第3話「零という名の、人間失格」 Part 2
零とアリアの口喧嘩が始まったのは、全員でポップの文面をチェックしていたときだった。
紫乃がテーブルの上にカードを並べて「では一枚ずつ見ていきましょう」と言った瞬間、アリアが零のカードを一枚つまみ上げて叫んだ。
「ハードル下げすぎ! これじゃ本がかわいそう!」
「お前のは上げすぎだよ。『読まないと有罪』って書かれて本を手に取るやつがどこにいる」
「いるよ! 怖いもの見たさで読む人だっているもん!」
「それは読書じゃなくてホラー体験だろ」
「ホラーも立派な読書だよ!」
「論点がずれてる」
「ずれてない! ずれてるのは零の前髪!」
「髪型の話はしてない」
紫乃が二人のあいだに入って「まあまあ」と扇で空気を仰いだけど、まったく収まる気配がない。零の「うるさい」とアリアの「うるさくない!」が永遠にループしている。紫乃が困り顔で「これは長引きそうですね」と詠を見た。
そのとき気づいた。窓際に、ジョバンニがいた。
黒いコートの裾が月明かりに浮かんでいる。ボサボサの髪。暗い中でも光って見える目。いつからそこにいたのだろう。最初からずっと、騒がしい詠たちの声を聞きながら、ただ窓の外を見ていたのだろうか。
騒がしいやり取りとは別の時間が、ジョバンニの周りだけ流れていた。この図書室の中に、もうひとつ別の部屋があるみたいに。
零たちのバトルは当分終わりそうにない。詠はカウンターを離れて、窓際に向かった。
ジョバンニの隣に立った。何を言えばいいかわからなかった。でも、不思議と沈黙が苦しくなかった。この人の隣にいると、黙っていることが許される気がする。教室の沈黙には「何か喋らなきゃ」という見えない圧力がある。言葉を出さないと存在を認めてもらえない。でもジョバンニの隣の沈黙には、やさしい重力みたいなものがあった。ここにいていい、と空気ごと言ってくれている感じ。
後ろで「だって『有罪』はインパクトあるでしょ!」「インパクトの方向が間違ってる」というやり取りが聞こえる。その声がBGMみたいに遠くなっていく。
窓の外は、思ったよりも暗かった。街灯の光が遠くでにじんでいる。でもその上に、小さな光がいくつか見えた。
「……あの星、なに?」
詠は窓の外を指さした。
「……こと座のベガ」
ジョバンニの声は、いつも遠くから届くみたいだ。すぐ隣にいるのに。空のどこかを通過してから耳に届くような、不思議な響き方をする。
「織姫星」
「織姫」
「うん。……天の川を挟んで、向こう側にアルタイルがある。彦星」
ジョバンニが窓ガラスの向こう側を指さした。その指先はかすかに透けていて、ガラスの向こうの夜空と混ざり合っているように見えた。
「でも今日は曇ってるから、アルタイルは見えない」
「……見えなくても、あるんだ」
「……あるよ。ずっと」
ジョバンニがこっちを向いた。目が光っていた。暗がりの中で、星みたいに。
あ。
心臓が、跳ねた。
理由がわからなかった。星の話をしていただけなのに。でも「ずっと」という言葉が胸に落ちたとき、何かがぎゅっと締まった。見えなくても、ある。そういう確かさが、ジョバンニの声にはある。
慌てて眼鏡を直した。レンズの奥に感情を押し込むみたいに。
「ジョバンニは、星が好き?」
「……好き、というより……知っている、のほうが近い」
「知っている?」
「僕は、鉄道で旅をした。銀河を走る鉄道で。窓の外にはずっと星が流れていた。だから星のことは、体が覚えている」
原作の記憶。銀河鉄道の夜。ジョバンニは本の中で銀河を旅した少年だ。その記憶がこの人の中に、まだ残っているということ。
「じゃあジョバンニにとって、星は景色じゃなくて」
「……思い出、かな」
思い出。
その言葉の重さが、声のトーンで伝わった。楽しいだけの思い出じゃない。その旅の終わりにはカムパネルラがいなくなったのだから。
あの旅は、きっと別れの旅だったのだ。
「……きれいだね、ベガ」
「……うん」
ジョバンニが微笑んだ。少年みたいな顔だった。星の話をするときだけ見せる表情。普段の静けさとは違う、やわらかくて、壊れそうな透明さ。星空を映した水面みたいに、触れたら波紋で消えてしまいそうな笑顔。
詠は自分の心臓の音が聞こえた気がして、もう一度眼鏡を直した。
なんだろう、これ。零と話しているときとは違う。零は「わかる」。零の中にあるものが見える。鏡みたいに、自分と同じものが映っているのがわかるから、安心する。怖いけど安心する。
でもジョバンニは「わからない」。この人の中に何があるのか見えない。見えないのに、目が離せない。見えないから離せないのかもしれない。
ジョバンニがまた窓の外を見た。横顔の輪郭が月明かりに縁取られている。コートの襟元から覗く首筋が、やけに細く見えた。この人は本から生まれた存在で、人間じゃなくて。そんなことを考えてから、詠は慌てて思考を振り払った。関係ない。人間かどうかなんて、今は関係ない。
向こうでは零とアリアがまだ言い合っている。
「だーかーら! ハードル下げすぎって言ってんの!」
「下げなきゃ誰も跨がないんだよ」
「跨ぐって言い方がもう低い! 飛ぶでしょ普通!」
「飛ばねえよ」
紫乃が「お二人とも、そろそろ……」と仲裁を試みているけど、止まる気配はゼロだ。
詠はこっそり笑った。この距離感が好きだった。ジョバンニの静けさと、あっちの騒がしさと、どっちも夜の図書室の景色だった。昼間の図書室にはない、ここだけの空気。ここだけの温度。
翌日の昼休み。
ポップを棚に立てかけ終わったとき、後ろから声がした。
「これ、柊木さんが作ったの? すごい」
振り返ると、木野瀬莉子がいた。クラスメートの女の子。
莉子はポップを見つめていた。零が書いた文章。でも莉子はそれを詠が書いたと思っている。
「別に大したことじゃない」
つい、そう言ってしまった。本当は零が書いたんだよ、とは言えない。零のことは秘密だ。でも「大したことじゃない」は嘘だった。零の言葉はすごいと思っている。それを「大したことじゃない」で片づけた自分が嫌だった。
莉子の表情が一瞬だけ曇った。ほんの一瞬だけ。前の体育のときも、こういう顔をさせた気がする。「頼ってくれてもいいのに」と莉子が言った声が、ふいによみがえった。
「……そっか」
莉子が小さく笑って、引き下がった。諦めた笑顔だった。怒ってもいない、責めてもいない。ただ「そっか」と受け入れて、そっと距離を戻す。その控えめな優しさが、むしろ胸に刺さった。
また背中を見せて、教室の方へ歩いていく。
あ、今の、冷たかったかも。莉子はただ褒めてくれただけなのに。「ありがとう」が言えなかった。喉まで来ていたのに、唇が動かなかった。あるいは「実はね、友達が書いてくれたんだ」と言えたら。でもその「友達」が本から生まれた存在だなんて説明できるわけがないし、そもそも詠は莉子を「友達」と呼べる距離にすらいない。
声をかけ直そうとして。でも、莉子はもう廊下の角を曲がって消えていた。横顔が一瞬だけ見えて、それきり。
追いかける勇気は、まだ詠の中にはなかった。




