カリバーンの騎士 2
『ちょっとレオン!』
爆音のような大声で、カレンが脚元のレオンに向かって怒鳴りつける。
彼女の声音は通りがよく美しいのだが、ひとたび声を張れば鼓膜を通り越して脳が震えるかと思うほどの声量となる。
ある者いわく、聖堂の大鐘楼。
幼い頃から歌劇の訓練で鍛え上げられた美声は、戦場での指揮を担う守護騎士用に調整された竜騎兵アロンダイトの特殊伝声帯によりさらに増幅され、軽い衝撃波と化してレオンに襲いかかる。
『貴方という人は! 今の今まで一体どこで何を――』
声だけで叩き潰さんばかりの勢いでまくし立てるカレンに対し、レオンは相変わらず平然とした笑顔のまま、片手を上げて制する。
「カレン、そんなことより」
『何ですか!』
「そいつ、まだ生きてるよ」
言われて、カレン、カークス、アウロラの三人が瞬時に身構える。
レオンが指差した先には、カークスが引きずってきた黒い翼竜の死骸。
その黒一色に染まった体のあちこちが、沸騰したように内側から泡を立てて波打っていた
そして、ごぼり、と沼の奥底から腐り果てた空気が湧き上がってくるような音を立てて、それはゆっくりと姿を現す。
夜空から垂れ落ちた濃厚な闇、その汚泥のごとき黒い肉体から這い出てくる、やや小さな個体。
それは翼竜の体とは似ても似つかない、細くしなやかな四肢を持った獣のような生物。
やはり眼も鼻もなく、獲物を喰らうために大きく裂けた口だけという頭を持っていなければ、同じ種類の個体だとは到底思えない姿だ。
瞬間的に、その場の誰もが危険な空気を察知する。
恐らくその大きさからして、この獣のような個体はさほどの力を持ち合わせてはいないだろう。
鋼鉄の装甲で守られた竜騎兵、特にここに集うワイバーン級の武装ならば、多少の攻撃であれば致命傷となることはない。
だが、生身の人間であれば話は別だ。
獣が前脚を折り、尻を持ち上げて、襲撃の姿勢をとる。
その顔に眼は無いが、頭や体の向きから何を、いや誰を狙っているのかは一目瞭然だ。
狙われている当の本人、レオンはそんな獣の姿を正面から見据えたまま動こうともしない。
──ヤバい。
そう感じたカークスが、反射的に攻撃に出る。
自騎ガラティーンの構える武器は、拠点防衛用の大盾よりもさらに巨大な刃を装着された特別製のアクスバンカーだ。
砦の城門なみの重量を誇るその出鱈目な武器を、規格外の剛力を持つガラティーンの腕が軽々と振り下ろす。
小細工も何もない、ただ鋼鉄の塊を振り上げて叩き付けるだけの攻撃。
しかし、それとて凄まじい腕力で繰り出せば、必殺の破壊力を秘めた超高速の一撃となる。
初撃に全身全霊をかけた超短期決戦。
それこそカークスが最も得意とする戦い方なのだ。
が、しかし。
その高速かつ正確無比な一撃が獣の体に達するその前に、カークスの眼が獣の姿を見失う。
消えた、ように見えたが、実際は物体が一瞬で消失することなどありはしない。
要はカークスが知覚できないほどの速度で、獣が動いただけのことだ。
ガラティーンのアクスバンカーが地面を裂き、およそ近接武器が生み出したとは思えない轟音と地響きを立てる。
その刃の下に、やはり獣はいない。
常識外れの駿足。
カークスも、その攻撃を見ていたカレンも、完全に獣の姿を見失っていた。
それでも、ただ一人だけ獣の姿を追い続ける者がいる。
誰もが地面を注視する中、上方を見据えて構える竜騎兵。
クレタナを操るアウロラの視線は、異常な速度で空中へと跳び上がった獣の姿をしっかりと捉えていた。
『上だ!』
アウロラはそう叫びながら自騎が構えていたヘヴィカノンを手放し、脚部に取り付けたハンドショットを高速で抜き払って引き金を絞る。
通常弾頭のものよりやや軽い、乾いた炸裂音が一発。
雷管を叩かれ点火された炸薬が銃口から押し出したのは、一発の弾頭ではなく、亜鉛でできた無数の小さな球体だ。
“点”で攻撃する通常弾頭とは違い“面”で攻撃を行う散弾は、高速で動く対象にダメージを与えるには最適と言える兵器だろう。
亜鉛弾の質量は小さく、一発の威力は小さなものだが、密集した小さな衝撃は面全体で見れば予想外の破壊力を生みだす。
獣は首筋から腹部にかけてを散弾でずたずたに引き裂かれ、泥のような血を噴き出しながら夜の闇の中へと落下していった。
それでも、獣はまだ生きていた。
いや正確には、生きている部位があったと言うべきか。
使い物にならなくなった半身をさらに切り捨て、うまくバランスが取れなくなった四肢もまた同様に捨て去る。
残ったのは頭部と脊椎を含む胴体の一部。
こうなれば獣というよりは、蛇のように見える。
その蛇が地面を這い、凄まじい勢いでカレンたちから離れて行く。
勝てないと理解したからかどうかは不明だが、この場からの逃げ出そうというのだろうか。
『おぉ、速い速い。もう私でも見えなくなっちゃった』
どうするのさ大将、とアウロラが尋ねると、レオンが肩をすくめて答える。
「またどこで融合するからわからないし、放っておくわけにもいかないよね」
とは言うものの。
相手は視力において圧倒的に優れたクレタナの騎体能力をもってしても捕捉できない獲物だ。
仕留める方法はそう多くない。
「カレン、頼めるかな」
やはり場違いで、どこか抜けたような笑顔を浮かべてレオンは頭上のアロンダイトへと声をかける。
カレンはわざと聞こえるよう大仰に溜息を吐く。
『それは命令ですか? 言っておきますが貴方の指揮権は――』
「わかってる、ただの“お願い”だよ」
その言い方が勘に障る。
レオンの指揮権は、彼自身の意思により、すべてカレンに委譲されている。
君がやった方が上手くいく、などと、冗談か本気かわからないような理由で。
ともかく、レオンは総指揮官でありながら、この軍の誰にも命令できる立場ではないのだ。
だからこそ、彼は“お願い”と言う。
けれども、だからこそ、カレンは断ることができない。
じゃあ、と彼女は、どこか諦めたように呟きながら。
『仕方ありませんね』
槍のように細く長い銃身のロングカノンを、カレンのアロンダイトが膝立ちの姿勢で構える。
銃底は腕に付け根に当て、左手をバレル下部に添えて固定。
薬室内に込められているのは、飛距離と貫通力のみを追求した特殊弾頭。
通称“鱗砕き”と呼ばれる長距離狙撃用の対竜弾だ。
本当に拒否するつもりなどない。
ただ面倒事を押し付けられた腹いせに、ほんの少し上からものを言ってみたかっただけだ。
子供じみた、くだらない自己満足に過ぎない。
短く数回の呼吸を繰り返し、カレンは竜核に意識を集中する。
眼を閉じれば、アロンダイトの視界も遮断し、意識を闇の中に沈める。
今度は大きく息を吸い、腹の底、喉の最奥から声を絞るように吐き出す。
周囲には、どこか物悲しい笛の音に似た音が響き始めた。
音の発生源は、カレンの乗るアロンダイト。
長銃を構えた銀狼が、闇夜の彼方へと静かに吠える。
*****
闇夜に歌う。
誰にも聴こえない、私だけの歌。
夜風に乗り、木々を掻き分け、遠く遠く獲物の元へと響き渡る。
どこへ逃げようと無駄なこと。
お前の位置は――聴こえている。
お前の肉体が、いや周囲のすべてが、私の歌に共鳴している。
*****
カレンがトリガーを引いたと知覚したのは、射撃時の反動でアロンダイトの騎体が大きく揺れた後だった。
ほとんど無意識に射線を合わせ、引き金を引いた。
さして驚くようなことではない、いつものことだ。
直後に、眼には見えない遥か遠方で、軟泥の塊が地面に落ちたような音がしたのをカレンの聴覚が捉えた。
それきり、蛇が動く音はもう聴こえてこなかった。
『仕留めました』
と、ありのままを伝えた後。
『北西の森林に中型の個体が二匹、さらに東側に大型が一匹。どちらも味方と交戦中です。カークス、アウロラ、援護に向かってください』
淡々と、そう告げる。
「お見事、さすがだね」
そんな風にレオンは笑い、拍手のつもりか手を叩く。
「で、今回も僕の出番は無し?」
続けてそう言った声音が、カレンには少し不満げに聞こえた。
いや、彼が実際に不満に思っていることは知っているけれども。
しかし答えは決まりきっているのだ。
『そうです、レオン。貴方の出番はありません。この先も、ずっと』
黄金の獅子カリバーン。
王国の至宝。
最後の護り手。
それが必要なのは、その他すべての戦力が潰えた時のみ。
カリバーンは王国と女王陛下を護るために。
そして我らアヴァロン騎士団は、カリバーンを護るために存在しているのだ。
本当は、僕とカリバーンが君たちを護るはずなのにね。
そう言ったレオンの悲しそうな瞳を思い出しながら、カレンは汗で額に貼り付いた前髪を掻き上げる。
夜空のような黒い髪が数本、結晶化して青色に変色し、やがて砕けて塵となった。




