………お母さんも色白で女性らしい曲線的な身体つきをしてしているのに、娘の私はちっとも似たところがが無い。きっとお父さんの遺伝子の方が強かったんだ。
……最悪。
「ねぇ、ちーちゃん、片付け終わった?」
「……大体終わったかな」
「あのね、ママがケーキを焼いてくれたから一緒に食べよ」
柚乃は智花の返事も聞かず手を取るとぐいぐいと楽しそうに引っ張って行った。
◆◆◆◆◆
成沢樹生は楽しそうに庭の花壇や、よく手入れされている芝生に水を撒いていた。
ダメージデニムにゴムサンダルを履き、白いTシャツの上には汚れたエプロンをして、夏だというのに日焼け一つしていない顔は白く滑らかで、形の良い鼻の下にはやや厚みのある唇が、囁くようなメロディーを奏でていた。
そして大きなアーモンドアイの瞳の色は、右が茶褐色、左が深い緑色をしていた。
左右違う色の神秘的な瞳……その瞳が二階の窓に向かって声をかけた。
「ねぇ、終わった?」
返事を待つが声は返ってこない。
水道の蛇口を閉めると、もう一度声を掛けてみるが、やはり何も反応がなく、樹生は口を尖らし、サンダルを雑に脱ぎすて家の中に入っていった。
◆◆◆◆◆
…………麻ちゃんの作るチーズケーキは絶品だ。
程よい酸味と甘さ口当たりは滑らかで食べると幸せな気分にさせてくれる。
小さい時から遊びに行くたび振る舞ってくれて、これを目当てに会いに行くことも度々だった。それ程最高に美味しいチーズケーキなのだ。
……ずっと思っていた…お店出せばいいのにって……しかしそれは無理な話だった。
麻ちゃんはチーズケーキ以外のスイーツは絶望的に下手くそで、クッキーすらまともに焼けないのだから致命的だ。
……チーズケーキの土台であるクッキー生地は上手に作れるのに、何でだろう?…謎だ。
兎に角まともに出来上がった試しがない。
一度シフォンケーキを食べたことがあったが、全然フワッとしてなくてボソボソとし味も酷かった……思わず「マズイ」と口に出してしまったくらいだ。
決して私の味覚がおかしいわけじゃない。柚乃も母も同じ反応で、それ以来、麻ちゃんはチーズケーキ以外作らなくなった。
だからケーキ皿の上に乗っていたのは絶品チーズケーキで、それを綺麗に胃の中に納めたところだ。
……余裕でもう一切れ食べられそう。
「どうだった?」
「凄〜く美味しかったよ」
「いやねぇ…違うわよ。……お兄さん…お父さんのこと…駅まで車で送ってもらったんでしょう。何か話した?」
「ああ……お父さん。……別に…たいした話してない。迷惑かけないようにって言われたくらいだよ」
「それだけ?……そっか」
麻子はそう言うと口を横に引き小さく頷きながら立ち上がりケーキ皿をキッチンへ持っていった。
智花はその表情を見て、どんな会話を父親とすれば良いのかと思った。言いたいことはたくさんあるが、話したいことは何もなかった。
…………今日は二人とも仕事が休みよね……今頃離婚について話し合っているのかなぁ?
智花には二人が顔をつき合わせて話している姿が想像できなかった。どちらかと言えば、部屋で母親がポツンと一人待っている姿だった。
◆◆◆◆◆
成沢奏多はパソコン作業の途中で寝てしまったのかキーボードに指を置いたまま静かな寝息を立てている。
開けっ放しの窓のカーテンが静かに揺れている。揺れるたび気持ちの良い風が頬をくすぐり、そのこそばゆさで目を覚ました。
トロンとした目で辺りを見回し大きく伸びをし再びパソコンの前にダラっと顔を伏せた。
風でカーテンがフワリと翻り、レールが乾いた音を微かに立てた。
まだ醒めない頭の中に幼い頃のエピソードがフッと浮かび奏多の心の中に落ちた。
1995年 夏
白地につばの部分が水色で
そこへ二本の青い線がはいったキャップを被り、6歳の俺は1人ポツンと砂場の前でしゃがんでいる。
砂場を囲むコンクリートの上に大小様々な車のおもちゃを向きを同じに一列に並べていた。よくそうやって遊んでいた。
その日は涼しい風が流れて、鬱陶しいくらい暑い夏の小休止みたいな午後だった。
しかしそんな日だから外で1人遊んでいたわけじゃない。
家から出されたのだ。よくある事だった。
父が苛つきだしたり、怒鳴り声をあげると、母は決まって俺を自室に引っ込めたり、外へ出した。
幼い俺はそれに従うしかなかった。
もう少し自分が大人だったら…父など殴り飛ばして母を助けてあげられるのに…自分の幼さと何も出来ない非力さが悔しくて早く大人になりたいといつも思っていた。
その日もそうだった。
父は画家だった……思うように描けない苛立ちを全て母のせいにし手を挙げたり、蹴り飛ばしたりした。
俺は怖かったが父を止めに入った。しかし 〝うるさい!″と怒鳴られ平手打ちを喰らい、その勢いで床に強く身体を打ちつけた。母が慌てて助け起こし〝大丈夫だから外に行っていなさい″ と廊下に出された。
俺は玄関を出る時、二階の部屋で寝込んでいる兄の樹生が気になり視線を階段上に向けると、母がまた〝大丈夫だから″ と無理に笑顔を作って言い外に出された。
そして砂場に出しっ放しになっていた車のおもちゃを並べて始めたのだ。
唇を噛んで無心に並べた。
「奏多、ずるい。1人で外で遊んで…」
同じキャップを被った同じ顔をした兄の樹生が、いつのまにか後ろでこっちを睨んでいた。
そして隣にしゃがむと、隙間なく並べられたおもちゃの車を不思議そうに見つめて、ヒョイっとバスを手に取り方向を変えた。
「これだけ向きが違うよ」
「これでいいんだよ」
俺は元に戻した。
樹生は頬を膨らませ不満そうな表情をしたが、それ以上何も言わなかった。
樹生は思った事を口にはするが、相手に受け入れて貰えないとわかると素直に従ってしまう。従順だと言えばそうなのだが、自分の意見や思いを相手に伝えるという作業が苦手だった。
俺はどちらかと言えば、頑固で自分の意見を曲げない少し扱い辛い子供だった様に思う。
双子なのに性格は正反対だった。
「お父さんとお母さん…何してた?…なんか話してた?」
「わかんない……目を覚ましたら奏多いなくて…窓が開いてたから外覗いて、奏多の背中が見えたから、そっと抜け出した」
俺はホッとした。
樹生は繊細ですぐ泣くので父と母の争う姿を見たらとても悲しんで、ますます体調を悪くしそうで心配だったのだ。
突然樹生が俺の頬に手を当ててきた。
父に平手打ちを喰らった所が赤く腫れていたのだ。
どうしたのかと聞かれ俺は何と答えていいのか分からず言葉に詰まると、〝お父さん?″ と聞いてきた。
それでもそうだと言えず黙っていると、優しく頬を手で撫りポロポロと涙を流し始めた。それにつられる様に俺も堪えていた涙が溢れ出した。そして涙でクシャクシャの顔をして、何度も何度も謝るのだ。
「奏多…ごめんね…ごめんね。……気付かなくってごめんね。僕はお兄ちゃんなのに助けてあげられなくて…ごめんね」
乾いた砂の上に俺たちの涙が点となって湿らせていった。
………幼い頃のひとつのエピソード……どんな事があっても、いつまでも一緒だと思っていた。
「あの日の乾いた風みたいだ……」
通り抜ける風に語りかけるみたいに奏多は呟いた。
大きく揺れたカーテンと一緒に外から声が聞こえたような気がして上体を起こす。
ペタペタと階段を上がってくる足音が聞こえてくるが、奏多は過去と現実の間で揺れる夢のような気がして再び目を閉じた。
◆◆◆◆◆
柚乃の大好きな従姉妹、智花が昨日から一緒にひと夏過ごすことになり、どんな楽しい事があるかワクワクしているところに、友達の土屋愛理から電話があり遊びに来ないかと誘われた。
あまり乗り気はしなかったが、結構こういった付き合いを疎かにすると、後で面倒な事になり兼ねないので仕方なく付き合う事にした。柚乃はスマホとお菓子をバックに入れ家を出た。
遊ぶといっても、外で駆け回るような遊びはしない。部屋でゲームをしたり、漫画を読んだり他愛のない話しをするくらいで、格別楽しいわけでもないのだが、大人の世界にある【付き合い】っていうものが少女たちの狭い世界の中ににもあるのだった。
ただ柚乃が乗り気がしなかった理由はもう一つあり、同じく遊びに来ていた加納凛花が好きではなかったのだ。それと言うのも、父親のいない柚乃の事をことさら大袈裟に憐れんでみたり、何故片親だけなのか勝手に想像を膨らませ喋り出すからだった。
会う度にあれこれ言うのでウンザリしていた。
…………嫌な奴。
そんな関係の為か二人だけで遊ぶ事はなかった。
もう一人の友達、愛理が必ず一緒で間を取り持つタイプ……でもなかった…残念なことに…
愛理はおっとりと構えていて、そんな二人の微妙な関係には気付くこともなくニコニコと楽しそうにしている。
いちいち反応され気を遣われるのも面倒なので、いいと思いながら、その鈍感さに呆れてしまう事もある柚乃だった。
大して楽しくもない時間を過ごし愛理の家を出ると、柚乃は大きくため息をついた。
…………今日も凛花ちゃんは嫌な感じだったな。
8歳にして女同士の付き合いに、子供らしい溌剌さが消え疲れた顔をして歩いていた。
「おかえり」
バス停近くの自動販売機の所で声を掛けられ、柚乃は相手に顔を向けた。
汚れたエプロンを袋がわりにして、今にも溢れそうなくらいジュースを買っている変な青年だ。
「夏休みだよね……いいね」
親しげに話しかけてくる青年が誰なのか分からず見つめていると、またお金を入れてジュースのボタンを押す。
一体なん本買うつもりなんだろうと思いながら柚乃は誰なのか記憶を探っていた。
自動販売機からガタンと音がしてジュースを取ろうと青年が腰を屈めた瞬間エプロンから缶ジュースがこぼれ落ちてしまう。慌てて拾おうとして更に缶ジュースを落とす。
青年はバツが悪そうに笑いながら拾い始め柚乃も手伝った。手伝いながら、ここが坂じゃなくて良かったと思っていた。そして、提げていたバックからビニール袋を出して青年に差し出した。
「いいの?」
「うん、使わないから」
青年は嬉しそうに笑うと柚乃に礼を言ってジュースを入れた。
そのまま二人で並んで歩き出したが、まだこの青年が誰なのか考えていた。でも、どうやら家の方向は一緒のようで青年は柚乃の家がどこなのか知っているようだった。
「君は緑道挟んだ向かいの家の子だよね」
「え?」
「はは…会って話した事ないから僕のこと知らないか…」
…………あぁ…あの家の人?
柚乃はやっと思い出した。
確かにこんなに近くで見たことないし、話した事もなかったのでわからなかった。
しかし通学路になっているので、学校の帰り道、車で出て行く所は何度か見かけたことがり、いつも難しそうな顔をしていたので、今、柚乃に向けている優しい笑顔とのギャップで気付かなかったのだ。
柚乃の家の前までくると青年はジュースを2本差し出し、拾ってくれたお礼だと言って持たせてくれた。
「ありがとう。お兄ちゃん名前なんていうの?」
「僕?…成沢樹生。君は?」
「前田柚乃…8歳」
「ははは…僕は28歳だよ。宜しく」
そう言ってお互い手を振り別れた。
柚乃は貰ったジュースを両頬に当て、その冷たさに笑みをこぼし足どり軽く家の中に入っていった。
◆◆◆◆◆
ノックが2回…返事をすると柚乃が機嫌良さそうに入ってきた。
智花は見ていた雑誌を閉じ、どうしたのかと聞くと、仕事から帰って来た麻子が買ってきたサンダルを見せに来たのだった。
白いウエッジソールで甲の部分に白い花飾りが付いている踵の高い物だった。8歳の子供には少し踵が高過ぎるのではないかと智花は感じていたが、履いている姿を見るとスラリと脚の長い柚乃にとても似合い、内心羨ましく思った。
「似合うね。歩き難くはない?」
柚乃はクルリと一回転し 〝全然平気″ と嬉しそうに答えた。
麻子は娘の柚乃だけではなく智花にもサンダルではないが洋服を買ってきてくれた。
白無地のAラインロングTシャツだ。胸元に二段フリルが付いていて、智花は絶対選ばないタイプの服だった。
柚乃が着て見せて欲しいとせがんだが、何となく気恥ずかしく思い〝今度ね″ と笑いながら断った。
柚乃は〝つまんないの″ と言い、少し拗ねたように口を尖らすと東側の窓を開け、すっかり暗くなった外を見つめた。
「……あっ!帰って来た」
「?」
「ちーちゃん、緑道向かいのお兄ちゃん帰って来た」
手招きをするので智花も窓に近づくと、青年が車から出てくる所だった。
「愛理ちゃんの家から帰る途中会ってお話ししたんだよ」
「へぇ〜」
「名前も教えて貰った。成沢樹生っていうんだよ」
「…もしかして、缶ジュースくれたのあの人?」
柚乃は嬉しそうに頷いた。
夕方柚乃が帰ってくると機嫌良さげに缶ジュースを2本手にし、それをテーブルに並べ暫く眺めていた。
智花がどうしたのかと聞くと〝貰った″ とひと言返ってきただけで、てっきり友達から貰ったのかと思っていた。
「そうだったんだ」
どんな人なのかと聞くと、以前見かけた時は印象は良くなかったが、会って話してみると感じが良く優しい声で180度違っていたと嬉しそうに話す柚乃だった。
そんな柚乃を覗き込み、だいぶ歳も違うだろうにどんな会話をしてこんなに気に入ってしまったのだろうと、成沢樹生という青年に智花は少し興味を持った。
「…あの一軒家にひとりで住んでるの?」
「わかんない……でも、あのお兄ちゃんしか見たことないよ」
「そっか…じゃあ独り暮らしかもね」
建物の大きさから少なくとも4LDKはありそうな家。独り暮らしで寂しくはないのだろうかとフッと思ったが、ひとりが必ずしも寂しいとは限らない…それぞれ事情があるだろうし、そんな暮らしが好きな人も世の中にはたくさんいる。
「ちーちゃん、この先に【せせらぎ公園】って言う広い緑地公園があるのね。明日行って見ない?」
柚乃が指差した辺りに視線を向けるが、真っ暗で公園があるのかどうかサッパリ智花にはわからなかったが、行きたいと言うのなら付き合うと答えた。
「あ…でも友達と約束はないの?」
機嫌の良かった表情が一変し顰めっ面になると〝してない″ と強くキッパリとした言い方を柚乃はした。
その様子から智花は友達と喧嘩でもしたのかと少し心配になった。
「…じゃあ、お弁当作ってお昼はその公園で食べようか」
「お弁当!」
柚乃はパッと瞳を輝かせ〝やったぁ!″ と声を上げぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。その姿が可愛くて智花も嬉しくなり、どんなお弁当にしようか考える。
…………凄いお弁当は作れないけどね。
…………明日も晴れるといいな。
見上げた夜空には雲ひとつなく星がきらめいていた。
…………うん、大丈夫そう。
そんな二人の様子を明かりのついてない窓からジッと見つめる目……智花も柚乃も気付かない。
暗がりで光る猫の目のように怪しく開きそして細める不気味な目だ。
◆◆◆◆◆
次の日、【せせらぎ公園】でピクニックをする為お弁当を作った。
おむすび4個、中身は定番のシャケと梅干し、おかずは卵焼きにウインナー、冷凍のバンバーグにチーズを乗せ、ミニトマトにブロッコリー、まあまあ彩り良く出来たと満足する智花だったが、ブロッコリーは嫌いだから入れるなと柚乃が言い出し、何でも食べなければいけないと諭すが、時間になるまで入れる入れないで揉めた。
結局お弁当に入れるのは同意したが、絶対食べないと頑として譲らなかった。
「ああ〜お腹いっぱい」
智花は芝生にひいたレジャーシートの上に仰向けになり伸びをした。
青い空にはゆっくりと形を変えながら流れていく雲が見え、なんとなく心もゆったりとして気持ちが良く、少し瞼が重くなってくる感じがしていた。
…………眠くなってきたなぁ。
柚乃は、シャケのおむすび1個と卵焼き、ウインナーとミニトマトを1個だけ食べただけでお腹いっぱいになり、近所で飼われているゴールデンレトリバーのハナコを見つけ、飼い主と一緒に公園の奥まで行ってしまっていた。
…………もう暫く戻って来ないかな……それまで少し昼寝をしよう。
智花は被ってきた帽子を日焼けしない様に顔に乗せ目を閉じた。
遠くに聞こえる子供の声や、水の流れる音が微かに聞こえとても耳心地よく、智花は深い眠りに堕ちてしまった。
一体どれくらい眠っていたのか、突然乗せていた帽子を取り上げられ、身体を揺すられ目を開けると、柚乃の顔が間近にあった。
「あ……お帰り……」
「ちーちゃん、暑くない?…あのね、入り口の方にかき氷屋さんが来てるの…食べたいなぁ」
「かき氷……いいよ。じゃあ〜買って来るね」
「柚乃が行く。…ちーちゃん寝てていいよ」
そう言うと智花の前に掌を見せた。
ちゃっかりしてるなぁ…とクスリと笑い、自分は要らなからと言ってお金を渡した。
そして、白い涼しげなワンピースにウエッジソールのサンダルを履いた足で軽やかに走って行った。
それを見送ると思いっきり伸びをし、保冷バックから飲みかけのスポーツドリンクを取り出し喉に流し込んだ。
この【せせらぎ公園】は、人口的に造られた小川が随所にあり、智花のいる場所から歩いて5分程の場所には大きな噴水があり、そこでは小さな子供達が水浴びをしながら涼を楽しんでいた。
更にその奥には地形を生かしたフィールドアスレチック場もあり、子供は勿論、大人も楽しめる設備が整っていた。
智花は楽しそうに遊ぶ親子連れを見ながら、幼い頃、両親に連れられ遊園地や公園で遊んだ日を思い出した。
…………父が軽々と自分を肩に乗せ歩き、いつもと違う目線で見る世界に興奮して喜び、それを母が優しい笑顔で見守っていた。
幸せとか、永遠とか、愛とか、それが何なのか…何も分からない小さな私は、ただ親子3人でいられたら、それで満足だった。
……いつから壊れてしまったんだろう。
ボールが転がって来た。5歳くらいの女の子に渡すと〝ありがとう″ と頭を下げて父親の元に戻って行く。
……自分もあの子の様に安心しきった顔をして父と遊んでいたのかと思うと、歪んでしまった関係に心が捻れて痛かった……智花は胸を押さえた。
麻子の家にひと夏過ごす事に決まった時、自分があれこれ考えてどうにか成る問題ではないし、そんな段階はとっくに過ぎていて、智花自身母親と二人の生活の覚悟はできていた。が、しかし……例え1パーセントの確率であっても元へ戻らないかと、心のどこかで思っていた。
軽蔑してるのに……
智花は両手で頭を掻いた。そして体の力を抜くと、ボサボサになった髪を静かに撫でつける。
目の前をかき氷を美味しそうに食べながら歩く少女たちが通り過ぎた。
そういえばかき氷を買えたのだろうか?
すっかり存在を忘れていて、戻って来ない柚乃が心配になり智花は様子を見に行く事にした。
入れ違わない様にキョロキョロと辺りを見回し、少し歩くと柚乃を見つけるが、見知らぬ青年と一緒だったので、智花は誰だろうと首を傾げた。
◆◆◆◆◆
レジャーシートに三人で腰を下ろし、柚乃は買ってきたイチゴのかき氷をシャリシャリ音をたてながら美味しそうに食べている。そしてその様子を樹生がニコニコしながら眺めていた。
柚乃と並んで歩いていたのは、緑道向かいの家の住人で成沢樹生だったのだ。
智花は紹介され簡単に挨拶を済ませると、まだ一緒に居たい柚乃が樹生の手を引きやや強引に座らせたのだ。
「…かき氷屋さん混んでたの?」
「え…うん…ちょっとね」
何となく嘘のような気がして智花は横目で顔を覗き込んだ。
「買ったところで僕が声かけて少し立ち話したから…」
「そう、そう」
かき氷を食べながら首を縦に振るが、やはりどっか嘘をついている。……と言うより、本当の事を話したくないといった感じで、気にはなったが一応納得するふりをした智花だった。
「ごちそうさま。…ねぇ、見て見て」
柚乃はペロリと舌を出し、智花と樹生に赤く染まった舌を見せる。
「赤くなってる?」
樹生はクスクスと笑いながら頷いている。
智花は無邪気に赤くなった舌を出して喜んでいる柚乃を見て、年齢より大人びて見えるが、中身はやはり8歳の子供だと微笑ましく思った。
「僕はそろそろ帰るよ。会えて楽しかった。あっ…柚乃ちゃん、あの事考えておいてね」
「うん」
ちょっとはにかんだ柚乃に、爽やかな笑顔を見せ立ち上がる。が、一瞬フラリとし、額に手を当てた。
「大丈夫ですか?」
「いや……大丈夫。ちょっと陽に当たりすぎたかな……」
顔色が良くなかった。
「お家まで帰れる?」
「…平気……心配してくれてありがとう」
樹生は柚乃の頭に手を当て少し辛そうにしていたが、それでも別れる際には笑顔を見せ帰っていった。
それから二人でたわいのない話をしたが、成沢樹生が気になるのか柚乃は落ち着かなく気もそぞろで、空の様子も怪しくなってきたので帰る事にした。
公園の出口のところで、二人をジッと見つめる少女に気がついた智花は、柚乃に友達かと尋ねると、少し面倒くさそうに頷き声もかけずさっさっと公園を出ていってしまった。
そんなに仲が良い友達でもないのかと思いながら、それでも見かければ手を振るくらいはするのではないかと柚乃の態度に違和感を覚え、いいのかと智花は聞いたが、さっきかき氷屋の前で会って話したから別にいいと、また面倒くさそうな顔をして返してきた。
智花はその時喧嘩でもしたのではないかと感じ、それ以上なにも聞くことはしなかった。
…………まぁ…色々あるよね。
公園から家までは15分程で、緩やかな坂を下りながら二人は無言で歩いた。
更に雲行きが悪くなり、肌に纏わり付くような湿った風が流れてきて、雨が降り出すのも時間の問題だと感じ足どりを早める。
雨がポツリと智花の頬を濡らす。
柚乃に声を掛けるが返事がないので足を止めて振り返ると、成沢樹生の家の前に立ち玄関を見つめていた。
雨が降ってきたから早く帰ろうと言っても動こうとしない。
「柚乃?」
呼んでもピクリともしない……柚乃はふいっと門をくぐり玄関ブザーを鳴らした。
◆◆◆◆◆
男は手にしていた傘を貸しあげれたら……
親しくなるきっかけになるかもしれない……
しかし……そんな勇気など持ち合わせていない事は自分が一番よく知っていた。
通りの陰から見守るだけで精一杯なのだ。
いつまでこうして居なければならないのだろうか……
男の苛立ちは傘にシンクロし先端をコツコツと道路に打ちつけさせた。
◆◆◆◆◆
奏多はガスコンロの火を止め一人用の鍋の蓋を開けた。
白い湯気が立ちのぼり、鍋の中にはお粥が出来上がっていた。それに卵を落とし再び蓋を閉じると、トレーに乗せ茶碗とレンゲを添え二階へ運んだ。
暫くして下りてきた奏多の手には、少し手をつけただけのお粥が茶碗に残っていて、それをそのままキッチンに置くと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し一口飲みため息をついた。
◆◆◆◆◆
「柚乃、サンダルどうしたの?左足の花飾り取れそうになっているじゃない」
仕事から帰って来た麻子がリビングに入るなり柚乃に問いただした。
「知らない」
柚乃は麻子の顔を見ず、ダイニングで目の前のオムライスを頬ばりながら言った。
「知らないって…一体どんな遊びをしてあんな風になるのよ」
「わかんない。……いいでしょ、取れたわけじゃないんだし」
ムスッとして答える柚乃に麻子は顔を顰め智花に視線をやった。
智花は【せせらぎ公園】で遊んだ事を話し、その時に何かに引っ掛けたのかも知れないと言った。
麻子は疑わしそうな表情をして柚乃を見るが、当の本人は関係ないといった様子で、これ以上聞いても無駄だと思ったのか、軽くため息をついた。
「麻ちゃんごめんなさい…私が連れまわし過ぎたかも知れない」
「やだ…いいのよ謝らなくても…仕事に行っている間見てもらって助かっているんだから……柚乃が不注意なのよ」
そう言って麻子が苦笑いするのをチラリと覗き見する柚乃を横目に、智花はもう一度謝り、これからは気をつけると言った。
智花には心当たりがあった。
公園を出る時に出会った少女……やはり二人の間で何かあったのだと……
夕食を食べ終わり片付けも済ませ部屋に入ろうとした時、隣の柚乃の部屋のドアが開いた。
「ちーちゃん、ありがとう」
「うん……で、本当はどうしたの?」
「……」
「帰りに会った友達の誰かと何かあったんでしょ?」
柚乃は今まで見せたことのない鋭い目をしたが、それは一瞬で直ぐにニヤリとした。
「憶えてなーい」
そう言ってドアを閉めてしまった。
…………ふぅ〜ん…否定はしないんだ。
智花は口をすぼめ部屋に入った。
部屋に入るとカーテンが開けっ放しになっていたので締めようと窓に近づく。
なんだか癖になってしまったのか、成沢樹生の家に目がいってしまう。そして、柚乃が玄関ブザーを鳴らした時のことを思い出した。
玄関から顔を出した青年は、具合悪そうには見えず、ただドアの前に立つ二人を訝しげに見つめていた。
「あの…大丈夫?」
突然、柚乃に大丈夫かと聞かれ更に顔を曇らせた。
「君たち…誰?」
「えっ?…さっき公園で話したじゃないですか」
「はあ?」
「あの…成沢樹生さん…ですよね?」
「ああ…樹生の知り合い」
面倒くさそうな顔つきで答える相手に智花と柚乃は顔を見合わせた。
「あいつは寝てる」
「あのぅ……貴方は…」
「俺?……俺は弟…双子」
二人はだから話しが通じなかったと納得した。
それにしてもそっくりだった。
ただ違うのは、兄の樹生は柔らかな雰囲気だが、弟の方は近寄り難い感じだった。
「あのね…公園で具合が悪くなって帰っちゃったから、大丈夫かなって思って来てみたの」
「あっそ…それはどうも……でも、大丈夫だから」
智花は家族が大丈夫だと言うのだから、安心するように柚乃に言い、突然押しかけた事を詫びて帰ろうとした。が、柚乃は動こうとはしなかった。
「もう、いいだろ…帰ってくれ」
迷惑そうな表情をし冷たくドアを閉められてしまう。
柚乃は随分しょんぼりとし、智花は少しだけ腹が立っていた。
兄を心配して訪れた相手に対して冷た過ぎるのではないかと……智花は柚乃の手を取り強く降り出した雨の中家まで走った。
……思い出すとまた腹が立ってきた。
智花は乱暴にカーテンを閉めると、ベットに仰向けになりホゥと息を吐いた。
しかし、柚乃のあの心配しようはなんなのだろうと不思議に思う。
近所といっても話したのは今日で2回目、歳も離れているのに…成沢樹生という人物のどこに惹かれたのだろうか。
話し方も穏やかで優しそうであったが、出会ったばかりでこんな風に心配するだろうか…
智花の頭の中はわからない事だらけだった。頭をクシャクシャと掻いた。
…………そうだ…わからないと言えば……樹生が言った〝あの事″ とはなんだろう。〝考えておいて″…とは……
「…なんだかなぁ」
また、頭をクシャクシャに掻いた。
◆◆◆◆◆
公園での出来事から丸2日智花と柚乃の間で成沢樹生の話しは一切なかった。
午前中はそれぞれ夏休みの課題をこなし、智花の特別美味しいわけでもないが、不味くもない昼食を食べ、午後から柚乃はどこの誰とも告げず遊びに出て行く。
智花は地元ではなので友達に会いに行くにも電車を乗り継がなくてはならず、面倒くさいのかダラダラと家で過ごしていた。
しかし、3日目の午後意外な人物が小泉家に現れた。
智花はベットで雑誌を読んでいていつの間にか寝てしまっていた。その心地いい眠りを玄関のブザー音で邪魔される。
むっくりと起き上がりぼうっとした意識のまま階段を下りていくと、またブザーが鳴る。
うるさいなと思いながら、宅急便か何かだろうかとドアを開けると、立っていたのは成沢樹生の双子の弟だった。
勿論、智花は樹生なのか弟の方なのか見分けなどつかないのだが、兎に角驚いて一瞬で目が覚めた。
馬鹿みたいに口を開けている智花にただひと言〝スマホだって″といってきた。
「スマホ?」
キョトンとする智花に顔を顰めた。
「柚乃って子…何度か君に電話したらしいけど出ないからスマホ取りに行って来いって」
「…えっ?…柚乃?……えっと…なんで?」
「さあ…」
「って、柚乃あなたの家に居るの?」
質問に苛立つのか眉をピクリと神経質そうに動かし、スマホを取ってくるように催促してきた。
智花は訳もわからず探しに引っ込んだが、直ぐには見つからずモタモタしていると、焦ったくなったのか見つかったら持って来いという声が聞こえた。慌てて廊下に出たが、既にドアが閉められ居なかった。
……アレってどっち?…弟の方…かな…名前は……そういえば聞いてないような…それにしても偉そうよね。
あらためて弟の方は感じが悪い奴で、なんであんな言い方されなくてはならないのか釈然とせず腹立たしく思いながら出て行った玄関ドアを見つめた。
◆◆◆◆◆
大きな窓に夏の太陽の陽射しを和らげる薄いカーテンが引かれ、その手前にベットにでもなりそうな大きなグレーのソファーが配置されている。
そこへ白いワンピースに花飾りのついた白いサンダルを履いた柚乃が横たわっていた。目を閉じ、両手を胸の上で組み、まるで魂を抜かれた人間の抜け殻のように静かにそこに存在していた。
少し離れた所でイーゼルに立て掛けたキャンバスに向かって樹生が柔らかな手の動きでデッサンしている。
その横にはテーブルがあり、絵の具、木炭、パレットナイフ、ブラシ等が無造作に置かれてあった。
部屋の隅には今まで描いた大小様々な絵が重ね置きされ、西側の壁には、そのほとんどを占領する程の大きな収納棚が配置されていた。
この部屋だけ時間がゆっくりと流れている別世界のようだ。
その空間を壊すような音が響く。
樹生は手を止める……が、また描き始めた。
また不快な音…
眉をピクリと動かし部屋のドアに視線を向けた。ソファーに横たわっていた柚乃も同じように視線を向ける。
三度目の音が鳴り響く。
「奏多、居ないの?」
樹生は首を傾げた。
◆◆◆◆◆
二度鳴らしても誰も出てくる様子がない……そんな筈はないと思いながらもう一度ブザーを押したが、やはり出てこない。声すら聞こえてこない。
智花は首をひねり、もしかして揶揄われたのかと一瞬思ったが、友達でもない出会って間もない相手がそんな事をするわけがない…躊躇いがちにドアに手を掛け開けてみることにした。
カチリと音をたててすんなりと開いた。
ゆっくりと覗き込み遠慮がちに声をかけてみたが応答がない。今度は大きな声を出してみた。
すると奥のドアから樹生が顔をだした。
「こんにちは、どうぞ入って」
「あ…でも」
「いいから遠慮しないで入って」
智花はやや警戒するように見回し一歩中に入ると玄関に子供らしき靴が一足も無い事に気がつき不信に思った。
……柚乃、来てるんだよね…靴がない。
踏み入れた足を引いて廊下の奥を見つめる。
陽の当たらない細い廊下は薄暗くとても不気味に感じた。
本当に柚乃はここに来ているのか、自分は騙されているのではないかと怖くなった。
疑心暗鬼になった智花はこのまま帰った方が…頭の奥の方で小さく警戒音が鳴っている様にも感じた。
その時、樹生の後ろから柚乃が飛び出して来た。
「ちーちゃん!スマホ持ってきてくれた?」
…………なんだぁ…居るじゃん。
元気に駆け寄ってくる姿を見てホッと安心する。
「あっ!柚乃、ダメじゃん土足で!」
咎められた柚乃は頬を膨らまし、樹生か履いたままで良いと言ったからだと不満そうに言った。
「本当に?」
「うん」
ペタペタと裸足の足音をさせ樹生か奥の部屋からにこやかにやって来た。
「…待たせてしまったね。奏多が居ると思って……ごめんね」
「いえ…」
「あいつ、いつの間にか出掛けてしまったんだな……まぁいいか。さあ、入って」
「はい…あっ、でもスマホ渡す為に来ただけなんで帰ります」
「ええ〜ちーちゃん帰っちゃうのぉ…つまんない。…あのね柚乃、今モデルしているの」
「え?…モデル?」
急にモデルと言われてなんの事かサッパリわからない智花を柚乃は強引に家の中に引っ張り入れた。
奥の部屋に入ると柚乃はソファーに横たわり少し前までしていた同じポーズをとり自慢そうに話して聞かせる。
白いキャンバスが置かれていることから、ようやく智花は絵のモデルなのだと理解し覗いて見ると、そこにはデッサン途中の柚乃らしき少女が描かれてあった。
なんの色も塗られていない下絵の段階だったが、智花は惹かれるように手を伸ばした。
しかし、勝手に触れてはいけない気がして直ぐに引っ込める。
「……画家さん…なんですか?」
「一応ね」
少し痛いように笑う顔を見て、売れない画家なのかもしれないと思った。
しかしいつの間にそんな約束を交わしたか……あの公園での会話を思い出した。……〝考えておいて″ とは、もしかしてこの事だったのかも知れない。
そう考えが辿り着くと、なんとなく心に引っかかっていたものが解消され軽くなるように感じた智花だった。
「でも、なんで柚乃なんですか?」
智花は馬鹿なことを聞いてしまったと後悔した。
柚乃がどんなに魅力的な少女なのか自分がよく分かっていたからだ。
スラリと伸びた手脚、ふっくらとしたピンク色の頬に、厚くも薄くもない、形の良い花びらのを連想させる唇、そして一番の魅力は、まだ8歳だと言うのにどこか色気を感じさせる瞳……誰もがその姿に目を奪われる。
返ってくる言葉は分かりきっていた。
「……なんか……外見とは別の何かを感じたから…かな」
「!」
予想していた言葉と異なり智花は驚いた。
「…何かって」
「それは…絵が仕上がってからのお楽しみ」
樹生は妖しく微笑んだ……怖いくらい美しい顔で……
会うのはこれで二度目だが、あらためて見ると男のくせに【美しい】と言う言葉がピッタリはまるほど完璧な顔をしていた。
柚乃と並んで立っているとそれだけで一枚の美しい絵のようだった。
……世の中にこんな奇跡の様な二人が私の前にいるなんて不思議……同じ空間に存在してるとは思えない。
智花は完全に見とれてしまっていた。
「…丁度いいから少し休憩しよう」
その言葉で柚乃は飛び跳ねるみたいに抱きつき嬉しそうに見上げ、樹生は愛おしそうに頭を撫でながら微笑んだ。
そして二人に誘われるまま部屋を出て居間へ移動した。
居間には、猫足のアンティークなテーブルが置かれ、一人がけのソファーと三人がけのソファー、壁一面収納棚になっていて、本やガラス細工、写真が飾られてあり、ぽっかり空いた真ん中には本来テレビを置く為のスペースなのだろうが、そこには肝心なテレビはなかった。
「奏多が居ないからこんな物しか出せなくて…どこかにお菓子もあったと思うんだけど…わからなくて」
トレーに麦茶を入れたグラスを乗せ、申し訳なさそうにしながらテーブルに置いた。
「ありがとうございます。……あの、奏多さんって双子の……」
「そう、弟だよ」
一人がけのソファーに腰をおろした樹生はとても嬉しそうに答えた。
「樹生はね、弟のこと凄く自慢するだよ」
…………呼び捨て?!
智花は20歳も離れている相手に対して呼び捨てする柚乃に面食らいそして眉を寄せた。
その表情で察したのか、樹生は自分が呼び捨てしていいと言った事をにこやかな顔で話す。
智花は、この成沢樹生という売れない画家?…は始終笑顔だと思った。きっと穏やかで幸せな家庭に育ったのだろう…と同時に、弟は顔だけはそっくりだけど、人を寄せつけない冷ややかさを感じる。
「ねぇ、ちーちゃん」
「えっ、何?」
「ちーちゃんも描いてもらったら?」
「描いてって…絵?」
興味深そうに柚乃が覗き込んでいる。
智花は恥ずかしくなって顔を赤らめ大袈裟に手を振り断った。
「無理、無理…モデルなんて」
「…そんな事ないよ。……無理強いはしないけど」
あっさりと引いてくれた事にホッとしながらも、強く頼まれたらもしかしたら引き受けたかもしれないと、残念に思う自分がいて更に顔を赤らめ顔を伏せた。
…………何考えてんのよ!社交辞令に決まってるじゃん。
樹生のクスクスと笑う声が聞こえた。
智花は覗き見るみたいに視線を上げ、口元に軽く手を当て笑う顔を見た。
「!」
なんで今まで気がつかなかったのか……左右の瞳の色が違うのだ。
右が茶褐色、左が…深い緑色をしていた。
見たことのない不思議な…左右色の違う瞳…
智花は不躾なほど魅入ってしまっていた。
「あれ…もしかして気がついた?…これオッドアイって言われてて、日本人はかなり珍しい瞳なんだ」
「オッドアイ…」
初めて耳にする言葉に智花は首を傾げた。
「あの……ちゃんと見えているんですか?」
「勿論」
「柚乃も初めて気がついた時びっくりしちゃった。でも、綺麗な瞳だよね……えーとねぇ……先…先天…性の…えっと…こう、こうさ……」
「先天性虹彩異色症ね」
「そう!それなんだって」
柚乃はまた綺麗な瞳だと褒め、うっとりと樹生を見つめた。
樹生は少し照れ笑いをしながら詳しく話して聞かせる。
先天性虹彩異色症…オッドアイは単純な遺伝によるもので、瞳の色は眼球の中にある【虹彩】と呼ばれる部分に含まれるメラニン色素によって決まり、その色素が多い順に瞳の色は黒から茶、緑、青と変化する。しかし、極々稀に正常な遺伝の範囲で片方の眼球だけメラニン色素の量が減少する場合があり、その為瞳の色が変わり、異常のなかった方と違う色で生まれる事がある。
他に、事故で直接目を怪我した場合、その後の治療によって色が変わる後天性の人もいると説明した。
「僕の場合は先天性…生まれつきなんだ。…外に出るときは、カラーコンタクトしているんだ。でも、家では外しているから……やっぱり気づかれてしまったね」
「そんなに珍しくて綺麗な目してたら柚乃なら自慢して歩くけどなぁ」
樹生は優しく柚乃の頭を撫でる。
穏やかな…しかし、その深い緑色の瞳に一瞬だけ悲しみが映しだされた。
単純に目立つのが嫌だからなのか、それとも過去にその色の違いで辛い思いをした経験があるのかわからないが、いずれにしても、更に興味が湧いてくるのを智花は感じていた。