第1話
五月。某日。午前八時前。
東向きのこの部屋には、晴れた朝にはカーテンの隙間を縫って朝日が差し込む。
それは設計者の意図なのか(そうだとしたら抗議電話モノだが)、もしくは単なる偶然なのか、正確に俺の顔面を直撃する。
「眩しい……」
睡魔と相まって、これはかなりキツい。
昨日__というか、日付は変わっていたので昨晩が正しいか。寝たのは三時過ぎだった記憶がある。
突き刺さる朝日を避けるように、寝返りをうつ。__だが、そんな俺に惰眠を貪らせまいと言うように、布団を叩く影。
「朝だよー。起きてる?」
そんな声に続き、もう一度優しく叩かれた。
「んー……」
「ほら、起きて? 私、遅刻しちゃうよ」
「ああ、はいはい。今起きるよ」
ほぼ毎朝とはいえ、起こしに来てくれるその気遣いを無下にはできない。ベッドから引き剥がすように、体を起こす。
「おはよ、お兄ちゃん」
その影__我が妹は、笑顔を向けてくる。
「おはよう、風凪」
俺の名前は宮古翔。小説家をしている。そして妹は風凪。
__突然だが、俺と風凪に血縁関係は無い。元々、我が家庭はかなり裕福だった。昔はこの辺り一帯を治める領主の家系だったらしい。
そんな典型的な、“伝統あるお金持ちの家”で子供がする事、される事は何か想像がつくだろう。
学校の範囲を遥かに超えた勉強、柔道や剣道などの武道、琴などの日本楽器、その他子供が知らないような名前の習い事を複数。
遊び盛りの小学生。多くの人が、うんざりする内容だろう。当然、例に漏れず俺も。根が真面目じゃなかったんだ。そんな俺は、中学に上がる前後から反抗を始めた。まあ、スケールの大きい事はしていない。言葉を無視したりしたくらいで、あとは、猛反対された小説家を志したのもこの頃だったか。
そこで俺を見限った両親が、新たに家族に引き入れたのが風凪だったのだ。孤児院から引き抜いた、最悪の言い方をすれば人身売買だが。
だが誤解が生じた。前述した通り、習い事で塗り潰される日々は苦痛でしかない。当時の風凪は五歳。しかも、連れて来られたその日から笑顔で習い事を押し付けられる。愛情も何もあったものじゃないその扱いに、風凪が混乱するのは必然と言えた。
そんな風凪が自由に過ごす(というか見放された)俺を見たら、何を思うかは想像がつく。俺と違って反抗する性格ではなかったが、だからと言って不満を持たない訳ではない。中学卒業と同時に家を出た俺に、風凪はついて来てしまったのだ。「私は愛情を知りたい」と両親に言い放って。
今から八年前の出来事だ。それから今日まで、二人暮らしを続けている。
__そして風凪は、今年から地元の高校に通う。
翔が起きたのを確認すると、風凪は鞄を手に出掛ける準備を終える。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
寝起きにも関わらず、翔は必ず見送りに来てくれる。当たり前の行為なのかもしれないが、風凪にはこれをしてくれる人は翔しかいなかったのだ。__翔の実家暮らしの頃から。自然と頬が緩むのを感じて、風凪は慌てて戻す。
自宅__ごく普通のマンションを出た風凪は、徒歩で高校に向かう。
急坂を下り、駅前に出ると踏み切りを渡りそこで止まる。
目の前で電車が止まり、人を吐き出し、吸い込み、そして電車は視界から消える。
同校の生徒が通学路を埋めるのを邪魔にならない場所でぼんやり眺めていると、その集団から一人が飛び出し、風凪目掛けて一直線。
「ふーふー、おはよ!」
「お、おはよう」
この勢いとハイテンションには、毎朝困惑する風凪。だが、入学一ヶ月で唯一できた友人。同じクラスで席が前後になっただけだが、何故か馬が合い、学校生活のほとんどの時間をこの友人と過ごしている。人付き合いが得意でない風凪にとっては、翔に次ぐ大切な存在。
「やー、最近暑いよねー。衣替えってまだだっけ?」
「六月からだと思うけど……。今から暑かったら、夏が大変じゃないかな」
「それはそうだけどさぁ、暑いものは暑いじゃん。ふーふーは暑いの平気なの?」
「私も苦手だけど……今はまだ大丈夫」
「へー。さすがはふーふー」
「何が……?」
「ま、何でもいいじゃん」
そんな取り留めのない会話をしながら、狭く急な石段を下っていく。そうすると、目の前に高校が待ち構える。
神奈川県立、時立高校。真面目で落ち着いた校風を持つ。最大の特徴は、交通量の多い駅に挟まれながらも、田舎な雰囲気を残す事。
校舎こそ建て替えられたばかりで新しいが、学校の裏には田んぼが広がり、その奥には単線四両の電車が三十分に一本通るだけ。夏には蛙の大合唱と蝉時雨が降り注ぎ、冬には木枯らしが吹き抜ける。聞いた話だと、道路をカブトムシが歩くとか。繰り返すが、一つ隣の駅は深夜でもネオンが消えない。だが高校の周りでは、灯りが消える。
『都会の田舎』。合格発表に付き添ってくれた翔は、そう表現していた。
「ちょっと何にも無さすぎるよねー」
と友人は言うが、騒がしい雰囲気が苦手な風凪にとっては、落ち着けて嬉しい。
まだあまり見慣れない校舎を眺めながら、
「楽しい毎日が送れるといいな」
風凪が思う事はそれだった。
風凪が出てすぐ、用意された朝食を食べて片付けると自室へ戻ってパソコンを立ち上げタイピング開始。
俺が書くのは、ライトノベルと呼ばれるジャンル。定義が不安定で確立していないが、まあ、“そんな感じ”の小説だと思ってくれればいい。
デビューは三年ちょっと前。中学卒業直前だ。今ではありがたい事に、固定のファンが増え安定した収入を得ている。金持ちではないが貧乏でもない、若干低い中流家庭といった具合か。二人暮らしだし、風凪に窮屈な思いをせずに養えているから、及第点といった所だろう。
俺の日中は、ほとんどがこの執筆と知識吸収のための読書で埋まる。朝早く出勤し夜遅くに帰宅する会社員の方々は尊敬する存在だが、彼らから見たら相当羨ましい生活なのかもしれない。だが、俺は一年間365日、一日も休みを作らないようにしている。休日祝日、お盆休み、年末年始や旅行中でもそうだ。例え風邪を引いても、頭と指が動くなら一時間から二時間は書く。これは俺が自分に課したノルマだ。
風凪は感心感嘆していたが、別に誇れる事ではない。好きな事だから頑張れる。それだけの事だ。
その日の放課後、掃除当番である風凪は、ゴミ捨ての段階になって友人がソワソワしている事に気付いた。
「どうかしたの?」
「ごめんふーふー!」
すると友人は、手を合わせて頭を下げた。
「今日この後バイトなの! で、時間がかなりヤバい!」
「そうなんだ……。分かった。やっておくから、先に行っていいよ」
「マジ? サンキューふーふー! 今度何か奢るね!」
「大丈夫だよ……。それにしても、もうバイト始めたんだね」
「そりゃだって、中学でできなかったんだし、やりたくなるでしょ!」
「うーんでも私、やってないから……」
「ふーふー、割と忙しいもんね__っとヤバッ。アタシ行くね。ふーふーホントありがと!」
「うん、頑張ってね」
慌ただしく廊下を走っていく友人を見送りながら、
「いいなぁ……。やりたい事がハッキリしていて行動に移せるなんて」
風凪はボンヤリ呟く。それからゴミ袋の口を結び、
「っしょっと……」
持ち上げた所で、
「宮古さん、おれが代わりに行くよ」
男子生徒の一人が、横から袋を掴んだ。
「え? でも、当番は私なのに……」
「いいからいいから」
「あ……」
男子生徒は半ば強引にゴミ袋を受け取ると、そのまま歩いて行ってしまった。
余談だが、そこそこ容姿にも恵まれている風凪は、性格も相まって男子の人気が非常に高い。だがそれ故の競争率の高さと、普段一緒にいる友人の影響でアプローチはほとんど無い。
そして、
「成り行きで押し付けちゃった……。どうしよう、お礼も言えなかった……」
その性格上、気付く事もなく感謝も二の次である。