第3話「零という名の、人間失格」 Part 1
購買のショーケースの前で、詠は今日も絶望していた。
メロンパンの札の下には、無慈悲な売り切れの文字。
この学校のメロンパン、一体何時に並ぶの。詠がこの学校に転校してきてから一週間、一度もメロンパンを買えた試しがない。あのふわふわの生地にカリカリのクッキー皮が乗ったやつ、食べたいだけなのに。ただそれだけのささやかな願いすら叶わないのが嫌になる。
「いっつも売り切れなんだよな、あれ」
隣から声がした。見上げると、隣のクラスの男子が同じショーケースを恨めしそうに睨んでいた。背が高くて、制服の袖を雑にまくっている。日に焼けた腕。体育会系の匂い。サッカー部っぽい。
「あ、図書室の子。柊木でしょ」
「……なんで知ってるの」
「お前、昼休みも放課後も図書室にいるから有名だよ。あとサーブ入らないのも有名」
「余計なお世話」
男子が笑った。カラッとした、陽なたの匂いがしそうな笑い方だった。このタイプの人間は苦手だ。距離が近い。すぐ名前を覚える。すぐ話しかけてくる。詠みたいに壁を作ることを知らない人種。
「倉橋日向。隣のクラス。よろしくな」
詠は「……柊木詠」とだけ返して、結局ブロックタイプのバランス栄養食を買った。メロンパンの代わりがバランス栄養食って、あまりにも味気なさすぎる。
五時間目が終わった放課後、詠は図書室のカウンターに座っていた。
烏丸先生から頼まれた仕事がある。「今月のおすすめ本ポップ」の作成。手書きのカードに本の紹介文を書いて、棚に立てかけるやつだ。先生は「詠ちゃんの言葉のセンスなら素敵なの書けると思うよ」とにこにこ言ってくれたけど、そのあとすぐ「あ、でもポップ用のカード代は予算ないから自前でね」と笑顔で付け足した。予算ゼロ。この先生、天然なのか天才なのかわからない。
正直、文章を書くことは嫌いじゃない。自分のSNSアカウントでは短い書評をいくつも書いてきた。でもあれは二十三人のフォロワーに向けたもので、誰が読んでいるかもわからない気楽さがあった。顔が見えない相手だから言葉にできることがある。
図書室のポップは違う。この学校の生徒が見る。廊下ですれ違う人が読む。顔が見える距離にいる人間に、自分の「好き」を差し出すということ。それは思っていたより、ずっと怖い。
ペンを持ったまま、十五分が過ぎた。一文字も書けていない。
「好きな本を教えてください」
あの最初の授業で言えなかった言葉がよみがえる。好きだと言うことは、自分の内側を見せることだ。見せた瞬間、否定されるかもしれない。「暗そう」と笑われるかもしれない。
今夜、書人たちに相談してみようか。
閉館後の整理ボランティアの時間。蛍光灯が落ちて、窓から月明かりが差し込むと、図書室の空気が変わる。昼間のざわめきが嘘みたいに消えて、本棚のあいだに、ひとつ、またひとつと光が灯るように、書人たちが姿を現す。
もうこの光景にも慣れてきた自分がちょっと怖い。だって普通じゃないでしょ、本が人間になるの。でも「普通」って何だろう、と最近よく思う。
「ポップ?」
零が壁にもたれたまま、こっちを見た。くたびれた白シャツ。灰色のチノパン。前髪の隙間から覗く目は、いつも何かを見透かしているみたいで落ち着かない。唇の端がかすかに上がっている。笑っているのか、嘲っているのか。この人の表情はいつも読めない。
「うん。おすすめ本の紹介カード。先生に頼まれたんだけど、全然書けなくて」
「書いてやろうか」
「え」
「本から生まれたんだから、言葉くらい扱えるよ。まあ、君の字よりは読みやすいんじゃない」
「見てないじゃん私の字」
「さっきメモ書くとき見えた」
「……で?」
「『あ』の形がちょっとかわいいね」
え。
かわいいって言った? 今の? 字のこと? 字のことだよね? でも「字がかわいい」って言い方、ちょっとずるくない? 字を褒めてるだけなのに、なんか、こう、なんで急に言うの?
詠が完全にフリーズしている間に、零はもうカウンターの上のカードを手に取って書き始めていた。なにごともなかったかのように。涼しい顔で。ペンを走らせる横顔には、いま自分が何を言ったかなんて微塵も気にしている様子がない。
この人、爆弾を投げて自分だけ真っ先に逃げるタイプだ。絶対そうだ。
「零! 私も書く! 私も!」
アリアが金髪をぴょんぴょん揺らしながら駆け寄ってきた。左右色違いの靴下。もう突っ込まないことにした。
「お前が書くと全部『なんで読まないの?』になるだろ」
「ならないよ! ……ちょっとしかならないよ!」
「ちょっとはなるんだ」
「だって読まない人の気持ちがわかんないんだもん!」
アリアの手元を覗くと、カードにでっかい字で「読まないと有罪!」と書いてあった。しかもご丁寧に赤ペンで下線まで引いてある。
「……脅迫じゃん」
「裁判だよ! 退屈罪で有罪!」
「アリア、それでは誰も手に取りませんよ」
紫乃が扇を口元に当てて、困ったように微笑んだ。深紫の重ね着がさらさらと揺れる。
「えー! じゃあなんて書けばいいの!」
「そうですね……『あなたの知らない世界が、ここに眠っています』などいかがでしょう」
「紫乃のは上品すぎる! もっとこう、バーン! って感じがいいの!」
「『バーン』では伝わりません」
零がため息をつきながらカードを書き続けている横で、アリアと紫乃の言い合いは続く。詠はそのやり取りを聞きながら、零が仕上げたカードに目を落とした。
流れるような字。読みやすくて、でもどこか色気がある。そして書いてある言葉は、意外なほどやわらかかった。
「難しそうって思った? 大丈夫。最初の三ページで世界が変わる」
「……ハードル、下げてるんだ」
「当たり前だろ。ポップは入口なんだから。最初から高い壁を見せてどうする。ハードル下げてやるんだよ。読んでみようかな、って思わせれば勝ち」
零はそう言いながら、次々とカードを書いていった。
一枚、また一枚。短い言葉の中に、本の核心をそっと忍ばせるような文章。押しつけがましくないのに、読んだら気になって手が伸びてしまう、絶妙な距離感の言葉たち。
この人、言葉を扱うのが本当にうまい。さすが太宰治の本から生まれただけある。
でもそのとき、詠の目が一枚のカードで止まった。他のカードとは明らかに空気が違った。
「誰にも言えない夜がある。そういう夜に、この本はそっと隣にいてくれる。たったそれだけのことが、たぶん救いだ」
おすすめポップというよりも、手紙だった。どこかの誰かに宛てた、とても個人的な手紙。孤独な人間のすぐ隣に座って、何も言わずにただ存在してくれるような文章。
「零。これ、誰に向けて書いたの?」
零のペンが止まった。ほんの一瞬だけ。
「……知らない」
目が逃げた。壁の方を向いて、前髪の奥に表情を隠した。
嘘だ。知らないわけない。こんな文章を「知らない」で書ける人はいない。
でも詠はそれ以上聞かなかった。聞いちゃいけない気がした。この人の中にあるものに、今の私が踏み込んでいい距離じゃない。
零は再びペンを取って、別のカードを書き始めた。何事もなかったように。でも、さっきまでの流れるような筆跡が、ほんの少しだけ硬くなっていることに、詠は気づいていた。
詠は零のカードをそっとカウンターの端に寄せた。明日、一番目立つ棚に飾ろう。この言葉は、きっと誰かに届く。零が「知らない」と目を逸らした誰かに。あるいは、零自身に。




