邂逅 1
ぼやけて拡散していた意識が、ほんの少しだけ覚醒する。
ふと気が付けば、目の前に見知らぬ女性がいた。
彼女は花弁のように柔らかな笑みを浮かべながら、しきりに口を動かしている。
だが、その声はまったく聞こえてこない。
誰だ?
何を言っている?
彼女はなおも微笑みながら、話し続ける。
まるでこの世で一番の宝物を見付けたみたいに。
それから。
優しく、優しく、自分の腹を撫でた。
*****
『ずいぶんと景気よく暴れてるじゃないか。そんなに楽しいのかい?』
カーラは挑発的な口調で言い放つ。
片手斧を投げつけた右手には、すでに小型のバリスタが握られており、その照準はしっかりとブリューナクへと向けられている。
数瞬の沈黙。
続いて、鼻で笑うような音が、ひとつ。
何も答えないと思われたブリューナクだったが、意外にもカーラの言葉に反応した。
『楽しい、か』
腹の底から沸き上がるような、重く厚みのある男の声。
ブリューナクから聞こえる声は、やはりカーラが呼んだ通り、ジークのものだ。
彼はほんの少し、何かを考えたような間を開けて、くくっと静かに笑った。
『そうかもしれんな。これは楽しいと、そう表現してもいい』
少し迂遠で、皮肉っぽい物言い。
いつも通りのジークだ。
だがカーラには、彼がいつもの調子であることが、逆に苛立たしく感じられた。
『笑わせるなよ、ジーク』
そう言いながら、カーラの声はまったく笑ってなどいない。
笑えるわけがない。
かつて“竜殺し”と呼ばれた男は。
飄々とした態度の裏で、誰よりも竜を憎んできたその男は。
もう、敵と味方の区別すら、まともにできていないのだから。
『なぁジーク、あんたの戦いはもう――』
もう、終わってるんだよ。
どこか子供に言い聞かせるように、カーラは語りかける。
敗竜症を患い、竜騎兵に乗れなくなった時点で、彼の戦いは終わったはずだった。
だが、彼は見付けてしまった。
そして選んでしまった。
味方を皆殺しにしてでも、竜と戦う道を。
*****
『おいおい、マジかよ……』
アーベルが独り言のように呟く。
寄生竜の動きを止めている炎の壁は、いまだに勢いよく燃え上がっている。
だが、その向こう側で、ゆらりと大きな影が立ち上がったのが見えたのだ。
ぎしぎしと不快な音を立てて動くそれは、先ほど見かけたサーペント級竜騎兵、バルディッシュだ。
もちろん、動かしているのは人間ではない。
黒ずんだバルディッシュの装甲には、無数の白い物体、寄生竜の幼生体が張り付いていた。
おそらく、以前カーラがサイラス騎と戦った際と同じく、戦術的な動きは特別に警戒するほどではないだろう。
厄介なのは非常に強い筋力と、それを活かした分厚い装甲。
相手に武器はないものの、バルディッシュは大盾と大型バンカーを構えて整列し、そのまま正面から突撃するよう設計された竜騎兵だ。
対竜騎兵戦闘を前提とした重装甲は、真正面なら小型のバリスタ程度は弾いてしまう。
この狭い通路内で突進でもされようものなら、それだけで隊列が崩壊しかねない。
その時、サイラス騎の振った手斧の一撃が、ようやく後方に脱出口を開いた。
『よし、後退だ後退! お前ら先に行け!』
アーベルはそう言い放つと、自騎のポーチからバリスタの予備弾薬をいくつか取り出す。
人間の腕ほどもある金属製の円筒には、強い発火性を持った火薬がぎっしりと詰まっている。
アーベルは弾薬を防塵布に包んでひとまとめにし、残ったカンテラの油をそれに染み込ませた。
『おいアーベル! 早くしろ!』
急かすサイラスの声を聞きながら、アーベルは自騎を出口へと向かわせる。
そのアーベル騎を、思わぬものが足止めした。
『うおぁっ!』
騎体が、がくりと大きく揺れて、その反動で間抜けな声が漏れる。
何かに脚を取られて、バランスを大きく崩したのだ。
アーベルが脚元へと視線を移すと、自騎の右脚に白いものが付着している。
それはホール内を覆い尽くすものと同質の、粘糸だった。
『どうした!』
声を聞き付けたアーデが、クラウソラスの脚を止める。
『畜生! 脚が動かねぇ!』
アーベルはすかさず自騎の小型剣を取り出し、脚にべっとりと絡みついた粘糸を剥がしにかかる。
粘糸はすぐ目の前の壁から伸びているようだが、よくよく見ればそうではなかった。
真っ白に塗りつぶされた壁を、まったく同じ色の何かが這い回っている。
それは完璧なまでの保護色を持った、巨大なクモのような生物。
おそらく寄生竜の一種と思われるそれが、肥大化した腹部から粘糸を噴き出し、アーベル騎を捕えていたのだった。
『死ね! クソ野郎!』
そんな叫びを上げながら、アーベルは眼前のクモ型寄生竜へと小型バリスタを連射する。
兵士型のような堅い外殻を持っていないのか、クモ型の寄生竜は鉄矢の雨を浴びせられ、紫の体液を派手に撒き散らす。
これまでの個体に比べれば、拍子抜けするほど弱い。
あくまで、単体ならば。
バリスタを操っていた左腕が、粘糸の束に捕縛される。
続いて肩、腰、頭とあらゆる部位を強靭な粘糸を絡め取られ、アーベル騎はあっという間に身動きが取れなくなってしまった。
この状態になって初めて、知らぬ間に、音も無く忍び寄る無数のクモ型に包囲されていたことに気付く。
先ほど出口が忽然と消えたのも、これらの仕業だろう。
獲物の退路を断ち、粘糸で動きを封じて幼生体の餌とするのがクモ型の役割だ。
『アーベルこっちだ! 跳べ!』
踵を返したアーデのクラウソラスが、アーベル騎へと駆け寄る。
このままでは、周囲で干乾びている死体と同じ末路だ。
アーベルは危険を承知でグラディウスの胸部装甲を開け放ち、自騎へと伸ばされたクラウソラスの右腕へと跳び移る。
竜騎兵の装甲には、各部にカンテラを引っ掛けるのと同じようなハンガーがある。
アーベルは自分のベルトに巻いたフック付きのロープを伸ばすと、クラウソラスの腕部ハンガーに先端を取り付けて体を固定した。
戦場で歩兵を運搬する場合に、よく用いられる方法である。
グラディウス一騎を放棄するのはやや痛いが、命には代えられない。
それに、長年乗ってきた愛騎には、相応しい散り様も用意してある。
「アーデ姫! 合図したら全力で後退しろ!」
言いながらアーベルは小型の発光筒を取り出すと、それに着火し、自騎が持つ布袋のようなものへと投げつけた。
それは先ほどアーベルが防塵布で作った、弾薬入りの袋だ。
油をたっぷりと吸い込んだ布は、発光筒から絶え間なく飛び散る火花を受け、一気に燃え上がる。
「よし行け行け!」
アーベルの合図と共に、クラウソラスが後方へと跳びずさる。
前方を見れば、完全に立ち上がったバルディッシュが突進を始めていた。




