竜の子
「説明してもらおうか、ジーク」
戦場となった森からやや離れた位置にある、朽ちた監視塔跡。
遥か昔に打ち捨てられた建物は半分崩壊しており、赤みがかってきた西日が穴だらけになった壁の各所から細く差し込んでくる。
ジークが手近な椅子に腰を下ろすと、長年に渡って風雨にさらされ堆積した土埃が舞い上がり、徐々に薄くなる光の帯の中できらきらと小さく輝いた。
「まぁそう焦るな」
と、言いつつジークは舞い上がった埃を手の平で払い、軽くひとつ咳払いをした。
「事ここに至っては隠し通すのも難しい。すべて話してやるさ」
彼はいつも通り、何事もなかったように落ち着いていた。
ユーリはその傍らで仰向けに寝かされ、死体のように一切の生命反応を見せない。
白い外套で包まれた体がひどく小さく見えて、カーラは奥歯を強く噛み締める。
やはりどう見ても死んでいる。
心臓の鼓動もなく、呼吸もないまま、既に半日が過ぎていた。
「本当に生きてるんだろうな、こいつは」
怪訝そうな表情でカーラは尋ねる。
当たり前だ。いくらジークの言葉とはいえ、この状態で生きていると言われても到底信じることはできない。
ただひとつ、体温だけは失われていないという事実が無ければ、彼の正気を疑っていただろう。
「正確には生きているわけじゃない。死んではいるが、仮死状態というやつだ」
ジークが言うには、致命的なダメージを負ったユーリの体はあらゆる機能を停止し、ただ回復にのみ生命力を注ぎ込んでいるらしい。
大型の肉食獣が越冬のために眠り続ける、そんな状態に近いとジークは説明した。
もちろん、そんなことはまともな人間には不可能だ。
「やっぱり……」
こいつは普通の人間じゃないんだね、とカーラは小さく呟く。
その視線は、今は動かないユーリの顔だけを捉えていた。
*****
森での戦闘後、負傷したオーダン隊の護衛としてアーベルおよびサイラスを本陣へと帰し、ジークとカーラは別の方角から森を抜けた。
ユーリが乗っていたグラディウスは、ジークがその手で竜核を破壊してしまったので、カーラ騎パルチザンが残った右腕にユーリを抱えて移動する。
落下の衝撃で脚部の関節が損傷している上、放っておけば自然再生したところを寄生竜に利用される恐れもあるため、放棄せざるを得ない状況だった。
竜核を破壊された竜騎兵は、生きている竜と同じく時間と共に組織崩壊を始め、人工の装備を除いて跡形もなく消滅してしまう。
多少の個体差はあるものの、一日か二日程度で完全に塵となるだろう。
運よく新手の竜にも遭遇せずに森を抜けることに成功したものの、ジークはどちらかと言えば味方に発見されることを警戒しているように見えた。
一体何をそんなに恐れているのか、カーラには皆目見当もつかなかったが、その時は状況が状況だけに、ジークの指示に従うしかなかった。
まだ生きている、助かると、彼は取り乱したカーラに対してそう言った。
その辺りの記憶はひどく曖昧で、カーラ自身は自分が何をわめいていたのかすら思い出すことはできなかった。
自分にもそんな感情があったのだな。
落ち着きを取り戻した彼女は、ただ漠然と、他人事のようにそう感じていた。
あたしはお前の母親じゃないんだよ、甘ったれるな餓鬼が。
まだ小さかったユーリに対して、彼女がよく言った台詞だ。
それがどうだ、いつの間にか母親ヅラをしていたのは自分の方ではなかったか。
戦い方を教えようとした。
この糞みたいな世界で、生きていく方法を教えようとした。
その結果がこれだ。
こんな子供に武器を持たせて、戦場に駆り出して。
挙句の果てに、自分たち大人だけが五体満足で生き残って。
酷い生き様だなと、カーラは自嘲するように力なく笑った。
そうして呆けたように歩き続けて、気が付けばこの廃墟へと辿り着いていた。
*****
「ユリンガルドを覚えているか」
ジークは徐々に薄暗くなる空を見上げながら、そう聞いた。
「忘れるわけがない。こいつと、“あれ”を拾った場所だ」
十数年前に訪れた無人の城塞都市、今は亡き小国ユリンガルド。
そこでジークたちは、ユーリを拾った。
正体不明の白い竜騎兵と共に。
竜騎兵に牽引させる大型の荷車の中で保管されているユリンガルドの遺物。
それは回収時から一度たりとも動かされることはなく、今までずっと眠り続けてきた。
「あの時、白い竜騎兵の中にはもう一人の男がいた。ユリンガルド騎士団の長、ヴォルトールという名の男だ」
「ちょっと待てジーク」
確か記憶では、そいつは白い竜騎兵の中で既に息絶えていたとジークは言ったはず。
どうして彼の名を知っているのか。
そんなカーラの疑問を見透かしたように、ジークは続ける。
「息を吹き返したんだよ。奇跡なのか何なのかわからんが、とにかく意識を取り戻して、あの男は俺にすべてを語った」
何を話したというのか、この期に及んでは質問するまでもない。
ユーリのこと。この少年に隠された何か。それで間違いないだろう。
ジークは相変わらず空を眺めながら、見えない誰かに話しかけるように、静かに語り出した。
「ヴォルトールはな、これは竜の子だと言っていたよ」
竜の子。
その言葉を聞いたカーラは、馬鹿にするように鼻で笑う。
「何の冗談だそりゃ。こいつが竜の腹から生まれたとでも?」
そんな与太話を聞きたいんじゃない、と苛立ちを露わにするカーラだったが、振り向いたジークの表情は真剣そのものだった。
「カーラ、人間は竜に勝てるか?」
唐突に、ジークはそんな質問を投げかける。
それは誰もが一度は考え、そして意図的に忘れ去る疑問。
進化した竜が現れれば、人類はそれに対抗してより強力な兵器を作り出してきた。
竜騎兵がその最たる例だ。敵が強力ならば、その力を利用してしまえばいい。
だが、竜騎兵にも既に限界が見えてしまっている。
結局のところ、人間には竜の力は使えないのだ。
いかに強力な竜を素体にしたところで、火を噴くことも、海を渡ることも、空を舞うこともできない。
ならば、導き出される答えはひとつだ。
「このまま竜が進化し続ければ、いずれは負ける」
それが誰もが行きつく結論だ。
だから考えることを放棄する。
考えれば、戦う意味を見失ってしまうから。
「そうだな、負ける。人間は竜の進化に着いて行けなくなるだろう。だが、ユリンガルドの民はそれを根本的に解決しようとした」
新たな兵器を作るよりも、もっと効率的な方法で。
「竜の力を奪おうとしたんだよ、彼らは。人間に竜核を埋め込むことでな」
「なんだって?」
カーラは思わず驚きの声を上げる。
当たり前だ、そんなことが可能とは思えない。
彼らは竜になろうとした、とでもいうのか。
「始めは単に成人へ竜核を埋め込もうとしたらしい。だが竜核は拒絶反応を起こし、失敗した。ならば生まれる前に竜核と融合させれば、と彼らは考えた」
母体の子宮内に竜核を埋め込み、その状態で子を成す。
そんなものは最早、正気の沙汰ではない。
ただの狂気の産物か、人の未来のためか。
何が彼らをそこまで駆り立てたのか、今となっては知る由もない。
それを語る人間は、もうこの世に残されてはいないのだ。
「それがユーリだって言うのか……?」
カーラは詰まる息を押し出すようにそう尋ねる。
ここまでの話から、その答えは容易に想像できたが、それでも聞かずにいられなかった。
「十人の母体が被験者となったそうだ。その中から、唯一まともな人間として生まれてきたのがユーリだ。俺が聞けたのはそこまでさ。他の赤子がどうなったのかは知らんし、知りたくもない」
ジークはさして興味も無さげにそう言うと、一度深く呼吸をしてから話を続ける。
「俺だって半信半疑だった。実際、これまでは普通の人間と何ら変わりはなかったしな。しかし、こんなものを見てしまえば信じざるをえまい」
言いながら、ジークはユーリの体を包んだ外套を取り去る。
無惨に空いた脇腹の穴は純白の結晶で完全に塞がれているのだが、結晶は徐々に周囲の肉と同化し始めていた。
傷の大きさは半日前に比べて明らかに小さい。
「恐らく、こいつの体は竜と同じだ。竜核を破壊されない限りは再生し、そう滅多なことでは死なんだろう。もっとも――」
それが幸運なことだとは限らんが、とジークは付け加えた。
生きていればそれだけで幸運だ、と言う奴らもいる。
しかしそんなものは、真っ当な生きられる人間にだけ許される理論だ。
カーラの故郷は、ずっと昔に人間同士の戦争によって滅びた。
捕虜となった彼女に残された選択肢は、奴隷として生きるか、戦奴となって竜と戦い死ぬかの二つだけ。
そして後者を選んだ先に待っていたのは、捨て駒、消耗品、そんな呼び方が相応しい日々。
結局、彼女は脱走するまでの間、一度たりとも人間として扱われたことはなかった。
人間は、自分と違う者たちには驚くほど冷酷になれることを、カーラは知っている。
ユーリもまた、同じような運命を辿るのだろうか。
事実が明るみに出れば、ただでは済むまい。
迫害、実験体、兵器。
ほんの少し考えを巡らせただけで、ろくでもない話がいくらでも脳裏に浮かんだ。
いっそどこかの国で、ひっそり暮らせばいいのだろうか。
いや、それは無理だ。
竜に対する異常な殺害衝動。
恐らく、ユーリは戦うことをやめられない。
本能の赴くまま戦って、戦って、一心不乱に戦い続けて。
そして最後には化物扱いされて、追い立てられる。
彼は、そうなるようにしか、作られていないのだ。
不意に、カーラは座ったままのジークの元へと歩み寄り、いきなり右手で胸ぐらを掴んだ。
「あんたは、そこまで知ってて、こいつを竜と戦わせたのか」
今にも殴りかからんばかりの剣幕だったが、ジークはまったく動じた様子も無く、平然と答える。
「その通りだ、言い訳はせ――」
ジークの言葉はそこで途切れた。
言い終える前に、カーラの左拳が頬に叩き込まれたのだ。
女とは思えない、大の男を一撃で昏倒させるほどの剛腕。
竜騎兵からの感覚逆流で左手には今も激痛が残っているはずだったが、それがどうしたと言わんばかりの、鮮やかで、強烈な一撃だった。
しかし、ジークは口角から血を流しつつも、なお取り乱すこともなく冷静さを失わない。
「気は済んだか?」
「いいや」
続けざまに、今度は右手でもう一発。
負傷もなく、利き腕ということもあって、先ほどよりも重い一撃が頬を打つ。
左拳は難なく耐えたジークだったが、これにはさすがに苦悶の声を漏らした。
「あんたは、こいつを復讐の道具にするつもりだろう。もう自分じゃ敵わないからって、竜殺しが聞いて呆れる。そんなに憎いのかい、無限竜が」
その言葉を聞いた瞬間、ジークの目が、ほんの僅かだけ殺気を漂わせたように感じられた。
無限竜。
その名の通り無限に増殖し、数十年に一度だけ、国ひとつを丸ごと呑みこむほどの捕食を行う竜だ。
途方も無く巨大な黒蛇に見えるが、実際は数千数万の同一個体からなる群生体で、竜核を持つ本体はそのうちただ一匹であると言われる。
それが、何十年もの間、ジークが放浪しながら追っているものだ。
「あれは、あの竜は必ず殺す。どんな手段を使ってもな」
ジークは、そうはっきり口にしたが、俺が殺す、とは言わなかった。
「あたしは、こいつが一人で生きられるようになったら、どこかへ置いて行こうと思ってたんだ。無限竜と戦おうなんて、自殺行為に巻き込みたくなかった」
だが、もう手遅れだ。
無限竜が姿を表せば、ユーリは戦いを挑むだろう。
例えその結果、死ぬとわかっていても。
「あの白い竜騎兵、あれにユーリを乗せる気なのか」
間違いなくそうだろうと確信しながら、カーラは尋ねた。
ユーリの能力は扱う竜騎兵によって変わる。
リザード級のグラディウスですらあの有様なら、それ以上の等級ならばどれほどの能力を発揮することができるのか、見当もつかない。
「まさか、あのキワモノにも何か仕込んであるんじゃないだろうね」
四本腕に複座式という異形だ、尋常のものでないことは容易に想像できる。
ただの酔狂と思っていたが、ここに至ってはあれも何かの仕掛けが施してあるとしか思えない。
「当然だ。あれはユーリ、いや竜の子を乗せるために造られた竜騎兵らしいからな」
もう隠すつもりもないのだろう。
ジークはあっさりとカーラの問いに答えた。
「それもヴォルトールとかいう奴の話かい」
「あぁ、そうだ。もっとも、聞いたのは名前と等級だけだがな」
そしてジークは、その名を口にする。
皇竜騎ブリューナク。
ジークたち以外にはまだ誰も存在すら知らない、新たな皇竜騎だ。




