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少年と精霊 (Prologue ― 第七楽章)

 村の外れの方にある一軒の家から、ピアノの音が流れてくる。元々その家からは美しいピアノの音色が聞こえてくると評判だったが、今日は少し様子が違う。

 部屋の中でピアノを弾いていたのは、幼い少年。あまり弾き慣れていないのだろうと分かる、ぎこちない音が耳に届く。

 

「ねえ、フォルツァンド……」

 

 突然少年の手が止まり、音がぴたりと止む。

 フォルツァンドと呼ばれた小さな人影は、この世界で精霊と呼ばれる存在。ピアノの蓋に腰かけていた彼は、その声に顔をあげ首をかしげる。

 

「もしぼくが、もっとはやくしってたら――――」

 

 言い終わるなり少年の体はぐらりと傾いで、そのまま床へと倒れこんだ。

 

 

 

 *****

 

 

 

 時は少しさかのぼる。

 

 少年の母は、ピアノを弾くのがとても上手かった。その腕前は、楽譜に描かれている情景を、聞いているものの目の前に映し出す、とまで言われたほどだったのだ。

 少年は母のピアノを聴くのが大好きで、いつも母に何か弾くようねだっては、ピアノのそばに入り浸っていた。……けれど、今となってはそれもできない。

 

 少年の母は、死んだのだ。

 村に現れた魅縺(オルコ)から少年をかばい、そのまま喰われてしまった。

 

 母の葬式の後、ピアノのそばに少年が座っていた。

 母が弾くのを聞いているいつもの位置に、いつものように膝を抱えて。いつもと違うことは、ピアノを弾く母がいないということだけ。

 たったそれだけの違いだが、それは絶対的な違いだった。

 

「……おかあさん……」

 

 泣き腫らして赤い瞳が、椅子の上をうろうろと彷徨う。まるでそれは、道に迷っているかのような……否。

 ような、ではなく、迷っているのだ。どうしていいのか、分からずに。

 

「……おかあ、さん……」

 

 小さな手が、何かを求めるように伸ばされる。

 開いたままのピアノの蓋と、のせられたままの楽譜。おそらく、少年が襲われた時も、母はピアノを弾いていたのだろう。それはそのまま残されている。そこだけ時が止まっているのか、窓を開けているのに風さえも入ってこないようだ。

 少年の腕から力が抜けて、ぱたりと下へ落ちていく。その途中でピアノに腕がひっかかり、たたかれた鍵盤が微かに音を立てた。

 

「……なっさけねー顔だなぁ」

 

 音が消えるか消えないかのところで、突然聞こえてきた声。

 思わずあげた少年の目に飛び込んできたのは、椅子の背もたれに腰かけている小さな人影――――精霊の姿だった。

 

「なーにぼけっとしてんだ? お前だろ? ウィル=フィアールカ」

 

 見たこともない存在に、少年は怯えてピアノの足の陰に隠れてしまう。しかし精霊の方は、そんなことはお構いなしとばかりに話し続ける。

 

「俺は“強さ”の精霊だ。名前は……おっと、お前が見つけねーとな」

 

 “見つける”という言葉の不自然さに精霊を見上げ、精霊のからかうような笑みと出会う。ほんの少しだけ興味がわき、ピアノの足の陰からそろっと出ていくと、精霊は少年の顔の前へと下りてきた。

 

「ヒントを教えてやるよ。俺の名前は、必ずこの部屋の中にある」

 

 見つけてみろよという精霊に、少年は少し戸惑いながらも、立ちあがって探し始める。部屋の中にあるものは、ピアノと楽譜、そして楽譜を入れるための本棚だけだ。少年は迷いなく本棚の前へと向かった。

 本棚の中には、何十冊という楽譜が入っている。しかし、少年の身長では、上の方の楽譜には手が届かなかった。仕方なく、下の方の棚だけで探してゆく。

 するとその中に一冊だけ、他の楽譜の何倍も厚いものがあった。引き出してみるが、どうやら楽譜ではなさそうである。それが何なのか、は精霊が答えをくれた。

 

「ああ、そりゃ“楽典”だ」

 

 楽典、と言われても少年にはぴんとこない。すると困っているのが顔に出たのだろう、精霊は続けて説明をしてくれる。

 楽典とは、楽譜の書き方や音の高低・速度などについての約束や規則のこと、またはそれらを記した書物のことで、「音楽の文法書」と言われることもある。楽器を演奏するにしても、歌を歌うにしても、必要な知識が詰まっている。音楽に触れる者ならば、必ず学ばなければならないものだ。

 少年は精霊の説明を聞きながら、ぱらぱらとページを繰っていく。すると、ふとある場所で少年の手が止まった。そこは強弱に関する記号を集めた項目。

 強弱に関する記号、というのは、楽譜を見たことがある人なら必ず目にしたことがあるはずだ。五線の上にfやmf、ppなどが書いてあるのを見かけたことがないだろうか。左から、フォルテ、メッゾ・フォルテ(メゾフォルテ)、ピアニッシモ(ピアニシモ)と言い、その記号から先をどの程度の強さで演奏するか、ということを表す印だ。それらは他にもいくつか種類があり、そのページでは一覧表にされている。

 その中の一つに、少年の目は吸い寄せられていた。その記号は。

 

「フォルツァンド(fz)……?」

「――――ご名答」

 

 少年が言った瞬間の精霊の表情。それはこの上なく嬉しそうで、そして誇りに満ちあふれていた。

 ふわりと風が舞い起こり、少年は楽典から顔をあげる。その瞳に映ったのは、精霊の前に浮かんでいる大きな本。今まで読んでいたものよりはもちろん小さいが、部屋にある楽譜よりは十分に厚かった。

 それは“精霊の楽譜(パルティトラ)”。精霊と少年をつなぐための道筋となり、少年の力を精霊に伝えるための媒体である。

 精霊はそれを少年に渡し、ページを開くように指示をする。

 傍目には何と書いてあるのか分からないタイトルに、一見するとまともに書かれているように思えるが、弾いてみると曲が成立しない譜面。しかしそれらは少年に対して何の障害にもなっていないようで、丸い目がゆっくりと音符を追ってゆく。

 

「読めるみてーだな。……んじゃあ、弾いてみろよ、それ」

 

 すると、困ったような瞳が精霊を見上げる。どうやら少年は、楽譜を読むことはできても、ピアノを弾いたことは無いようだ。

 そんな少年に対して、精霊は快活に笑ってみせる。

 

「へーきだって。それぞれの楽譜と俺ら精霊は同一なんだ。その楽譜(オレ)が言ってんだから、間違いねーよ」

 

 その言葉に後押しされ、少年は演奏用の椅子に腰掛ける。

 普段は母が座っていた場所。今は少年がその場所に座り、恐る恐るといったようにゆっくりと指を動かし始めた。

 今まで静寂が支配していた場所に、音が広がる。

 少年の音はお世辞にも滑らかとは言えないが、それでも形としての曲にはなっていた。拙いながらも、力強さを感じさせるような音。しばらく少年の演奏を聴いていた精霊は、曲が終盤になったところで満足そうに口を開く。

 

「これなら、接続者(リエズナー)としての素質は十分だな」

「……“接続者”?」

「ん? ああ、知らねーのか? 接続者は、俺ら精霊とつながって魅縺と戦うんだ。つまり、精霊とつながれる奴が接続者ってこと」

 

 それを聞いて、少年の指が一瞬止まり、何故か再び曲の最初から弾き始めた。疲れが出てきているのか、最初に弾いた時よりもぎこちなさが上がり、弾き間違いも増えている。

 少年の表情がぼんやりとしてきたところで、とうとう精霊が止めに入った。

 

「おい、何してんだ? もう止めとけ。それ以上やると倒れる――――」

「ねえ、フォルツァンド……」

 

 ぴたりと少年の手が止まり、顔が精霊の方へと向く。精霊が目をやると、少年は笑っていた。

 

「もしぼくが、ぼくが“接続者”だってことを、もっとはやくしってたら……」

 

 泣きそうな顔で笑っていた。

 

「……おかあさん、しんじゃわなかったのかな……」

 

「な……あっ! おい、ウィルっ!」

 

 言い終わると同時に、少年の体がぐらりと傾ぐ。

 精霊が慌てて支えようとするが、接続者の精神力で道をつなげている彼らは、接続者である少年の意識がない状態では現世界に存在できない。そのままの状態で、徐々に姿が薄くなってゆく。

 がたんという大きな音。その音が聞こえたのか、一人の青年が部屋に入ってきた。

 

「ウィル? 何して――――ウィルっ!?」

 

 青年は、倒れている少年を抱え起こし、何があったのかと辺りを見回す。するとその時、蓋の上にいた精霊と目が合った。

 しかしそれも一瞬のこと。青年が声をあげようとした時には、精霊の姿は消えてしまっていた。

 青年は少しの間何かを考え込んでいたが、やがて少年を連れて部屋を出ていく。その部屋には、ピアノと楽譜だけが残された。

 

 

 

 *****

 

 

 

 部屋に寝かされた少年。

 意識なく閉じられた彼の瞳からは、一筋の涙が流れ続けていた。その涙は、何かを流しつくすかのようにとめどなく、いつまでも止まらない。

 

 ――――そして三年の月日が経つその日まで、少年はこのことをすっかり忘れていた。

 


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