黒騎士 1
イスマはあたしの三つか四つほど年上で、二十人ほどの集落で、たった二人きりの子供だった。
髪も肌も何もかもが真っ白で、それは竜核を埋め込んだことによる副作用だと先生は言っていた。
そのせいでひどく体が弱くて、病気で死にかけたことだって一度や二度じゃない。
だから狩りには参加させてもらえず、ずっとウル先生の所で薬や治療の勉強をしている始末だった。
正直に言って、あたしはこいつがあまり好きじゃなかった。
いや正確には、苦手だった、と言うべきか。
几帳面で、クソ真面目で、そしていつも柔らかく笑っているのが誰かに媚びているように見えたから。
だけどまぁ、それでもあたしの面倒をよく見てくれて。
こいつが根気よく教えてくれなけりゃ、あたしは字の読み書きだってできなかっただろう。
もしかすると、兄妹みたいなものだったのかもしれない。
そのイスマの顔が、思い出せない。
何年も一緒に暮らして、何千回と顔を合わせた、忘れるはずのないその顔。
それがまるで、絵本の中の気に入らない人物にインクをぶち撒けたかのように、真っ黒に塗り潰されている。
頭痛がする。
吐きそうだ。
体もないのにどこから何を吐くのか全然わからないが、とにかく気分は最悪だ。
苦痛から逃れようとして意識だけでも暴れさせようとするが、無論どうにもならない。
そうこうしている間にも、場面は次々と移り変わる。
ゆっくりと、そして確実に、物語は破滅へと向かっている。
*****
テオバルドたちが帰ってきたのは、それから三日ほど経った明け方のことだった。
いつもなら仕留めた獣や、どこから拾ってきたのか使い古された竜騎兵用の武具などを大量に抱えて戻ってくるのだが、その日に限っては珍しく手ぶらで、しかもやけに慌ただしい様子に見えた。
『おいてめぇら、今すぐに荷物をまとめて移動だ!』
出し抜けにテオバルドの口から発せられた言葉に、集落の全員がしばし呆気に取られた。
「一体どうしたんだテオバルド、順を追って説明してくれないか」
その中にあって冷静さを失わないウルが尋ねる。
『どうもこうもねぇぜ先生、ヴァルツヘイム軍の賊狩りだ。どっかのアホが連中の荷物に手ぇ出したんだろうよ』
答えを聞いた誰もが、一瞬で血相を変えた。
ヴァルツヘイム、というあまり聞きたくない単語のせいだ。
竜の生息地、その隙間を縫うようにして転々とし、竜域の民は生きる。
無駄に争わず、必要な分だけを獲り、誰をも拒まず、誰からも奪わない。
しかし、中には平気で略奪行為に及ぶ者たちもいる。
その大半は国を放逐された罪人や脱走兵などの集まりで、竜域を渡る隊商や、小国の輸送部隊などを襲う。
そういった連中には惜しむ命も無く、他に生きる道も無い。
だから自らの体に無理やり竜核を埋め込んで、死の危険と引き換えに強大な竜の力を得る。
そうすれば、旧式の安物竜騎兵でもそれなり以上の戦力を発揮できるからだ。
隊商の護衛や小国の軍隊だって装備で言えば大差ないのだから、山賊まがいのクズどもにとっては格好の獲物というわけだった。
とはいえ、そんな危険な連中がいつまでも野放しにされるはずもない。
オスタリカやアヴァロンといった大国は定期的に賊の討伐部隊を送り出しているし、他の小国もまた自国周辺の警戒は常に行っている。
その中でも最も悪名高いのが、ヴァルツヘイム連邦王国軍だ。
例えば家に入り込んだネズミに対し、煙で燻して追い払い、門戸を固めて侵入を防ぐのがオスタリカやアヴァロンのやり方だとする。
対して、巣穴があると思しき一帯を躊躇なく焼き払うのがヴァルツヘイムのやり方だった。
蟻が砂糖を盗んだからといって、わざわざその一匹を選んで殺したりはしないのと同じことなんだろう。
『連中にとっちゃ誰がやったかなんて関係ねぇ。ここもじきに見つかる。そうなる前にずらかるのさ』
テオバルドはそう言いながら、手早く指示を出して集落の撤収を始める。
居場所を転々とする竜域の民にとって、家なんてものは大して重要な意味を持たない。
丸太組みの簡素な小屋は、日が昇り切る前には元の木材へと姿を変えるだろう。
誰も、何も言わなかった。
ヴァルツヘイムと事を構えるなんて、そんな恐ろしいことを誰も考えなかったからだ。
移動するとなると食料、水、新しい集落の場所、新しい問題を山ほど抱えることになる。
けれども、皆殺しにされるよりはその方がずっとましだなんて、バカでもわかる理屈だ。
「なんで逃げるんだ!」
と、ここで世間知らずのガキが登場だ。
レーナ――つまりは自分なんだけど――彼女はなんだか正義感だとか誇りだとか、そんなようなものを瞳の奥に燃やして、声を上げる。
「何も悪いことなんてしてない! あたしたちは関係ないだろ! なんで逃げる!」
そう、何も悪いことなんて無い。
誰も、何も悪くない。
けれども彼女は知らない。
この世の中には、森の中で穴居人同然の暮らしをしているガキには想像もできないような理不尽が存在することを。
理由も無く人を殺すような連中がいることを。
『駄目だ』
世間知らずのガキの妄想を、テオバルドの声が一蹴する。
「なんでだよ! 何もしてないなら堂々としてればいいだろう!」
『絶対に駄目だ、全力で逃げる。話も通じないし、戦っても勝てる見込みはない』
そう言った彼の声は、少し震えているようにも聞こえた。
『俺は確かに見たんだ……。連中の竜騎兵、真っ黒な装甲に血みたいな赤の線が入ってた……』
テオバルドと一緒に狩りへ出ていた一人が、完全に怯え切ったようにそう呟く。
黒い装甲に赤い線。
ヴァルツヘイム軍でその装飾を施される部隊は、たったひとつ。
『くそったれめ、黒騎士のお出ましだ』
*****
「報告。この集落は既に放棄されているようです」
ヴァルツヘイムの兵が集落に辿り着いた頃には、既にそこは“集落跡”になっていた。
全員が一様に黒いフードをすっぽりと被り、まるで暗殺者の集団のようにも見えるヴァルツヘイムの騎士たち。
そしてその中にあって、さらに異様な雰囲気を漂わせる人物が無言で報告を受ける。
まるで牙を剥いた漆黒の狼といった意匠の兜で頭部を完全に覆った騎士。
皇竜騎グラムを駆る黒騎士、ヴァナルガンド卿である。
もっともこの場にあるのはグラムではなく、上級騎士用のワイバーン級が数騎と、残りは量産配備されているサーペント級のハルベルトだけだが。
「積み荷の痕跡は」
言葉少なに黒騎士が答えるが、その声はどういうわけか、質の悪い伝声管を通したように酷く歪んだ響きをしていた。
「ありません。代わりに、このような物が」
と、騎士が一抱えほどの箱を差し出す。
それは竜域の民が持つにはやけに豪奢で、王侯貴族の部屋に置かれていてもおかしくないほどの精緻な細工が施されていた。
側面にはグルドア辺境領を治める、アウギュスト家の紋章。
そして蓋を開いたその内側には、小さく“愛する娘アリアンヌへ”と刻まれていた。
盗んだか、それとも拾ったか。
どちらにせよ、アウギュスト家の出自にして今は亡きオスタリカ皇妃に所縁のある品となれば、中身を回収する必要があるだろう。
「軍令」
黒騎士が発したその一言に、すべての騎士が直立不動の姿勢となり、一切の動きを止める。
「逃亡した者たちを追撃する。ヒルダ、ラズロ、先に出て進路を確保しろ」
「了解」
「了解」
短い返事だけを残し、名を呼ばれた二人が自分の竜騎兵へと駆けて行く。
一度は壊れて止まった物語の歯車が、いま再び軋みを上げて回り始めようとしていた。




