戦う理由
森での戦闘から数刻の後。
東から昇った太陽がすでに西へと傾き始め、人々が思い思いの場所で昼食を取り始める頃。
オスタリカ領内にある小さな農村、アテ村の空き家で、ユーリはベッドに腰掛けて動かない左腕を撫でている。
虫竜に自分の乗騎、グラディウスの両腕を斬り飛ばされたユーリは、神経が錯誤を起こしている状態にあり、両手を思うように動かすことができない。
肘から上が残った右手はまだなんとか動かせているものの、肩口から完全に切断された左手は、まるで本当に切り落とされて存在しないかのように、まったく感覚がなかった。
もう少しで死んでいたかもしれない。
それは思い出せば少なからず恐怖を感じる状況だが、あの時、赤い虫竜に向かっていった自分の中にはこんな感情は存在しなかった。
死ぬかもしれないと頭の中では理解していたのに、ただひたすらに、あの竜を殺さなければならないと感じるだけだった。
それが、ユーリには恐ろしかった。
死ぬことすら怖いと感じられなかった自分が、とてつもなく恐ろしい。
不意に開けっ放しのドアを叩く音がして、ユーリは我に返る。
「おいユーリ、こんな所で何をしてるんだ」
そこに立っていたのは、あのアーデという金髪の少女だった。
長い髪を頭の後ろでまとめ上げ、身につけていた軽甲冑を外し、厚手のチュニックに膝丈のパンツというラフな格好をしている。そうしていると人並み外れた美貌を除けば、そこらの町娘と大差ない、ただの少女のようにも見えた。
「アテの長老がな、食事を振舞ってくれるそうだ。皆で一緒に馳走になろう」
アーデは満面の笑みを浮かべて、ずかずかと無遠慮に部屋に足を踏み入れる。
能天気なものだとユーリは思う。あの虫竜の正体だって分からないのに、よくもこんなにくつろいでいられるものだ。
「あんた、こんな所で飯なんか食ってていいのかよ。お姫様なんだろう」
彼女の素性については、森から引き上げる道すがらカーラたちから聞いていた。
オスタリカの第三皇女。
その身分を聞いた瞬間、ユーリは驚くのを通り越して、呆れて何も言えなくなった。
「誰も文句は言わないさ。なにせお姫様だからな」
アーデはやや嫌味にも聞こえるユーリの言葉を、得意げな笑顔で軽く受け流す。
「どうしても気に入らんなら議会を通して正式に抗議してくれ。そうしたら一言くらい謝罪の言葉を述べてもいいぞ。獲物を横取りしてごめんなさい、とな」
「その話はもうよしてくれ。助けてくれたことには感謝してる」
ユーリがばつの悪そうな表情で言う。
アーデはよほどツボに入ったのか、何かとあればユーリが言い放った「俺の獲物」という台詞を持ちだしてくるのだ。ほんの数刻の間に、もう三度は同じようにからかわれている。
ところが、当のユーリには、実のところそんな台詞を口にした記憶がない。
竜との戦いで気が昂ぶっていたのか、どのみちまともな精神状態ではなかったのだが、あの赤い虫竜から竜核を抜き取った後のことは、あまりはっきりと覚えていない。
それにしても酷い台詞だと、ユーリ自身ですら、そう思う。
しかも聞かれた相手が悪い。まるで新しい悪戯を憶えた子供のようだ。
アーデはそんなユーリを見て、満足そうにふふんと鼻を鳴らして笑う。
「まぁその殊勝な態度に免じて、この辺で勘弁してやるとしよう。ほら行くぞ。早くしないと食事がなくなってしまう」
やれやれ。大きくため息を吐き、ユーリはベッドから立ち上がる。
本当は食事会などという気分ではなかったのだが、どうもこのお姫様には調子を狂わされる。
王侯貴族とはもっと尊大で選民思想の塊のような人種だと思っていたのだが、彼女からはそんな雰囲気は微塵も感じられない。どう育てたら一国の姫君がこのような開けっ広げな性格になるのか。
ユーリはなんだか珍妙な生き物に遭遇したような気分と共に、意気揚々と部屋を出ていくアーデの後に続いた。
*****
「おぉ、これは美味いな。なんという料理だ」
目の前に置かれた料理を口に運びつつ、アーデは感嘆の声を上げる。
「名前などございませんよ姫様。ただ羊を焼いて香草で味付けしただけです」
次々と料理を平らげるアーデを見ながら、嬉しそうに答えるのはアテ村の長老。歳は九十を越えて腰も曲がってはいるものの、物腰柔らかな好々爺で受け答えもはっきりしている。
「城の料理も美味いのだが、なんというか小奇麗にまとまりすぎでな。時々こういう素朴な味が恋しくなるのだ。うん、この魚も絶品だな。蒸してあるのかこれは」
村の集会所に設けられた昼餉の席は凄まじい量の肉や魚、獲れたての野菜といった豪勢な料理で溢れかえっていたのだが、列席者たちの予想外の健啖ぶりに、みるみるその嵩を減らしていく。
「どんだけ食うんだよこのお姫様は……」
アーデの隣で呆気にとられるユーリをよそに、対面の席についたカーラとアーベルもまた、黙々と目の前の食事に手を伸ばしている。食える時に食っておけというのが、この竜騎兵団の鉄則だ。
「どうしたユーリ、お前は食わんのか?」
川魚の蒸焼きをあっという間に平らげたアーデは、ユーリがほとんど料理に手を付けないのを見て不思議そうに尋ねる。
「食わないんじゃなくて、食えないんだよ」
ユーリの両手はまだ思うように動かない。右手が少しは動くとはいえ、ナイフやフォークを握る力はまだ戻ってはいなかった。
「難儀なものだな。どれ、私が食べさせてやろうじゃないか」
「はぁ?」
にこにこと笑いながら自分の皿に盛られた鹿肉のソテーをフォークで取り上げ、ユーリの口元に運ぶアーデ。
「遠慮するなユーリ、口を開けろ」
「カーラ、アーベル、食ってないでなんとかしてくれ……」
うろたえるユーリを見て、無精ひげを生やした短髪の中年男アーベルは、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながらジョッキのリンゴ酒を煽るだけで、何もしようとしない。
こいつ面白がってやがる。アーベルの助け船は期待できないと判断したユーリは、その隣、癖のある黒髪をバンダナで巻いて押さえたカーラに視線を移す。
彼女もまた、給仕のために呼ばれた村娘に酒を注いでもらいながら何も言わずに様子を見ていたのだが、あまりに悲痛な表情に根負けしたのか、なおもユーリに料理を食べさせようと迫るアーデに対して言った。
「アーデレード姫、手出しは無用です。そうなったのは無暗に突っ込んで自分を危険に晒したユーリの責任。いわば自業自得です。それに、自分の尻も満足に拭けないような軟弱者はこの竜騎兵団にはおりませんので」
ぴしゃりと言い放つカーラに、ならば仕方ないなと意外にもあっさり引き下がったアーデは、そのままフォークを自分の口に運んで、ことさら美味そうに肉を頬張った。
*****
「そういえば、お前たちの長ともう一人、サイラスといったか。彼らはどうしたんだ?」
ひと通り満足いくまで食べ終えたアーデが、ふとユーリたちに尋ねる。
この場に呼ばれたのは全部で六人。そのうちサイラスと、アテ村で待機していたジークがまだ姿を現していない。
二人がどこで何をしているのか、ユーリも聞かされていなかった。
「あぁ、何か用事を済ませてから来るってんで、少し遅れるとか言ってたな」
アーベルは酔いが回ってきたのか、アーデに対していつも通りの話し方で接している。
二・三度カーラに小突かれて注意されてはいたが、当のアーデが別に気にしている様子もないので、カーラの方も諦めてしまったようだ。
「そうか。いやな、お前たちに一つ頼みたいことがあるのだが」
そう言って、アーデは手にしたジョッキを煽る。
「ま、二人が揃ってからでもよかろう」
彼女が飲んでいるのは果実の汁を水で薄めたものに、蜂蜜を混ぜた飲み物だ。
これもまたいたく気に入ったらしく、あれだけ食べてどこに入るのかという勢いで、もう何杯も飲み干している。
こうして見ていると、その食欲はともかく、やはりどう見ても普通の少女だと、ユーリは思う。
「なんだユーリ、私の顔に何か付いてるか?」
その視線に気づいたアーデが、きょとんとした顔でユーリを見返す。
「なぁお姫様。あんた、なんで戦うんだ」
胸の奥から湧き出た疑問が、口先から真っ直ぐに吐きだされる。
それは初めてアーデを見た時からずっとユーリの中で静かに燻っていた疑問だ。
よく笑い、よく食べ、誰とでも気さくに打ち解ける年頃の少女。
しかも本物の王侯貴族だ。城に籠っていてもなに不自由なく暮らせるだろう。
ユーリには彼女が、竜との戦いに命を賭ける必要がある人種だとは、どうしても思えない。
それなのに、なぜ。
「同じようなことを沢山の人に聞かれたよ。なぜ戦うのか。なぜ貴女が戦わなくてはならないのか、とな」
ジョッキを置いたアーデは、先ほどまでとは違う、少し落ち着いた口調で語り始めた。
「その質問に正確に答えるのは難しいんだ。自分の気持ちを正しく言葉にするのは、本当に難しい。それでもあえて言うなら、きっと守りたいからなんだろうな。私は、私を取り巻くあらゆるものを守りたい。それは交易で国を豊かにするのでも構わないし、医学を修めて病気を治すのでも構わない。荒れ地を拓いて畑を耕すのも悪くないかもしれないな。でも、私の手の届く範囲には偶然にもクラウソラスという強大な力があって、しかも私はそれを操る才に恵まれた。だから戦うんだ。それが私にできる一番大きな役割だと思う」
そう答えたアーデの茶色い瞳は、どこか遠い所を見ているようだった。
「お前はどうなんだ、ユーリ。お前はなぜ戦う」
逆に問いかけるアーデの言葉に、ユーリは口を開いて何かを言おうとしたが、そのまま少し考え込むように目の前のテーブルへと視線を落とした。
確かに。自分の中にある感情を言葉にするのは難しい。
やがて顔を上げたユーリは、一言、竜を殺すためだと答えた。
「俺にはそんな大層な理由はないと思う。竜を見ていると、どうしてだか殺さなければいけないように感じる、ただそれだけのことだ。俺にとっては力があるとか無いとか、そういうのは問題じゃない。竜騎兵が無ければ他の武器を使う」
そこまで言って、ユーリは言葉を切った。
何かが違うような気もする。
しかしこれより上手く表現する言葉をユーリは知らなかった。
「俺にはあんたが言ってることが、よくわからない」
真っ直ぐな感想を投げかけるユーリに、そうか、とだけ呟いてアーデは薄く笑う。
それは小馬鹿にしたような笑いではない。
野良猫に声をかけて逃げられたような、寂しさの混ざった笑い方だった。
「でもな、ユーリ。いずれお前にも私の気持ちがわかる時がくるよ。何年後、何十年後かもしれないが、きっとくる」
アーデのその言葉は、どこか確信めいたものを感じさせる力強さを持っていた。
なぜそんなことが言えるのかと詰め寄るユーリに、なんとなく、とだけ彼女は答える。
「お前はたぶん、お前が望んでいるような強い人間にはなれないよ」
アーデはそれだけ言うと、テーブルに置いたジョッキを再び手に取り、半分ほど残ったその中身を一気に飲み干した。