第6話
次の日、風凪はいつもと同じ時間に起き、いつもと同じように二人分の朝食と弁当を用意する。
それから翔を起こしに向かう。一応ドアをノックし、反応が無い事を確認。部屋に入る。案の定、翔はベッドで寝息を立てていた。
実は昨日(日付は変わっていたが)、翔が寝た時間を風凪は知っている。夜中に喉が渇いて起きた時、翔の部屋の電気が消えるのを見たのだ。もう三時近かった。
基本的にはその時間は寝ている風凪に、翔の普段の就寝時間は分からない。だが、もし毎日あの時間まで執筆しているなら、こうして朝起こすのも躊躇われる。僅かな寝不足も、積み重なればそれは重くのしかかってくるのだ。
「…………」
風凪は一分ほどその場で逡巡し、
「お兄ちゃん、朝だよ」
気持ち良さそうに寝息を立てる布団を優しく叩いた。
「ん、あー……朝か……」
もうすぐ書き終わる原稿、その直前の追い込みだと勝手に判断。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
「ファ〜ア……何か言ったか?」
「え? う、ううん、何でも」
「そっか。おはよう、風凪」
「おはようお兄ちゃん」
玄関で翔に手を振り、風凪は坂を下り駅へ向かう。そこで友人と合流し、学校へ。
「最初の授業って何だっけ?」
「時間割あるんだから、確認しようよ……」
「いやー、ふーふーいれば困らないし」
「もう……。一限目は体育だよ。体力測定」
「うげー。いきなり体育かー」
嫌そうな声を出した友人に、
「嫌いなの?」
「嫌いってワケじゃないけど、体力測定は面倒だなー、って。早くバスケとかがしたい!」
「でも、自分の身体能力を把握するのは大切な事だよ?」
当たり前のように言い放った風凪を、友人は珍獣を見るような目で見つめる。それから、
「素でそう思えるふーふーは、やっぱり真面目だよ」
笑顔でそう言った。
今朝の風凪の様子が、少し変だった。
真面目で優しい風凪は、どこまでも隠し事が下手だ。それに、風凪の場合は殆どが相手を想いやっての隠し事。だからこそ、聞きづらい。
「……俺も、口下手だからな」
“さり気なく”聞き出せる自信は無い。
風凪が悩んでいるなら力になりたいが、それを風凪に見透かされては逆に気を遣われてしまう。
俺も風凪も、それなりに面倒な性格をしているからな。人の感情に敏感なのに、それを理解するスキルまでは持ち合わせていない。俺の場合は、単に訊く勇気が無いだけだが。
人とあまり関わってこなかった事が、多大に影響しているな。
俺は苦笑して、食べ終わった食器をシンクに持っていく。手早く洗って、乾燥カゴへ並べる。
「……さーて、仕事するか」
もう少しで終わるのだ。一日でも早く仕上げて、できる限り風凪との約束を早めたい。
風凪の悩みは(実際にあるかどうかも)分からないが、楽しい事で払拭できればそれが一番だろう。
俺はパソコンの前に座ると、電源ボタンに手をかける。
「…………」
流石に眠すぎるから、先に仮眠かな。
風凪が家を出るのは八時頃だが、最近は午前三時前後の就寝が続いている。ロングスリーパーというほどではないが、極端なショートスリーパーでもない。寝不足で倒れたりしたら、仕事が遅れる上に風凪にどれほど心配と迷惑をかけるか分からない。それは、何よりも避けねばならない事だ。
俺はベッドに倒れ込むと、ズブズブと沈んでいく感覚に任せて目を閉じた。
体育の授業は、体力測定。
性格から誤解されがちだが、風凪は体を動かす事は決して嫌いではないし、運動神経も悪くない。風凪が運動部に負けじと好記録を出すたび、周囲からは驚きの声が上がる。
「へ〜……。ふーふーって、運動得意だったんだね……」
「う、うん」
本気で驚いている様子の友人を見て、風凪は少しだけ嬉しい感情が湧いてくる。
根暗な性格だと自負している風凪が運動ができる事は、やはり周囲にとっても意外らしい。中学の時も同じだったが、この時だけは、風凪は優越感に浸れる。疑いようのない、純粋な驚きと羨望の視線。風凪が翔に抱くそれと、全く同じものなのだ。ほんの少しだけでも、尊敬する兄に近付けた。そんな考えが、珍しく風凪を笑顔にしていた。
「成績優秀で、運動もできて、優しさを具現化したような性格で、ルックスもいいとか……ふーふーって完璧美少女だよねぇ」
「や、やめてよ……」
軽い口調から冗談だとは思うが、ここまでベタ褒めされると風凪の自信は一瞬で吹き飛んでしまう。偶然生まれつき持っていたものに頼っているだけで、翔の文章力のように積み上げたものではない。実際、球技など特別に技術が必要な運動はあまり得意ではないし運動部には当然敵わない。
生まれ持ったものではなく、努力を詰め重ねた力こそ本物の“才能”だと、風凪は思っている。驕らず、諦めず、人の目に留まらず。結果が身を結ばない事だってあるのに、成功を目指してひた走る。風凪は、そんな大人になりたいと思っていた。
「ふーふーはなれるよ。アタシが保証する」
授業が終わり、駅前で買い物を終えた風凪は自宅のドアを開ける。
「……?」
感じる、違和感。
静かだ。いつも聞こえてくる、テレビの音が無い。翔の靴はあるので、外出している訳ではないようだ。
執筆に集中しすぎて、時間を忘れているのだろうか。風凪は翔の部屋のドアをノックしてみる。
「お兄ちゃん?」
反応なし。
「いるの? 開けるよ?」
許可なしに開けても怒る翔ではないが、恐る恐るドアを開ける風凪。
「お兄ちゃん……⁉︎」
ビニール袋が床に落ち、中の食材が重い音を立てた。
身体を激しく揺さぶられて、俺は目が覚めた。
「う…………?」
「お兄ちゃん! お兄ちゃんっ、ねえ、お兄ちゃんっ!」
耳元の大声で、すぐに風凪だと分かった。
……って風凪?
「はっ! 今何時だ⁉︎」
一瞬で覚醒した俺は、ガバッと壁の時計へ目をやる。
午後四時半。
……なんて事だ。軽く仮眠を取るつもりが、日中丸々寝てしまったのか。
「……そんなに、疲れ溜まってるとは思わなかったんだがな……」
自分の認識の甘さに頭を振ってから、本日二度目の起床を手伝ってくれた風凪へ振り向く。
「…………」
そこには、惚けた顔でへたり込む風凪の姿が。
「……どうした? 大丈夫か?」
「大丈夫って……こっちのセリフだよ……。帰ってきたら静かで、部屋見たらお兄ちゃんが倒れてて……」
“倒れてた”って、ベッドで寝てただけなんだが……。
まあでも、規則正しい生活をする風凪からすれば、毎日のルーティーンにイレギュラーが発生すれば慌てるのかもな。ちょっと申し訳ない事をした。
「……本当に、心配したんだから……。私の知らない所で、お兄ちゃんが頑張りすぎてたんじゃないかと思って……。そのせいで、何か病気になっちゃったんしゃないかと思ったら……私、私……」
いや訂正。物凄く申し訳ない事をした。
風凪の家族は、俺しかいないのだ。俺が疲れた姿を見せれば、風凪が不安になるのは当然じゃないか。もし俺に何かあれば、風凪はまた『一人ぼっち』になってしまう。それだけは、あってはならないのだ。
若干涙目の風凪の頭に手を置いて、できる限り優しい口調で話す。
「心配かけてごめんな。ちょっと眠かっただけだから、もう大丈夫だ」
風凪は日課の課題をやる時間があるし、その間に夕飯の準備でもしておこう。……と言っても、献立を考えてるのは風凪だから、下ごしらえ程度しかできんが。
そんな事を考えながら風凪の脇を通り抜けようとした時、
「……ダメ」
風凪に手を掴まれた。
「風凪?」
何事かと振り返ると、立ち上がった風凪が肩を掴んできた。そしてそのまま、強く押してくる。
「お、おおおっ?」
特に抵抗もできず、ベッドへと倒れ込んでしまった。間髪入れずに、俺へと掛け布団を掛ける風凪。
「お兄ちゃんは、寝てなきゃダメ!」
風凪の心配性が、発動してしまったか。
「いや、さっきまで寝てたからもう平気だぞ」
「…………」
「課題やるんだろ? その間に夕飯の準備しておくぞ」
「…………」
「もうちょっとで、書き終わるからさ」
「…………」
「……分かったよ」
こっちを見つめながら、段々と泣きそうな表情になっていかれては、折れざるをえない。
小さく頷いて背を向けた風凪に、
「なあ、風凪」
最後に声をかける。
「心配かけて、ごめんな。寝不足だったけど、体調は悪くないから安心してくれ」
「ううん、私こそ。お兄ちゃんにばっかり負担かけちゃって、ごめんね」
やはり俺と風凪の考えは、ある種の平行線だ。分かっていても、そう簡単に変えられるものでもない。
「おやすみ、風凪」
「おやすみ、お兄ちゃん」