第1話
何とか一曲弾ききる事が出来た僕の眼の前に、一人の女生徒が現れた。
岩月雪菜……クラスのアイドルにして、学園のアイドルでもある。そして、僕の憧れの女性でもある。
「クラスメイトなんだから、出来れば生徒会長の肩書では呼んで欲しくない、かな? 神代直斗君」
微笑みながら教室の中に入って来る岩月生徒会長……じゃなかった、岩月さん。
「名前……、知っていたんだ?」
変てこな返答だ。夕陽に照らされた彼女の笑顔は、僕には眩しすぎて、こんな返答しか出来なかったんだ。
「それは、もちろん知っているよ。クラスメイトだもん。あ、神代君は私の名前、知っているのかな?」
夕陽に照らされたその笑顔は、いたずらっ気が出ていた、ように見えた。
彼女に名前を覚えてもらえていた、ただそれだけの事で嬉しく思えてしまう僕。
「そ、それは、知っているよ。く、クラスメイトだからね!!」
自分が憧れている彼女からいきなり問いかけられて、僕はもう、それはドキドキしていた。今なら心臓が早鐘のように鳴っているのが分かる。それ以前に早鐘とは何か、知らないのだけれど。
しかし、いったいどう接するのが正解だろう? クラスメイトなんだから、敬語である必要はないよね? 怒っている感じもしないし、たぶん正解なのだろう。生徒会長だなんて呼ばれるのが嫌だと言っているんだし、フランクな接し方でいい筈だ。
「ふうん、じゃあ、言ってみてよ。私の名前は、さて、何でしょう?」
「岩月さん……だよね?」
彼女の名字を間違えるわけがない。かんで変な答えを言ってしまう可能性はあるけれど。
「ぶー。名前までしっかり言ってください」
口を膨らませた彼女なんて、普段見る事が出来ないだろう。もっとも、彼女と仲のいい女子は何度も見ているだろうけど、僕が見るのは初めてだ。口を膨らませる彼女も可愛いと、美人だと思ってしまう。惚れた弱みだろうか?
それにしても、名前まで? いきなり名前まで呼びかけるのは、僕にとってはハードルが高いんだけどなあ。
でも、彼女は僕の事、名前まで呼んでくれたのだから、僕も名前まで呼んであげないと失礼にあたるかもしれない。
「岩月雪菜さん……だよね?」
僕が彼女の名前を間違えるだなんて、あり得ないよ。去年は同じクラスじゃなかったけど、彼女の事は知っていた。そして、今年は、ずっと彼女の事を見ていたのだから。
「はい、正解です」
ああ、この笑顔は反則だ。横目で時々見る彼女の笑顔とは全然違う。
「誰のなんていう曲だっけ? タイトルは神代君が時々歌っていたから何となく想像はつくんだけど……」
そう言いながら、岩月さんは僕の席の前の席に腰をおろした。お互い窓に背を預けるような感じで座っているから、感覚的には横に座っているような感じだけれども。
「え? 時々歌っていた……? え? いったいいつから僕がここでギターの練習していたのを見ていたの?」
「いつからって……二週間前からだけど?」
え? マジ?
そう言えば、さっき二週間前はほとんど弾けない状態だったのに……とか何とか言っていたような気が……。
「そ、そんなに前から?」
「そんなに前から」
何を驚いているのだろう? みたいな表情はやめてくれませんか、お願いだから。
「じゃあ、あの頃から時々僕が歌いながらギター弾いているのを見ていたって事?」
嘘だ、嘘だと言ってよ……。皆に見られたりするのが恥ずかしいから放課後の教室で弾いていたのに……。この階には部活で使われている教室がないのだから。だから安心してギターを弾いていたのに。
「うん、ゴメンね? もしかして、あまり人に聞かれたくなかった?」
「えーと、うん。あんまりこう、練習しているところは見られたくなかったというか、聞かれたくなかったというか……」
別に下手なところを見られてもどうとも思わないよ、バンド仲間になら。もしくは、自分がバンドをやっている事を知っている人間に見られるのは。下手なのは事実なんだからさ。
ただ、何となく恥ずかしんだよね、親しくもない人間にギターをやっている姿を見られるのは。「コイツ、カッコつけていやがる」とか、「女にモテたくて楽器はじめたんだな」とか思われるのが、何となく嫌なんだ。……まあ、実際に女の子にモテたくて楽器はじめたんだけどさ。で、二年生になってバンドを組んで学園祭に出ようと頑張っているのはいいんだけど、何で僕以外のバンドメンバーはイケメンなんだろう? これではどうあがいてもモテない気がするよ。
「ふうん。まあ、見られたくなかったのをずっと見ていたのは謝るよ。ゴメンね?」
何で、下から上目づかいで見てくるんですか? 僕の胸は張り裂けそうです。
「ね、あの曲、なんていう曲? ずっと気になっていたんだよね」
「『世界中の誰よりきっと』って曲のライヴ・ヴァージョン。誰かがカバーして車か何かのCMになった事もあるから、聞いた事があるんじゃないかな?」
「ああ、だから聞いた事があったんだ。確か、元は九十年代の曲だよね?」
「そうそう、あ。CDあるよ。貸そうか?」
「ホント? 貸してもらっていいかな?」
通学カバンの中からCDをとりだして渡す。ライブ・ヴァージョンが収録されているベストアルバムだ。
「返すのはいつでもいいよ」
PCにとりこんであるからね。CDがなくても、いつでも聞ける。ついでに言えば携帯音楽プレーヤーの中にも入っているから。
「ありがとう。ね、もう一回聞かせてよ。さっきの曲。今度は最後まで弾けるかな?」
「ええっ!? ここで弾くの? 岩月さんの前で?」
「だって、学園祭にバンドで出るんでしょ? クラスメイトの前でくらい弾けなきゃ」
言っている事は正しいのかもしれないけど……バンドで演奏する曲はこれじゃないんだけどな……。
それに、僕にとっては岩月さんはただのクラスメイトじゃないんだけどな……。
とりあえず、僕は曲を弾き出してみた。
結果は分かってもらえると思うが、半分も弾けなかった。緊張のし過ぎだ。ギターの音色より、心臓の音の方が大きく聞こえたんだ。音が全然わからなかったよ。
そして、岩月さんにギターを最後まで聞かせる事は出来ずに、巡回に来た副担の近藤先生に教室から二人そろって追い出されたのは、七時過ぎだった。
途中から彼女の歌声だけが最後まで続いている状態だった。どうやら、僕が歌っていたのを聞いて覚えていたらしい。
そんなもんだから、近藤先生(二十四歳、独身女性)から散々からかわれた。「遅くまで残ってイチャイチャしやがって……!!」と、恨みがましい視線を向けられたものだ。
あたりはもう、暗くなっていた。
「追い出されちゃったね……」
校門までの道を、トボトボと一緒に歩く。
「そうだね……」
彼女のボーカルというのは、悪くなかった。まあ、特別上手かったわけじゃないけれど。そのボーカルにギターを完全に合わせる事が出来れば面白かったかもしれないな。
二人同時に高校の敷地外に出る。どうしようかな……?
「岩月さんは、電車通学?」
まあ、返事を聞くまでもなく知ってはいるんだけどね、彼女が電車通学だってことくらい。
「そうだけど……」
「じゃあ、駅まで送るよ」
緊張せずに、簡単に言えただろうか?
岩月さんは岩月さんで、少し驚いた表情をしていた。きっと、僕がそんな事を言うタイプには見えなかったのだろう。
「無理しなくても、いいよ?」
「あはは、無理じゃないよ。僕も電車通学だから」
彼女は確か二駅先から通学している。ちなみに僕は四駅先だ。
「ふうん、じゃあ、お願いしようかな?」
やった、了解してもらった。
帰りの駅までの道が久しぶりに楽しくなりそうだった。出来れば、少しでも彼女と仲良くなれたらいいな……そんな事を思いながら、僕は、岩月さんと帰路についたのだった。