忘我
世界が燃えていた。
街も、人も、空気でさえ、何もかもが真っ赤に燃え上がっていた。
その中に一人立ち尽くして、世界が灰になっていくのを、じっと見つめている。
誰かが言った。
お前は生き残らねばならぬ。
お前は戦わねばならぬ。
お前は殺さねばならぬ。
それから小さく一言。
許してくれ、と。
とても悲しげな声で、囁いた。
そうして、全てが燃え尽きる。
空も、大地も、悲しげな声も、自分自身の体も白い灰になって。
それでも消えぬ灼熱の炎と意識だけが、何も無くなった世界に残された。
*****
胸部の操縦席を覆う部分のみを残し、ほとんどの装甲を脱ぎ捨てて裸同然となったユーリ騎が、地面に這いつくばるような姿勢で構える。
その細い尾は、まるで罪人を追い立てる獄首の鞭のごとく何度も地面に叩きつけられ、背後の地面を抉りながら威嚇するように音を立てていた。
そう、それはまさしく威嚇だ。
グラディウスの素体となった陸生竜、原走竜にはそうした習性がある。
群れを作らず、常に一匹で行動し、馬で三日という距離を一夜で駆け抜ける駿足で獲物を捉え、無慈悲に貪り食う草原の狩人。
その猛々しいまでの野生を剥き出しにして、ユーリの駆る、いやユーリに駆られたグラディウスタイプの竜騎兵は、獲物を見つけた獣のように低い唸り声を上げ続けていた。
木々がざわめき、空気が震える。
羽虫の放つ見えない衝撃が、再びユーリ騎を狙っているのだ。
その動きを察知するや否や、ユーリ騎は断続的に振っていた尻尾をひときわ強く地面に叩きつけると同時に、天高く、跳躍した。
*****
まるで冗談のような光景だった。
木々の間を縦横無尽に飛び回る羽虫を、竜騎兵の巨大な影が矢のような速さで追い立てる。
見えない攻撃を跳び上がってかわしたユーリ騎は、そのまま近くの大木の幹をへし折らんばかりの勢いで蹴り飛ばし、さらに勢いを増して空中の羽虫に跳びかかったのだ。
そこから繰り出される一閃。
ユーリ騎は右手に持った小型剣で羽虫に斬り付けたが、羽虫は恐るべき反射速度でさらに高度を上げ、疾風のごとき速さの急襲を、ほんの僅かのところで回避していた。
だが、ユーリ騎の動きはそこで止まらない。
巧みに尻尾を振り回し空中で姿勢を変えたユーリ騎は、着地すると同時に、並外れた脚力で再び高く跳び飛び上がる。
今度は真っ直ぐ羽虫に向かうことはなく、先ほどと同じように巨木を蹴り飛ばし、その先でさらに別の木を足場として、木々の間を縦横無尽に跳び回りながら凄まじい勢いで高度を上げていく。
それは常識的な竜騎兵の動きとはほど遠い、異常な動きだ。
木の幹を蹴る瞬間、ユーリ騎はその尻尾を振り回す遠心力を利用して、逆さに落とした猫が空中でそうするように、騎体の向きを変える。
そんなものは、およそ人間の平衡感覚と反射神経で行える動きではない。
第一、そこまで緻密に尻尾を振ること自体が普通の人間には不可能だ。
その場の誰もが、目の前の戦いを黙って見守るしかなかった。
当然だ、あんな動き誰にもできるはずがない。
『ジーク……何なんだあれは……』
考えてもわからない、答えを求めてカーラは呟く。
それに対し、ジークは彼女の方に目もくれず、短く問い返した。
「お前には、あれが何に見える?」
何に?
あれは。
そう、あれはまるで――
口を開きかけて、カーラは大きくかぶりを振る。
言ってはいけない。
言えばもう、あの無愛想で生意気な赤毛の少年は、永久に帰ってこないような気がした。
『竜騎兵だ。決まっているだろう、あれはユーリの竜騎兵だ』
自分に言い聞かすようにカーラは答える。
その言葉を受けて、ジークは小さく鼻で笑った。
「そうか。では質問を変えよう、カーラ」
今度は真っ直ぐにカーラ騎の眼を見て、ジークは続ける。
「竜騎兵とは、何だ」
それは直接的なようで、ひどく概念的な問いだ。
恐らく、問われた人間の立場によって答えは千差万別だろう。
だが、ジークが問うているのは、もっと普遍的な概念についてだ。
竜騎兵の存在意義、その本質。
『竜騎兵は竜と戦うための兵器だろう、それがどうしたってんだ』
カーラの声に、明らかな苛立ちが感じられた。
そんな問答を続ける間にも、遥か上方から木々の軋む音が鳴り続ける。
「違うんだよ、カーラ」
言いながら、ようやくカーラ騎の方へ振り向いたジークが、遠い目で呟く。
違う、それはまだ真に到達すべき領域ではない。
竜騎兵は竜と戦うための兵器だと、誰もがそう思っている。
そして誰もが、その内側に潜む本質から無意識に目を背け、気付かないままでいる。
あらゆるものを喰らい、環境に応じて急激に進化し、今や世界の全てを支配せんとする最強の生物。
その竜と、矮小な人間が戦えるということ。
竜の骸を纏い、人ならざる力を振るうということ。
それはつまり。
ジークが冷たい目で、カーラが今まで見たこともない目で、笑う。
「竜騎兵はただの兵器ではない、器だ」
それは、人が竜になるための器なのだ。
彼は確かに、そう言った。
*****
眩暈、頭痛、耳鳴り。
五感の全てが悲鳴を上げ、暴れ狂う。
まるで体の中に潜む何かが、外に出ようとのたうち回っているようだった。
ユーリの意識は今、深い深い闇の中、混沌の渦に飲み込まれている。
そこにあるのは、怒りや憎しみといった人間的な感情ではない。
もっと原始的で暴力的な、闘争本能とでも言うべき感覚だ。
ユーリはほとんど無意識に羽虫を追い、攻撃を続けていた。
全身の血が血管を破らんばかりの勢いで駆け巡り、心臓が異常な速さで脈動する。
最早ユーリには、自分の状態すら正確に認識することができなくなっていた。
意識があるのか、体は動くのか、呼吸をしているのか、何もわからない。
ただひとつ鮮明なのは、竜騎兵から伝わる感覚だけ。
そして、自由になるのも、竜騎兵の感覚だけ。
もっと速く。
もっと高く。
そう感じるだけで、まるで自分の肉体のように自然に動く。
そうしたいと念じる前に、脚は木々を蹴り、爪は枝を掴み、尾は空を切る。
まるで、この竜の体が、最初から自分と一体であったかのように。
羽虫は距離を取ろうと高度を上げながら、ユーリ騎に対してあの見えない衝撃を放つ。
しかしそれは最早、ユーリ騎に掠りもしなかった。
羽虫がそれを放とうとした瞬間、僅かな空気の振動を感じ取ったユーリ騎は、直線的な動きを全身の重心移動を駆使した曲芸的な動きに切り替える。
木々を渡る獣のごとく幹に爪を立て、枝に尻尾を絡ませ、不規則な横軸の動きを加えながら羽虫に狙いを巧みに外していく。
放たれた衝撃を受けた幹は砲撃でもされたかのように砕け散った。
自身を支える力を失った巨木は、乾いた音を立てながら羽虫の方へとゆっくり倒れていく。
羽虫はその枝葉を避けるように、ほんの少し旋回するようにして高度を上げた。
だが、その上方。
羽虫の体を日の光から隠すように、大きな影が覆いかぶさる。
倒れゆく巨木の幹を足場にして再び高く舞い上がったユーリ騎が、上方から落下するような形で羽虫に飛びかかったのだ。
何の変哲もない小型剣から繰り出される、稲妻のような斬撃。
風圧だけで木の葉すら切り裂いてしまうほどに研ぎ澄まされた一撃を、それでも羽虫は驚くべき反応速度で捉え、回避する。
が、今度はそれだけでは終わらない。
ユーリ騎は剣を振り抜いた勢いで、そのまま体を捻って回転。
遠心力に任せて尻尾を羽虫へと叩き付けた。
途端に、羽虫の動きが出鱈目なものへと変化する。
尻尾の一撃は羽虫の本体を捉えることはできなかったが、代わりに高速飛行の要である透明な薄羽の一枚を、鋼で編んだ鞭で打ったがごとく引き裂いていた。
その傷付いた羽一枚が、致命的な機動力の低下に繋がる。
それまで空中を自在に泳ぐように飛んでいた羽虫は、狂ったように無軌道な動きで木々に体をぶつけながら落下していく。
翼竜のように風に乗って滑空しているわけではないため、左右非対称な羽の動きでは浮き上がることはおろか、姿勢の制御すらままならない。
空気も、重力も、もはや羽虫の味方などではなくなった。
たったひとつ羽を失っただけで、それらは羽虫の巨体を地上へを引きずり落とさんとする無慈悲な魔物へと変貌したのだった。
それでも羽虫は、下へ下へと引き寄せる力に抗う。
飛行は不可能だと判断したのか薄羽をその背に折り畳むと、強靭な六本の肢で手近な木の幹を掴み、落下の勢いを殺す。
爪のように尖った先端部が木の表面を引き裂き、深く抉り込むことによってようやく勢いは止まり、羽虫は木の幹にしがみ付くような形で停止した。
地面まで竜騎兵三体ぶんほどの距離。
どうにか地面に叩き付けられることだけは避けていた。
だが。
羽虫の体は、再び凄まじい勢いで地上へと真っ逆さまに落ちて行く。
巨木の幹に貼り付いた直後、上方から躍りかかったユーリ騎の手によって。
空中で姿勢を立て直したユーリ騎は、そのまま木々を蹴って高速で落下し、羽虫を追ったのだ。
一歩間違えば自分が地面に叩き付けられる自殺行為。
しかし、今のユーリにはそんな危険すら感じることはできない。
血走った眼は殺意だけを宿し、牙を剥いた口からは憎悪の唸りを上げ、ただひたすらに敵を追い、死ぬまで戦い続ける狂った竜。
いや、既に竜ですらないのかもしれない。
竜の体を持ち、人の狂気を宿したそれは、化け物としか言いようのない何かだ。
ユーリ騎は羽虫の背中に小型剣を突き立てる。
このまま地上に落下すれば、衝撃で剣先が外殻を貫通し内部に達するだろう。
ユーリは再び大きく咆哮を上げた。
心の奥底から自然に沸き出した、歓喜の叫びだ。
死ね、死ね、死ね。
死ね死ね死ね死ね!
歪んだ殺戮本能が、頭の中で渦巻く混沌から無尽蔵に溢れ出す。
だが、次の瞬間。
ユーリの喉の奥から、叫びと共に熱い液体が大量に吐き出された。
真っ赤な鮮血が飛び散り、ユーリの周囲は見る間に血の海となる。
操縦席に固定されたユーリの体、その腹を、太い槍のようなものが貫いていた。
それは羽虫の、蜂のように肥大化した下腹部から突き出された尻尾。
先端が鋭く尖った羽虫の尻尾は、守るもののないユーリ騎の上半身を背中から易々と突き破り、内部のユーリ自身をも串刺しにしたのだ。
破れた肺に血が入り込み、気道を通じて口から溢れ出る。
大量の出血、そして呼吸器官の損傷。
明らかな致命傷。
混濁していたユーリの意識はさらに遠くなり、ほとんど何も感じなくなる。
ただひとつ、胸の奥の、焼けるような熱さだけを別にして。
ほんの一瞬、力を失ったユーリ騎の腕が再び羽虫を捕え、素体となった肉食竜がそうするように、鋭い牙が無数に生えた口で噛み付いた。
まるで操縦者の意思など関係なく竜騎兵が勝手に動いているかのように、野獣そのものの狂暴さで外殻を砕き、内側の肉を喰い千切る。
ガラスを引っ掻くような羽虫の奇声が上がり、傷口からは寄生竜と同じ紫の体液が噴き出した。
そして一瞬の後。
一体の竜騎兵と一匹の虫竜は、絡み合ったまま地面へと叩き付けられた。




