第3話
風凪が家を出てしばらく後、俺も外出の準備をする。
と言っても遊びに行く訳ではない。今日は担当編集さんと原稿の打ち合わせの日なのだ。
俺は坂道を下って駅に向かうと、電車に乗って都内へ向かう。自宅から編集部までは、徒歩込みで一時間半ほどだ。打ち合わせの長さにもよるが、風凪が帰ってくるまでに戻れない可能性も高い。
今日が編集部に向かう日だとは伝えてあるが、もし長引くようなら連絡しなければ。
そんな事を考えながら、編集部のあるビルに到着。
受付に名前を告げると、担当さんを呼ぶと言われそのまま奥のブースに通された。本当は色々と手続きが必要なのだが、何度も通う内に省略された。
「__やあ、遅れてすまないね」
五分ほどすると、俺の担当さんが顔を見せた。
「さっそく始めようか」
「はい」
この担当さんは、多くの有名作家を育ててきた凄腕編集さんだ。俺はデビューした時からお世話になっている。俺がこうして生活できているのも、この人の存在あってこそだろう。
その後、お昼を挟んで午後も打ち合わせを続ける。
この人は俺以外にも多くの作家を担当している。その中には、この文庫の看板作品を書く作家もいる。そちらをチェックしつつ、俺達のような中堅作家を手を抜かず打ち合わせをする。そのせいで、この人のスケジュールは多忙を極める。そこで担当される作家は、なるべく編集部へ出向く事が暗黙の了解になっている。
ひとまず風凪の帰宅時間には間に合いそうにないので、メールで連絡を入れて打ち合わせ再開。
「__さっきのメール、風凪ちゃんかい?」
「あ、はい」
この人も、風凪をよく知っている、
まだ俺がデビューしたての、風凪が小学生だった頃、家に置いておく訳にもいかず連れ回していた時期があったのだ。時には学校を休ませてしまった事もあった。なので今では、可能な限りの自由を与えている。まあ、真面目な風凪にはあまり影響が無かったが。
「今年から高校生だったよね? 元気?」
「元気ですよ。今は地元の高校に通ってます」
「へえ。最近会えてないからね。どうかな、今年の忘年会に連れてくるのは」
「伝えておきます」
「僕が担当する女性作家の皆も、たまに会いたいって話をしてるからね」
「そうなんですか?」
「うん。__だから、シッカリ養えるように頑張らないとね」
「勿論ですよ」
俺を信じてついてきてくれたのだ。その無意識の期待を裏切る訳にはいかない。
……そういえば、風凪からの返事が遅いな。授業中でも、休み時間には連絡をくれるのだが。
風凪はケータイの画面を見たまま、固まっていた。
そこにあったのは、『打ち合わせが長引いて、帰るの遅くなりそう』という翔からのメール。酷く簡潔な内容だが、問題はそこではない。風凪が見ているのは、時間。メールが届いた時間は、午後の二時頃。現在は放課後の四時。
「どうしよう……」
言い訳をすれば、この二時間はぶっ続けで体育の授業だった。ケータイを見る機会はあるにはあったが、特別必要ないだろうと確認しなかったのだ。
返信をしなかったくらいで翔が怒るとは風凪も思っていない。が、
「ふーふー、今日はバイトも無いし一緒に帰ろ__どしたの?」
「お兄ちゃんからのメール、無視しちゃった……」
風凪の性格上、簡単には受け流せないのだ。
「あーそうなの?」
友人も風凪の性格は把握済みなので、表情ほど深刻ではないだろうと予想。
「とりあえずごめんって言えば?」
「うん、そうする」
頷いた風凪は、翔の番号へコール。
「__あ、お兄ちゃん。ごめんね、メール見てなくて……。返事できなかったの……。__うん。__ありがとう」
内容は聞こえていないが、想像はつく友人が訊く。
「何だって?」
「大丈夫、だって」
「だと思った。前に一回だけ会ったけど、優しそうな人だったもん。__ねえふーふー」
「?」
「今日この後、遊びに行ってもいい?」
「それって……私のうちに?」
「他に無いじゃん。__あ、どうしても無理だっていうなら別に強引に行くつもりはないよ?」
「ううん、平気」
風凪の性格上、こういった言い方をすれば断られる事はない。ただし、それを口にする友人ではない。
「じゃあ行こう! なんだかんだで初だよね〜」
風凪と友人は、普段別れる駅を素通りし坂を登る。
「ふーふー家近いんだし、チャリ使わないの? 持ってるでしょ?」
「この坂、登るの大変で……」
「あー確かに」
友人は納得する。歩くだけでもかなり疲労が溜まるほどの傾斜である。何か理由が無ければ、押して歩く方が得策と言える。
だからこそ物件が安い事を、風凪は知っている。
マンションに到着した風凪は、
「お邪魔しまーす」
ひとまず友人を自室に通すと、リビングにお茶とお菓子を取りに行く。翔の夜食用にと作ったクッキーを発見し、
「…………」
少し悩んでから手に取った。
「お待たせ__」
「おおふーふー!」
自室に戻ると、友人が笑顔で寄ってきた。
「ど、どうしたの?」
「これこれ!」
友人が持っていたのは、スケッチブック。
「そ、それはダメ!」
慌てて取り返そうとするが、友人はどこ吹く風でパラパラとめくる。
「これふーふーが描いたんでしょ? メチャクチャ上手いじゃん」
「そんな事ないよ……。ただの落書きだし……」
奪取を諦めた風凪は、カーペットに腰を下ろす。
「__あ、このキャラ知ってる。お兄さんの小説のヒロインでしょ?」
「うん……」
自分のスケッチブックを見せられるというのは風凪にとって生き地獄のようなものだが、友人は気付かないし風凪もわざわざ言ったりはしない。
「面白いよねー。アタシ本とか全然読んだコトなかったけど、お兄さんの凄く読みやすいもん」
「お兄ちゃんも、それを心がけてるって言ってた」
「へー。やっぱり凄い人なんだね〜」
「……うん。私もそう思う」
自分の人生を変えた兄の存在。友人の言葉は、風凪の憧れそのものだった。