第3話「零という名の、人間失格」 Part 3
その夜。
図書室に戻った詠は、零に話しかけた。
アリアは紫乃の膝を枕にしてうとうとしている。ジョバンニは書庫の方に消えていた。零はいつものカウンターの端の壁際に背中を預けて、文庫本を読んでいた。
もちろん、太宰治。
「ねえ、零」
「何」
ページから目を上げない。
「零の原作、『人間失格』でしょ」
「……そうだけど」
今度は顔を上げた。警戒するような、面倒くさそうな、でもどこか身構えるような目。
「主人公の葉蔵って自分が偽物だって、知ってたんだよね。ずっと笑って、ずっとお道化て、本当の自分を隠してた」
零が本を閉じた。ゆっくりと。しおりも挟まずに。
「……何が言いたいの」
「それが零と似てる?」
零が一瞬止まった。まばたきひとつ分の沈黙。でもその一瞬に、この人の中で何かが揺れたのがわかった。
「似てない」
でも目が逃げた。さっきと同じだ。ポップの文章のことを聞いたときと同じ壁の方に、前髪の奥に。
「……零って、褒めるの下手だよね」
「は? 急に何」
「さっきのポップ。全部すごかった。特にあの手紙みたいなやつ。でも自分で書いたのに『知らない』って言った。それって、褒められたくないんじゃなくて、褒められ慣れてないんじゃない?」
零の唇の端が下がった。初めて見る表情だった。いつも上がっている口角。笑っているのか嘲っているのかわからないあの角度が、今は完全にまっすぐになっていた。仮面が一枚、剥がれたみたいに。
「……分析するなよ」
「ごめん」
「分析しなくていい。俺のことは。お前はポップの中身だけ見てればいい」
声が低かった。怒っているわけじゃない。でも、これ以上近づくなという線が、声色の中にはっきりと引かれた。
詠はそこで言葉を飲んだ。踏み込みすぎた。わかっていたのに。さっきポップのことを聞いたときは引けたのに、今回は一歩余計に踏み込んでしまった。零の中にあるものが見えるからといって、見ていいわけじゃないのに。
沈黙が落ちた。
アリアの寝息が聞こえる。紫乃が扇でアリアの髪を撫でている。窓の外で風が吹いて、本棚の隙間を空気が通り抜けた。ページがかすかにめくれる音。図書室の夜の音は、いつも優しい。
「……知られることが怖いんだ」
零が、自分から口を開いた。
驚いて顔を上げた。零は壁に頭をもたせかけて、天井を見ていた。
「葉蔵は自分を偽り続けた。笑顔で。道化で。本当の自分を誰にも見せなかった。それは似てるっていうか、わかるんだよ。本の中の話じゃなくて、この体にしみついてる感覚として」
「……零」
「俺は本から生まれた。だから原作の記憶がある。葉蔵が何を恐れていたか、体で知っている。読まれること。中身を見られること。」
言葉が途切れた。零が前髪をかき上げて、すぐに戻した。隠すみたいに。
わかる。
わかってしまう。私にもそれがある。知られることが怖い。
好きな本を言えなかった。SNSのアカウントを誰にも教えていない。クラスメートに心を開けない。転校を繰り返すたびに「どうせまた離れる」と自分に言い聞かせて、最初から距離を取る。全部、見られたくないからだ。
中身を見せたら、がっかりされる。「そんなもんか」「暗いね」と思われる。それが怖い。だから壁を作る。壁の内側で本だけ読んで、本だけに話しかけて生きていく。それが安全だと思っていた。
「……私も」
「何」
「私も、知られるのが怖い」
零がこっちを見た。天井を見ていた目が、まっすぐ詠に向いた。
「本の話になると早口になるの、自分でもわかってる。でも止められない。止めたら何も言えなくなる。だから普段は黙ってる。黙ってれば中身を見られないから。……莉子にも、冷たくしちゃった。褒めてくれたのに」
ずっと一人でいることを選んできた。傷つく前に離れる。知られる前に逃げる。転校を繰り返す中で身につけた処世術。それが優しくない態度になって、誰かを傷つけていたとしても。
零が黙って聞いていた。否定もしなかった。相槌も打たなかった。ただ黙って、壁にもたれたまま、詠の言葉を全部受け止めていた。
やがて、低い声で言った。
「……お前と俺は」
「うん」
「似てるかもな。ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「ちょっとだけだ。俺の方がかっこいいし」
「そこは比べてない」
「比べてなくても事実は事実だよ」
零が鼻で笑った。いつもの皮肉な笑い方。でもさっきまでの硬さが少しだけ溶けていた。唇の端が、また上がっている。笑っているのか嘲っているのかわからない。でも今だけは、笑っている方だとわかった。
「……まあ。お前の字の『あ』がかわいいのは事実だから」
「また言う! その話もう終わったから!」
「事実を二回言っただけだよ」
「二回も言わなくていい!」
零はそう言って文庫本を開き直した。会話はそこで終わり。でも壁にもたれた肩の力が、さっきより抜けている気がした。本のページに目を落とす横顔が、少しだけやわらかくなっている。
向こうでは紫乃がアリアの寝顔を見下ろしている。紫乃の目が、千年を生きた人の目が、とてもあたたかかった。
「アリアはよく寝ますね」
と詠が言うと、紫乃は
「この子はいつも全力ですから」
と扇を閉じて微笑んだ。アリアの金髪が紫乃の膝の上で広がっている。左右色違いの靴下が行儀悪く投げ出されている。でもその光景がなんだか、すごく正しいものに見えた。
帰り道。春の夜風が頬に触れた。暗い住宅街を歩く。どこかの家の窓から明かりが漏れている。誰かが起きている。誰かの夜がある。
零のことを考えていた。
この人の中にあるものが見える。鏡みたいだ。同じ種類の孤独を抱えている人間同士。
いや、零は人間じゃない、書人だ。でも関係ない。人間かどうかなんて、もう関係ないのかもしれない。向かい合ったとき、相手の中に自分が映る。怖いけど、ほっとする。「知られるのが怖い」と言ったとき、零が黙って聞いてくれた。否定しなかった。「わかる」とも言わなかった。でも「似てるかもな」と言った。それだけで十分だった。
でもジョバンニは違う。あの人の中にあるものは見えない。見えないから目が離せない。星みたいだ。手が届かないのに、目を逸らせない。「ずっと」と言ったジョバンニの声が、まだ耳の奥に残っている。見えなくてもある。ずっと。
(って、何考えてるんだろう私。本の話だよね? 本の。書人と人間の関係性を考察してるだけ。そうだよ。学術的な分析だよ。そうに決まってる。)
眼鏡を直した。誰も見ていないのに。
空を見上げた。ベガは見えなかった。雲がかかっている。でも。
「見えなくても、あるんだよね」
誰もいない夜道で、詠はジョバンニの言葉を繰り返していた。
明日、零のポップを一番目立つ棚に飾ろう。あの手紙みたいな文章を。零は嫌がるかもしれない。「勝手にすれば」と言うかもしれない。でもあの言葉は、誰かに届くべきだ。
そして莉子に明日こそ「ありがとう」を言おう。今度こそ。
(言えるかな。わからない。でも、言いたいとは思っている。)
それだけで、昨日の詠とは違う気がした。




