帰還 2
寄生竜討伐戦から数日後。
「失礼いたします」
張りのある、それでいて澄んだ少女の声と共に、豪奢な作りの扉が開かれる。
扉の向こうから現れたのは、真紅のドレスに身を包んだアーデだった。
窓から差し込む真昼の光が黄金の髪に反射し、小さな宝石を散りばめたように輝く。
その手には、採掘場内でアヴァロン王国の竜騎兵から回収した、あの金属製の円筒が握られていた。
ここはオスタリカ皇国の首都ルーベルンに建造された宮殿の一室。
煌びやかに飾られた室内には特大のベッドが置かれ、そこにはひどく顔色の悪い壮年の男が一人、体を横たえていた。
アーデは男に向かって深々と礼をする。
「ご無沙汰しております、お父様。先日の討伐戦にて回収しました、アヴァロン国よりの書簡をお届けに上がりました」
お父様、と彼女に呼ばれた男は、柔和な笑みを浮かべて頷く。
彼こそアーデの父親、つまりは皇国の最高権力者であるオスターク皇、その人である。
「お前は相変わらずだな、アーデレード。野山を駆け回って傷だらけになっていた子供の頃と何も変わらん」
やや呆れたような口調で、オスターク皇は言う。
それもそのはず、アーデは衣装こそ普段とは違って皇族らしいドレス姿なのだが、その隙間から見える首元、腕、そして頭などいたる所から、包帯や湿布といった治療跡が覗いているからだ。
アーデは、そんなオスターク皇の言葉に苦笑いを浮かべながら、ベッドへと歩み寄る。
「お陰で面倒な縁談話などに煩わされることなく、国護の任に全力を尽くせるというものです。守りの要たる皇竜騎の乗り手が嫁入りで引退など、冗談にもなりませんから」
確かにその通りなのだが、実の父親であるオスターク皇にとっては複雑な思いである。
「お前にクラウソラスを継がせたのは、間違いだったかもしれんな」
と、出し抜けにオスターク皇がそんな言葉を漏らす。
「私では力不足でしょうか?」
一瞬で表情を引き締めたアーデに対し、オスターク皇はかぶりを振って応える。
「そうではない、むしろ逆だ。お前は竜騎兵乗りとして優秀すぎるし、自分の背負った任に忠実すぎる。もう少し、一人の女として幸せを追い求めてもよいだろうに」
冷静に考えれば、誰もが違和感を覚えるはずなのだ。
二十歳にも満たない、美しい年頃の少女。
しかも本来なら最も安全な場所で暮らしているはずの皇族の姫君が、騎士に混じって竜騎兵を操り、最前線で竜と殺し合いをしているのだから。
そんな状況に誰も疑問を抱かないのは、既に彼女が“竜狩り姫”として完成された存在になりつつあるということだろう。
だが、それはつまり、彼女は一人の少女ではなく、力の象徴として偶像化しているということでもある。
お父様、とアーデは静かに言い、一つ息を吐いて続ける。
「例えば誰かと結ばれて、子を生み育てることが女の幸せだったとしても、私は剣を取るでしょう。そうすることで、もっと沢山の人が幸せに生きることができるかもしれない。私には、その可能を捨て去ることが、どうしてもできないのです」
不出来な娘で申し訳ありません。
アーデはそう言って、何かを悟り切ったような、綺麗な微笑みを浮かべる。
オスターク皇も彼女の顔を見て、諦めたような笑みを漏らす。
「話が逸れたな。では書簡をこちらへ」
その表情も口調も、もはや父親のそれではない。
一国の王が、家臣に接する時のものだ。
アーデもまた、親子の時間が終わったことを感じ取り、表情を引き締める。
「はい、こちらになります」
と、固く閉ざされた円筒の蓋を外し、アーデは中身の書状をオスターク皇へと手渡す。
蓋に刻まれた紋章は、騎士団でも議会でもなく、アヴァロン女王のものだった。
つまりこれは、かの国を治める女王自らが、オスターク皇へと宛てた書状である。
その中身は、例え皇族であるアーデでも勝手に見ることは許されない。
オスターク皇は、中に収められた数枚の書状を手に取り、ひとしきり内容を読み終えると、うむ、と低い唸り声を上げた。
「お父様、書面にはなんと?」
アーデが尋ねると、オスターク皇は書状を彼女の方へと差し出した。
「西のアヴァロン、北のヴァルツヘイム、そして我が東のオスタリカ。この三国で同盟を結び、陸路と海路を整備して軍事的協力体制を築こうという提案だ」
早い話が、強大な竜が現れた場合、三国が力を合わせてこれに対処するといった内容の提案である。
その中には当然、それぞれが保有する皇竜騎の遠征も含まれる。
「調和を重んじるアヴァロン女王らしい提案です。しかし、問題はヴァルツヘイムです」
「なに、オスタリカとアヴァロンが手を組めば、彼らも無視はできまい」
随分ときな臭い同盟ですね、とアーデは苦笑する。
「なぁ、アーデレードよ」
オスターク皇は静かに語りかける。
「お前がどれだけ強かろうと、一人ではどうにもならぬ時もあるだろう。それと同じだ」
人は竜のようには進化できない。
一人では生きられないように、一国だけでは守り切れなくなる時が、必ず来る。
「例えばすべての人間が一丸となっても、竜には勝てないのでしょうか?」
アーデは、他の誰にもしなかった問い掛けを、父親であるオスターク皇へと投げかける。
「わからんよ」
老皇はただ目を閉じて、静かにそう答える。
「未来のことは誰にもわからん。明日が本当に来るのかどうかさえ、確かめる方法はないのだから」
*****
同刻、ベルカイン城塞。
ユーリは城塞を取り囲む外壁の上で、何をするでもなく、ただ空を眺めていた。
急激に伸びた赤毛は城の理髪師によって切り揃えられたが、任せきりにした結果、後頭部のみ長いままで残され、紐で縛られて尻尾のように垂れている。
なんでも皇都で流行している髪型なのだそうだ。
別に興味はないが、特に不便でもないのでそのままにしてある。
討伐戦が終わり、今までならば報酬を受け取ってすぐに出立していたところだが、今回はそういうわけにもいかない。
カーラは旅のできる状態ではないし、竜騎兵も修復が済んでいない。
そして何より、行き先を決める人間が、もういないのだ。
「なんだ、こんな所にいたのかい」
不意の声に振り返ると、そこには杖をついたカーラが立っていた。
一命は取り留めたものの、その体には決して軽くない後遺症が残っている。
右足は引きずるようにしか動かせず、そして最も目立つ傷は、顔の左半分を覆った火傷の跡と、視力を失い白濁した左目だ。
ユーリは、そんな彼女の姿を直視できず、視線を逸らす。
もう戦えなくなったその姿を憐れんだわけではない。
彼女をそんな風にしてしまったのは、他でもない、ユーリ自身の力なのだ。
なぁユーリ、と石壁に背中を預けたカーラが切り出す。
「お前、この先どうするんだい」
その問い掛けの答えを、ユーリはすぐに出すことができなかった。
自分なりの答えが無いわけではないが、言葉にできない、そんな気分だ。
アーデの言う通り、自分の気持ちを正しく言葉にするのは、とても難しい。
なかなか答えを返さないユーリを尻目に、カーラは溜息をひとつ吐いて言う。
「実はね、アーデ姫が、この国に残らないかと言ってきた。根無し草の傭兵にとっちゃ、夢みたいな話さ。こんなチャンスは二度と無い」
それは彼女の言う通りだ。
難民など珍しくもないこのご時世、移民の受け入れにはどこの国も慎重にならざるをえない。
下手をすれば、あっという間に食糧需給が追い付かなくなり、国が崩壊しかねない。
相手が傭兵などという野蛮な連中なら、なおさらだ。
「別に、こんなになっちまったから言うわけじゃないけどね」
と、前置きをしてカーラは続ける。
「もう歳なのかね、静かに暮らすのも悪くないって、そんな風に思ったんだよ」
そんなことを話す、いつになく寂しげなカーラの声に、ユーリは思わず彼女の顔を見る。
彼女は何かを悟ったような、諦めたような薄い笑みを浮かべながら、真っ直ぐにユーリの目を見返していた。
それで。
お前はどうするのだと、耳元で誰かが囁いた気がした。
“竜殺し”よ、お前はどうするのだ。
俺は――と、ユーリは言葉を切り出す。
きっとそれを言い終えたら、もう二度と、これまでのような日々は戻ってこないと、確信めいた予感を感じながら。
正しい言葉でないかもしれない。
複雑に混ざり合った様々な思いを、伝えきれないかもしれない。
それでも、ゆっくりと。
ゆっくりと、自分の言葉で、自分の望む道を、彼女に伝える。
「馬鹿野郎が」
カーラはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、ユーリの方へ歩み寄り。
まだ自由に動く左手で彼の首を引き寄せて、いつの間にか自分より大きくなっていた彼の体を、抱きしめ続けた。
*****
「喜べカーラ、お前たちの移民受け入れについて許可が下りたぞ」
皇都ルーベルンから数日ぶりにベルカイン城塞へと戻ったアーデは、真っ直ぐにカーラたちの元へと吉報を伝えに出向いた。
が、集まっていたのはカーラ、アーベル、サイラスの三人のみだった。
「あれ、ユーリはいないのか?」
というアーデの問いに、一同は言葉を濁す。
「あー、姫様よ。その件についてなんだが……」
しどろもどろになりながら言うアーベルを尻目に、カーラがぴしゃりと言い放つ。
「出て行ったよ、一人で」
それ以上でも、以下でもない。
事実のみを。ありのまま簡潔にまとめた一言だ。
これにはさすがのアーデも、呆れるなり憤慨するなり大きな反応を示すと、三人の誰もが思っていた。
しかし、予想に反してアーデの反応は、実にあっさりしたものだった。
「そうか、やっぱりな」
彼女も、なんとなく、そんな気はしていたのだ。
穏やかに草を食む羊の群れの中で、獲物を殺す力を持った狩人は生きてはいけない。
彼女が華やかで安全な貴族の世界に背を向けて、戦場へと身を投じるように。
彼もまた、理由はなんであれ、戦うことをやめられないのだろう。
あーあ、とアーデは無邪気に笑う。
「あいつ、せっかく私の騎士団に入れてやろうと思ったのに」
勿体ないだとか、せめて挨拶くらいして行けだとか、どうでもいいけど長髪なんか似合わないだとか。
そんな風に次々と悪態を吐きながら。
彼女はずっとずっと、窓の外の遠い景色を眺め続けていた。




