第3話
フラフラする。目の前が左右に揺れている。
理由は単純だ。寝不足だからだ。
結局、昨夜は岩月さんからの返信を待ち、朝方五時過ぎまで眠れずに待っていたのだ、ベッドの上で体育座りをしながら。
バカだって思うだろう? 自分でもバカだって分かるよ。だいたい二時や三時過ぎまでにメールの返信がなかったらもう相手も眠っている事くらい分かるモノだ。……それでも、二時や三時過ぎまでなら軽く待てると考える僕は、どうかしているだろう。
今朝の唯一の救いは、いつもより二便ほど早い電車に乗った事だろうか? おかげでラッシュに巻き込まれる事がなかった。席に座って眠る事が出来たのだ。出来るなら乗り過ごしたかったが、電車内のアナウンスで起こされたのだ。
仕方なく電車から降り、学校までの道を歩く。今はこの約1キロメートルの距離がずいぶんと長く感じられる。今の僕なら、気を抜けばすぐに倒れて眠る事が出来るだろう。
今や僕の世界は、睡魔に蝕まれている世界だ。いつ、完全に彼もしくは彼女が僕の世界を乗っ取ってもおかしくはないだろう。
そんな時だった。僕の世界が変わったのは。
「おはよう。早いね、いつも遅刻ギリギリじゃなかったかな、神代君は?」
肩が叩かれると同時に僕の前に周りこんで現れたのは、岩月さんの笑顔。おお、ふわりと翻る艶やかな黒髪と軽やかなプリーツスカートよ。スカートとニーソックスの間に垣間見える健康そうな太ももが眩しい。そして、見えそうで見えない何かよ。
ああ、でも、彼女の笑顔は僕にとって世界さえ変える笑顔だ。
「お、おはよう……」
流石にビックリしたけどね。朝早く家を出る事でこんなにいい事があるだなんて。
「どうしたの? 後ろから見ていたけど、ずいぶんフラフラしていたよ?」
「ちょっと、寝不足でね……」
流石にメールの返事が気になって五時過ぎまで起きていたなんて言えないよ。
「今日の英語の予習、した?」
「全然してない……」
まあ、英語に限らず、何の予習もしていないけど。もちろん、昨日の授業の復讐もしていない。
「今日、和訳あたる番じゃない……?」
副担の近藤先生が担当する英語は、結構和訳をさせる。それも、順番に当てていく。今日の授業では僕にまであたるだろう。ヤバいよ、何もしていないよ。しかも、昨日岩月さんと放課後一緒のところを見られているんだ。ここ暫く彼氏が出来ずにイライラしているともっぱらの噂の近藤先生だ。絶対あてられるな。
「あ、ギターの練習ばっかりしていたんでしょ? もう少しで学園祭だもんね」
うちの学校の学園祭は文化の日にある。祝日に学園祭を行うというのはどうかと思うけど、昔からの伝統だそうだ。学園祭まではもう、一月をきっている。
「いや、あんまりギターの練習は出来なかったよ」
メールの返信を気にし過ぎて、何も手につかなかったんだ。
「どうするの?」
「エキ●イト先生に頼るしかないね」
ちなみにエ●サイト先生とは、無料の翻訳ソフトの事だ。学校にノートパソコンを持ちこんでいる渡辺(もちろん、あだ名は“ナベ”だ)のノーパソを借りて翻訳しよう。超翻訳になりそうだけど、このさい仕方ない。どうでもいいけど、渡辺って名字のヤツのあだ名の八割以上は“ナベ”だと思うんだ。何故“ナベ”以外のあだ名のヤツをほとんど見かけないんだろうな?
「ノート、貸してあげるよ。昼休みに写してね」
「ホント? 助かるよ」
英語の授業が五限目で助かったな。
しかし、いっさい昨夜のメールに関する言葉は彼女の口から出てこないな。うーん、昨日送ったメールは見ていないのだろうか? それとも、彼女は送られたメールに返信しない主義の持ち主なのだろうか?
「ゆ、昨夜さ、メール送ったんだけど、見てくれた?」
我慢できなくなり、僕はメールの件を岩月さんに聞いてみた。これで、メールを見ても返信しなかったのならば、完全なる脈無しではないか。単なる少しだけ話をするようになったクラスメイトの関係でお終いだな。
「メール?」
通学カバンの中から携帯電話をとりだす岩月さん。メールのチェックをしているようだ。通学カバンの中を少しだけ覗いたけど、教科書やら参考書やらがビッシリだった。……漫画やらギターの楽譜やらCDやらが入っている僕とは大違いだな。僕の教科書類は学校の机の中にビッシリだ。
「あ……」
僕からのメールを確認したのだろう。隣を歩く僕の方をチラチラ見上げてきたけど、どうやら意を決したらしい。
「ごめんなさい!!」
顔の前で両手を合わせて拝むような格好をしだす岩月さん。通学カバンは器用に脇に挟まれていた。よく落ちないな、あのカバン。
「昨夜はメールのチェックをしてませんでした。ごめんなさい」
何だ。チェックをし忘れていたのか。よかった、無視されたんじゃなかったんだ。
気が抜けた。ついでに体の力も抜けた。
「ちょ、ちょっと、神代君? 寝るなら教室で寝なよ? 歩きながら寝るなんて器用な真似はしちゃダメだよ!?」
慌てふためいている岩月さんの声が聞こえてきたと同時に、僕の右手を柔らかい感覚が包んでくれた。岩月さんの手だろうか?
その後の事はよく覚えていない。どうやって教室に辿り着いたのだろう?
気が付けば教室でクラスメイトでもある松本に叩き起こされていた。
「お前、何やってんの?」
「五月蝿いな、眠いんだよ。HRまで、眠らせてくれよ」
「もう、終わってるぞ、HR」
「え?」
「三嶋が凄い怒ってたぜ? 後で謝りに行けよ? ウルセエからな、アイツ」
三嶋とは、僕らの担任だ。奥さんバカで有名な男で、三十手前だ。授業中も奥さんとののろけ話が入る為、ボッチ軍団の怒りを買っている男だ。極めつけは近藤先生と二人で飲んだ事があるそうだが、最初の十分だけ仕事上の話で、残りの時間は二人っきりにも関わらず奥さんののろけ話を延々続けたそうだ。奥さんバカでなければ優秀な男ではあるのだが。ちなみに担当は日本史だ。授業自体は凄く面白い。
「わかった、後で謝っておくよ」
それよりも、眠い。お休み。
午前中の授業はほとんど覚えていない。いや、それ以前に起きていただろうか? 何発か頭に拳骨を貰った気がするけど……。体罰で訴えてやりたいが、寝ていたこっちが悪いからな。だいたい、その程度で「訴えてやる!!」なんて言うヤツはバカでしかない。
昼休みになり、何とか頭がスッキリしてきた僕は岩月さんから英語のノートを借りようとして、彼女の席まで歩いていこうとした。
だけど、僕は彼女の席まで辿り着くことは出来なかった。
教室の扉がガラッと開けられて、大柄な男が入って来たからだ。
「空手部部長の鬼瓦じゃ!!」
その男は、デカかった。百八十センチという、最近では目立たなくなった大きさでも、彼は別格であった。百七十センチを少し超える僕であっても、見上げなければならない威圧感を持つ男であった。特注であるとの噂の制服は盛りあがった筋肉で今にもはちきれそうである。何故鬼瓦の制服はあの状態ではちきれないのか、我が校の七不思議に数えられているとかいないとか。ちなみに彼が本気を出した場合に限りあの制服ははちきれるとの噂もある。大事なところは残してパージされるらしい。
「元空手部部長の鬼瓦じゃ!!」
あ、言い直しやがった。そう、鬼瓦先輩は三年生であり、既に部長からは退いている男である。が、今でも空手部には顔をだし、後輩を鍛えているそうな。
「神代直斗というのはおるかのう!?」
名指しされた。解せぬ。おい、皆僕を見るんじゃない!!
「あ、さっき、購買にパン買いに行きましたよ」
とりあえず、とぼけてみた。
「おう、そうか。スマンのう。では、購買に行ってみるとするかのう!!」
まるで、ガハハハという笑い声が似合いそうな気持のよさで、鬼瓦先輩は颯爽と去っていった。
さて、岩月さんにノートを借りに行こう。お、岩月さんもポカーンとしている。こんな時の岩月さんも可愛いなあ。
「って、待たんか。貴様が神代直斗であろうが!!」
「違います。渡辺宗助です」
すまん、ナベ。お前の名前を借りるよ。おい、ナベ、恐ろしい目つきで僕を睨むんじゃないよ。
「そうか、スマンな。では、ナベよ。神代は何処にいるかいのう?」
結局、お前はナベと呼ばれる宿命にあるのか、ナベよ。
「近藤先生に愛の告白に行くって言ってました」
「ほう、では職員室か。行ってくるとしようかのう!!」
ガハハハと笑いながらまた去っていく鬼瓦先輩であった。
今のうちに岩月さんにノートを……。
「いい加減にせんか!! 貴様が神代だという事は分かっておるわ。ついてこい!!」
これ以上、彼をからかうのは危険だ。あの僕の顔面くらいある握り拳で殴られたらあっさりとあの世に逝けるだろう。
僕の本能がそれを理解した。岩月さんが心配そうに見ている中、僕は鬼瓦先輩についていく事にした。頭の中ではドナドナが鳴り響いている。
こうして、僕は英語のノートを借りる事すら出来ず、昼休みを過ごす事になったのだ。
鬼瓦先輩と一緒に、屋上で。もちろん、昼食はまだとっていない。
ああ、灰色の昼休みよ。屋上で血の雨が降らなければいいけれど。もちろん、降る血は僕の血だろうけどね。
誰か、へるぷみー。




