第8話
「じゃあ、行ってきます!」
「気を付けてな」
慌てて靴を履いた風凪は、飛び出すように玄関を出る。
時間は、普段の時間を大幅に過ぎている。ついつい話に夢中になってしまったのだ。翔が気付いてくれなかったら、そのまま遅刻していたかもしれない。
「間に合うかなぁ……」
始業には間に合う。だが、問題はその前。友人との待ち合わせにあった。
連絡しようかとも思ったが、急げば五分で着く。それに、どうせ友人は電車内で電話には出られないとやめた。焦る風凪には、メッセージという発想が出てこなかった。
駅へと続く坂道を小走りで駆け下りると、ちょうど踏切を電車が走り抜けていく所だった。友人が乗っていたのは、あの電車だろう。
「──お、ふーふー。どしたの? 遅れるなんて珍しいじゃん。てか初めて?」
駅から出てきた友人とほぼ同時に待ち合わせ場所に到着した風凪は、息を整えながら微妙な笑顔。
「……ま、何となく分かるけどね。ど〜せお兄さん絡みでしょ?」
何も言っていないのに一瞬で看破された。そんなに分かりやすいのかと少しだけ落ち込む。
「でもやっぱふーふーだよね〜」
楽しそうに話す友人に、風凪は首を傾げる。
「学校には遅刻しないのに、待ち合わせに遅れないようにってそんなに急いで来るんだもん。普通そこまでしないよ?」
そういうものなのか。
「そういう所、ふーふー真面目だよ。自信持っていいと思うよ」
「…………」
風凪は、人間関係が翔しかいなかった。中学まではルックス、成績、性格が合わさって距離を取られていたのだ。翔は多くを語らない故に、風凪が気付かない事も多い。
「行かないの? あんまりのんびりしてると、ホントに遅刻しちゃうよ?」
改めて、風凪はこの友人の存在に感謝した。
「──で、ちょっと遅れたお詫びとして、数学の宿題手伝ってくれない?」
「もう……手伝うだけだよ? 答えは教えないからね」
「え〜ケチ。数学苦手なんだもん」
「一年生は必修なんだから、頑張らないと」
「……やっぱり真面目だよねー」
風凪を見送った俺は、すぐにパソコンを立ち上げた。昨日は色々あって殆ど進んでないからな。昨日の遅れを取り戻さないと。そうしないと、風凪との約束も、遅くなる一方だからな。
本当は録画した昨晩放送のアニメを見たかったのだが、ここは我慢だ。夕食の時にでも、風凪と一緒に見よう。
カタカタとタイピングしながら、ふと今朝の慌てる風凪の姿を思い出した。遅刻はしなかっただろうか。「待ち合わせに遅れる」と言っていたから、多分学校には間に合う時間だったのだろう。だが、もし風凪が遅刻するような事があれば、それは小学校から続く皆勤賞の記録が途絶えるという事だ。
その原因を作ったのは、突き詰めれば睡眠時間の管理を怠った俺のせいだ。
「考えるだけ無駄……か」
そのくらい分かっている。それが中々難しいんだがな。
俺はカフェインで無理矢理切り替えようと、キッチンへコーヒーを淹れに行く。
「ん……?」
すると、台に置かれた布の包みが目に留まった。
「これ……風凪の弁当箱だな。持っていくの忘れたのか?」
念の為冷蔵庫を確認するが、俺の昼食はちゃんとある。弁当箱ではなく、皿に盛られて。
確か、売店は無いが毎日専属のパン屋の購買があるとは言っていた。弁当を忘れたからといって昼抜きにはならない。とは思う。が、
「……絶対、帰ってきたらこれ食べるとか言うよな」
風凪の性格だ。腐ってない限り、勿体無くて“捨てる”なんてしないだろう。その上で、俺にはちゃんとした料理を作るはずだ。出来立てのご飯の前で、食べ損ねた弁当を食べられる。
……気まずいったらありゃしない。
俺は、窓から差し込む日差しに目を向ける。今日は、夏日になるらしい。
「まあ、たまには少しくらい運動しないとな」
「──でさ〜、そのセンパイが面白くて!」
移動教室の最中、風凪は友人からバイト先の話を聞かされていた。その嬉々とした口調に、風凪はふと訊いてみる。
「バイトって、やっぱり楽しい?」
「時と場合によるんじゃない?」
全肯定かと思いきや、意外と冷静な返事だった。
「アタシは楽しいよ。高校生になったら絶対やりたかった事だし、自分から決めた事だからね〜」
それに、ちゃんと楽しそうなの選んだし! と友人は付け加える。
「お、もしかして興味ある? まだ募集してたし、ふーふーほどの能力があれば即採用間違いなし! 紹介しよっか?」
「うーんでも、やっぱり家事とかあるし……」
その返答は予想していたのか、友人はだよねー、と追及はしない。
だが、話は終わらなかった。
「ちょっと気になったんだけど、ふーふーがやりたい事って何?」
「え……?」
「“やらなきゃいけない事”じゃなくて、“やりたい事”。ふーふーと知り合って一ヶ月経つけど、未だにふーふーの本音を聞いた事ない気がするんだよねー」
「でも、お兄ちゃんが……」
「うん、ふーふーがブラコンなのは分かってるんだけどさ、お兄さんだってある程度家事できるんでしょ? ふーふーが全部やる必要はないじゃん」
「それは……」
「ふーふーがそういう性格だってのは分かってるよ。でもさ、お兄さんを言い訳に本音隠しちゃってない?」
「…………⁉︎」
心臓を貫かれたようだった。それほどまでに、風凪にとって衝撃的な言葉。
「せっかくの高校生活だよ? ふーふーは自分を殺しすぎだと思うけどな〜」
自分にとっての第一優先は、兄である翔。ずっとそう思って過ごしてきた。だがそれは、自分で考える事をしない言い訳だったのではないか。
「私の、したい事……」
「ふーふーの考えと生き方は立派だと思うよ。ぶっちゃけ高校生とは思えないくらいにさ。でも、もう少し自分に正直になってもいいんじゃない?」
友人の言葉に、そこまで深い意味は無いのだろう。軽い提案のつもり。だが風凪の心には、とてつもない衝撃を与えた。
『──宮古風凪さん、至急事務室へ来て下さい。繰り返します。宮古風凪さん、至急事務室へ来て下さい』
唐突にかかる、校内放送。
「ありゃ、ふーふー呼び出しされてるよ。でも何で事務室? 職員室じゃなくて?」
その理由は風凪にも分からない。
「とりあえず行ってきなよ」
「う、うん……」
歩き出した風凪へ、
「あ、ふーふー。最後に一つ」
友人が声をかける。
「何でもかんでも悩みすぎるのは、ふーふーの悪い癖だからね! もっと気楽に、ね!」
「……うん」
本当、この友人は鋭い。風凪以上に、自分を理解しているかもしれない。
「……やりたい事、か……」