補足と200の効能
【補足します】
前回で、200を書いていれば長編が上手くなる。と言った話でしめてしまったため、それを僕が実際に示さなきゃならんように思いました。“身から出たサビ”とはこのことですね。
壷を被った患者、港の奇術師、馬と思わく。
この3本は、僕が200と出会う前に書いたものです。ちょうど半年ほど前になります。そして、
キャンディ・フェアリー。
これは200を書き始めた後、ごく最近に着想を得て書き始めたものです。
本当は前の3本にすこしは似せて書き、わかりやすいビフォーアフターにしたかったのですが、何だか作風ごと変わりすぎて200の恩恵が見えにくい事態となってしまいました。ごめんね。というかわざわざ見比べてくれる嬉しくも酔狂な読者様がおられるかどうか、ですが。
とにかく! 作風ごと変えてしまうほど、200を書くことは創作の意識に影響を与えうるのです。よし、この流れでいこう。
【200は作れる!】
長編の定義はよくわかりませんが、たぶん50000文字くらいは要るのでしょうか? これが文庫本では、だいたい100ページ分くらいです。
それが300ページとなれば、3倍の150000文字に。
それでも、1作品。
200も、1作品。
となれば、初心者やあらゆる向上を狙う書き手なら、200を書いて鍛えるのは良い手でしょう。
やはり、作品を仕上げる、完成させる。これはすごく経験値になるのです。もちろん長編を書き上げたときなんかはもう、フルマラソンを走り終えたような感動があります(もちろん走ったことはない)。がしかし! 長編を書いた後というのはもうただただ達成感ばかりに支配されやすく、初めて書き出した去年の僕あたりももちろん浮かれてしまって、作品の良し悪しはおろか、反省点すら検知できない、まるで進歩しようの無いダメオ君状態でした。
そういう、盲目的な状況に陥る恐れがあるのです。
自分の書いた作品は、自分にだけすごく良く見えるもので。考えてみれば当然です! 例えば料理。自分のために作れば、当然好みの味付けやらになりますよね。ところが、人に食わせようとしたとたん、やれ火の入れ具合だ塩加減だとケチをつけられ、愕然とするでしょう。
作品は、不特定多数の方々に読ませ、さらにその方々を楽しませなければなりません。それが出来ねば習作や趣味どまりなのです。
たとえ習作だとしても、次、次、と向上しなくては! 当然のごとく!
世の中の作品をあっさり越える、それが“小説家になる”ためのハードルではないでしょうか。道はそれぞれだとしても、これくらいの気概は共通していそうに思います。
長編でふり絞る頑張り練習や持久力も大事ですが、書いた後に、その成果物からより多くの教訓を得られるだけの“感覚”がないと、とてももったいないのです。それこそ趣味でしかないのです。やって満足して終わり。
僕の場合ですと、長編2本まで、客観的には何ら楽しみにくい自己満足作品を書き、残念なことになりました。先月に書いた長編も、あるいはその後を追うかもですが。
今ではすこし、客観的にどの程度楽しめるか見えてきたような錯覚はありますが、そんなものは一生信用しないで、とにかく、作品を仕上げる、トータルで客観的に面白いか想像し、改善を狙う。
そこで200という、すべての文章、すべての展開が見渡しやすいスタイルで繰り返し、あるいは数回でもやってみますと、作品に対する認識に刺激が加えられると思います。
200は短く、書き上げた“酔い”に惑わされにくい、つまり客観的な冷めた目で作品の良し悪しを確認できるのです。
そう、教訓を得やすくなり、作品を書くことで上達していく、という必須で当然なはずなのに意外と会得しにくい感覚が、加速度的に養われていくのです!
この意味、このすごさだけは知って欲しいところです。しかし、これは個人の感想でしかない話であり、だからこそ共感をいただきたいがために200を試してみることをおすすめしている次第なのです。