第4話
五時になってしまった。
思った以上に打ち合わせが長引いて、こちらに戻ってきた頃には伸び始めた日も沈みかけていた。
間違いなく風凪は帰ってきているだろう。宿題中ならいいんだが。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、ある物に目が留まった。
二つ目のローファー。一足しか持っていない風凪では、ありえない光景だ。__つまり、
「あ、おかえり、お兄ちゃん」
「お邪魔してま〜す」
我が家では非常に珍しい、客人という訳だ。
風凪と一緒にわざわざ自室から顔を覗かせた女の子は、風凪の友人だ。入学式の帰り、少しだけ話をした事がある。見た目通り、快活な子だった気がする。
「お久しぶりです! 覚えてます?」
そうウインクで敬礼してくる女の子。……風凪は絶対やらないな。
「ああ、毎日のように風凪から話を聞いてるからね。風凪と仲良くしてくれてありがとう」
「お、お兄ちゃん!」
風凪が何やら抗議したそうな顔をしているが、事実だし仕方ないだろう。
「ほほう? それは知らなかった。ふーふーってばアタシの事好き過ぎでしょ!」
「そ、それは……」
「ま、アタシの事でよければ、いくらでも言いなさいな」
……この子、凄くいい子だな。今のセリフで、風凪への理解がよく分かった。
「一応、俺からも自己紹介しておこうか」
「__小説家の翔さん、ですよね? ペンネームは『大悠』さん」
「……その通り」
完全に先回りされてしまった。
「お兄さんの同じように、アタシも普段色々聞かされてますからね〜。ふーふーのブラコンっぷりは中々ですよ?」
「……そうか」
大して困る訳でもないが、こうして個人情報が漏洩しているのは少し複雑だな。ペンネームを使っている理由の一つに、“オタク文化を仕事とする兄”という存在を曖昧にするためというのがあったのだが。
「あ、だからってアタシもふーふーも、言いふらしたりはしてませんよ? ふーふーがオタクだって知ったのも、割と最近ですし」
「それは助かるよ」
いい友達を持ったな、風凪。
「じゃあ俺は部屋に戻るよ。ごゆっくり」
かなりいい子のようだが、俺といるより、友達の風凪と一緒に喋りたいだろう。大人しく原稿を進めるとしよう。
「頑張って下さい! ふーふーに進められて、お兄さんの小説読み始めたんです。凄く面白いです!」
背後から掛けられた声。売り上げで何となくの人気は分かるが、こうやってダイレクトに感想を聞ける機会はあまり無い。俺は振り向いて、苦手な笑顔を作った。
「ありがとう」
翔が自室に戻ったのを確認した風凪は、長く息を吐いた。
「どしたのふーふー」
「ちょっと、意外だったから」
「意外って、何が?」
「お兄ちゃんとあんなにコンタクト取るなんて」
翔は社交的とは言えない性格だし、近寄りがたい雰囲気を出していると本人も言っていた。もっとも、風凪も人の事は言えないが。
「そう? 確かにちょっと暗い感じはするけど、クールでいい人じゃん。そもそも、ふーふーが大好きな人に悪い人はいないでしょ」
そう言って友人はクッキーをつまむ。
「うん美味しい。お弁当を自作するくらいだから分かるけど、ふーふー料理得意だよね〜」
「私ができるのは、このくらいだから」
翔の負担を減らす為。風凪の原動力は、殆どがそれである。
「そうは言ってもさ、そんな義務感だけじゃ続かないでしょ。料理に限らず」
「え……」
友人の不意打ちに、風凪は言葉に詰まった。
友人はそんな風凪には気付かないが、続ける。
「アタシはふーふーみたいに真面目じゃないから断言はできないけど、お兄さんの為だけじゃないと思うよ? ふーふーが頑張るの。__きっとふーふー、こういう家事が好きなんじゃない?」
「そう、なのかな……」
何となく、友人の指摘を認めたくなかった。兄の為、兄への感謝を込めていたつもりが、自分の為だったのだ。これでは、翔への恩返しができないではないか。
「この絵もそうでしょ? ふーふーの趣味なんだから。本気で上手いと思うけどなー」
「私は、そうは思わないけど……」
いつも通り風凪が否定すると、謙虚なのはふーふーのいい所だよ、と友人は笑う。
「じゃ、そろそろ帰るね」
それから三十分ほど雑談をした後、友人は腰を上げた。
「せっかくだから、ご飯食べて行けば……」
「ちょっと寄るだけのつもりだったし、それはまた改めて。__そ、れ、に、」
友人は意味深に言葉を切ると、
「?」
「お兄さんと二人っきりの夜を、邪魔したくないしね〜」
「な、何も無いから!」
つい反応してしまった風凪に、友人は笑顔で手を振った。
友人を見送り自室に戻った風凪は、まだ勉強をしていなかった事を思い出した。幸い宿題は無かったので別にいいかとも思ったが、
「…………」
翔の執筆に対するモットーを思い出し、ノートを開いた。
タイピングを続けていた俺は、ふとかしましい声が消えている事に気付いた。どうやら友人は帰ったらしい。
「せっかくだし、夕食くらい誘えばよかったかな」
……まあ、俺は邪魔か。会話も雰囲気も盛り上がる気がしない。
そして風凪はといえば、遅れながらも宿題をしているみたいだ。__つまり、夕食の準備も遅れる。
それを待つのかと訊かれれば、そんな事はない。こんな時のために、俺がいるのだ。
俺は殆ど書き上がった原稿を保存し、立ち上がった。
……と、偉そうな事を言ってみたが、料理は最近風凪に任せきりだったせいか、どうもレシピが思いつかない。
風凪のこだわりなのか、我が家には冷凍食品は無い。……それを食卓に出した所で、料理とは呼べないが。風凪に叱られそうだ。
「……さて、どうするかな」
冷蔵庫にはタマネギ、ニンジン、ジャガイモ、レタスがあった。
「これは……」
もうアレを作るしかないな。